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近鉄D大阪線快速急行・急行・普通桔梗が丘駅(D50)←美旗駅(D51)→伊賀神戸駅(D52)2024年12月8日(日)に訪問した、近鉄D大阪線美旗駅の画像をUPします。相対式ホーム2面2線の地上駅で、無人駅です。美旗古墳群の最寄り駅です。改札口です。美旗駅の1番のりばの駅名標です。駅ナンバーは、「D51」です。美旗駅の2番のりばの駅名標です。美旗駅の1番のりばの鳥居型駅名標です。美旗駅の2番のりばの鳥居型駅名標です。以上です。近鉄D大阪線快速急行・急行・普通桔梗が丘駅
大原野の古墳について記しています。家から遠くはないので、車ならそれほど時間がかからずに見に行くことができます。今まであまり関心がなく、わざわざ見に行くことはなかったのですが、リタイアして暇ができ、一つ見に行くと興味が湧いてきて、次々と探訪したくなりました。今回見に行ったのは「下西代(しもにしだい)古墳」(2号墳)です。大原野灰方(はいかた)町から石作(いしづくり)町へ向かう道(府道733号線)を少し北へ入った所にあります。入口の看板がだいぶ草臥れていますが、よく見る
2025年3月27日慶州の歴史地区をぶらぶらここは韓屋ホテルかな?素敵なレストランここはレストランかな?とにかく韓屋だらけ^^小雨模様だけど夜の観光は今日だけなのでカカオタクシーで目的地まで今回の旅は全てタクシーを利用!全12回すぐに配車できるのでストレスゼロ☝️到着したのは橋のライトアップが見事な月精橋/ウォルジョンギョ南山と王宮を結ぶ交通路で橋の長さ66.15m幅9m、高さ9m橋は2009年に復元、2対の門楼は2017年に復元実際に歩いて渡ることもできる月精橋
🚲堺街歩き#1お天気の良かった週末、家族で堺に行ってきました。電車で最寄駅まで行き、自転車を借りて周る我が家定番のスタイル🚲街歩きのスタートはJR三国ヶ丘駅。駅近くで自転車を借りて、古墳をチラ見しつつ「百舌鳥古墳群ビジターセンター」へ。堺といえば仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳群が有名。これらの古墳群は「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産登録されています。#百舌鳥は「もず」と読みます#大阪の難読地名としても有名ビジターセンターは「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵拝所」のすぐ側に
愛知県名古屋市守山区に「しだみ古墳群ミュージアム」という博物館があります。その古墳のある公園でのへっぽこ謎解きレポートです。社会科でも、地理は、理科と密接な関係にあります。この前も、海流の名前を何年生で履修するのか、聞きに行きました。(それは、一方的にお世話になってるって言うのでは…?)河川改修技術とかは、理科ではなく社会で学びますし、…つまり、何が言いたいかと言うと。ちぃぱっぱは、社会科分野も好きです(公民は除く)なので、人類の起こりとか、邪馬台国の九州説とか、聚楽第の想像図とか、戦国武
小田急線鶴川駅は武相荘を訪ねた時に何度か降りた駅、その駅前の鬱蒼とした樹木に覆われて高台はいつも気になってました。ここは鶴川香山園、書院造の「瑞香殿」と池泉回遊式庭園の「直ヶ谷之郷」で構成された地元の名主の神蔵家の屋敷でした。NHK大河ドラマにも使われましたが、神蔵家の管理が難しくなり町田市が買い取り2025年1月から市の公園となりました。瑞香殿は明治39年(1906年)築の寄棟造・本瓦型銅板葺の単層建築で、社寺建築の向拝のような豪華な玄関と長大な銅板葺屋根は住宅とは思えない外観ですこ
今日・明日とアップするのは奈良市にある秋頭(あきがしら)古墳群。大きな前方後円墳がたくさんある佐紀盾列古墳群に囲まれた丘陵上に秋頭古墳群があります。↑国土地理院の航空写真(赤い文字はふっき~が加筆)地理院地図/GSIMaps|国土地理院十数基からなる秋頭古墳群(現存4基)、築造時期は5世紀後半~6世紀前半とのこと。現存しているはずの秋頭1号墳は見つけられず↑こちらが秋頭2号墳、北側から左側が後円部、右側が前方部の前方後円墳。場所はこちら:34.7051
こんばんは。割と無名な古墳に行きました。2代目大工の三島です。ある平日の朝。今日は嫁さんと喫茶店へ。パンの美味しいモーニング。優雅に過ごしたその後。車で移動したのちに別行動。嫁さんは仕事。私は積んできた自転車にまたがる。私は今日、休みなんですよね〜。そんなワケでいざ出発。とは言えココから割とすぐ近く。Googleマップによるとこの辺り。奥へ100メートルほど進むと行き止まり。でも良いのです。目的地は隣の山にあるのですから。ふむふむ。このどこかにアレが……そう
大成古墳群展望台より現在の京都府京丹後市~亀岡市、兵庫県の篠山市辺りは古くは「丹波」「丹後」と呼ばれていました。しかしその呼称は和銅6年(713年)以降のものだそうです。「続日本紀」和銅6年の記述に「丹波国の五郡を割きて、はじめて丹後国を置く」とあるからです。つまり「丹後」という地名は和銅6年以前はなかったということになります。記紀によればこの地域は「旦波」「丹波」と表記されていましたが読みは「タニハ」だったと推定されているようです。