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PayPayドームで野球観戦昨日は、福岡へ野球観戦に行ってました。ソフトバンクホークスvs楽天イーグルスの試合。ナイター試合だったので、隣接するシーホークホテルに宿泊。チェックインして、すぐにユニフォームに着替え、いざPayPayドームへ。寝るだけなので、シンプルなツインルームにしましたが、眺めは最高!ベッドや私の服がガラスに映ってしまってます試合開始時には満席!ふうちゃん、こふうちゃんホークスを応援してる私達としては残念な結果。4vs3で負けてしまいました。でも、6年ぶりに
藤川球児の極度の偏食は例外だろうが、阪神タイガースの選手は、他のチームの選手との比較で食が細いと言われるその一方、野球選手としては肥満気味の身体だった選手もいた特に、江夏豊さん、田淵幸一さん、遠井吾郎さん(故人)がいた頃には、相撲部屋阪神と揶揄された南海ホークスが鶴岡一人監督の下で黄金時代を築いていた頃、南海ホークスファンだった料理研究家土井勝さんは鶴岡監督の依頼で、中百舌鳥にあった選手寮「秀鷹寮」の寮食の献立を組んでいたのだしかし、南海ホークスと土井勝さんの提携は鶴岡監督が勇退した時に
⚾️🥎福岡ドーム遂にフィールド内へ⚾️🥎3塁側のダグアウト内で南海ホークスユニフォームとの写真も撮影📸インスタグラムへ投稿ピッチャーズマウンド⛰️1塁側は何故かついたてがありで入れず...🏟️福岡DOME🏟️🏟️福岡DOME🏟️⚾️🥎福岡ソフトバンクホークス2024美破VIVA‼︎⚾️🥎[にほんブログ村]下記↓クリック応援よろしくお願いしますにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
大リーグボール2号を打たれた事で完全に心が折れてしまった飛雄馬川上監督にオールスター戦の出場辞退と引退を願い出るが「お前は全てかゼロしかないのか」と却下される一方ライバル花形も父親の花形モータース社長から野球を引退して後を継ぐかどうかをオールスターの飛雄馬の結果で決めるという賭けをさせられるそんな中大敗しているオールスター第一戦でついに飛雄馬は登板を命じられたここは花形モータースの本社たがTESTというプレートの車は、3代目ブルーバードっぽいやはり花形モータ
桑田佳祐と原由子が幼少期を過ごしていた頃、石原慎太郎が『太陽の季節』を書き、「太陽族」が社会現象を巻き起こすと、その「太陽族」の象徴として、慎太郎の弟・石原裕次郎が登場し、一躍、大スターになった。そして、それは「湘南」に人々の目が向けられるキッカケともなった。また、プロ野球界には、長嶋茂雄という、新たなスターも登場した。桑田佳祐と原由子は、歌が大好きな子供だったが、桑田佳祐と原由子が、より一層、音楽に目覚めて行った頃、日本の芸能界・歌謡界も、次々に新たなスターが誕生し、華やか
今年の夏はほとんど女子活できませんでしたうだるような暑さなーんにもする気が起こりませんでしたここへ来てやっと酷暑が去ったのでこの夏やりたかったことをなんとか実行してきましたことしは緑色の服が流行ってます時は来た!!!!!いやお前じゃないちょっと乗り遅れた感あるけど緑色の服を着て外出してきましたトップスH&Mスカートclearやっぱり攻めた感じがしますねさて、どこへ行こうかな?とりあえず梅田へ向かおう梅田の人混みのなかで緑色の女埋没できるかチャ
ホークスの歴史は、鶴岡一人、野村克也、そして「あぶさん」こと景浦安武という3人を物語れば、ほぼ全てが繋がると言っても過言ではない。この中で、「あぶさん」は水島新司が描いた漫画のキャラクターであるが、南海・ダイエー・ソフトバンクと変遷する、ホークス激動の歴史の生き証人でもある。(左から順に、『あぶさん』の原作者・水島新司、野村克也、水島新司原作の『野球狂の詩』の出演者・木之内みどり、小池朝雄)今回は、ホークスの歴史を、上記の3人と、ホークスが九州に移転して以降のマスコット、「ホー
南海ホークスホーム用・ビジター用1974年〜1976年、1977年限定ホーム用ユニフォーム1976年、1977年略年表1974年《ホーム・ビジター共通》ピッツバーグ・パイレーツ型と併用する形で採用。4月頃のみアンダーシャツが黄色になるが、後に緑に変更。アンダーソックスに黄色を採用。1975年《ホーム・ビジター共通》Vネックのラインが黄色・白・黄色に変更。左袖にペットマークが入る。こちらは1977年まで。1976年限定ホーム用ユニフォーム(プロトタイプ)を採用。197
宅和本司1935年7月18日生まれ、福岡県北九州市門司出身1954(昭和29)年、野村克也やのちの30勝投手皆川睦夫投手と同期で入団したのが宅和本司投手だ。門司東高校時代から剛腕投手として知られていたが、甲子園出場はならず、南海ホークスへ入団した。当初、鶴岡監督は中日に入団した空谷投手や巨人へ入団した広岡達郎を狙っていたが思うような新人補強が出来なかったと思っていたところ、柚木進投手から「親分、宅和は行けますぜ!」と見込まれた。鶴岡監督も改めてブルペンの宅和を見る
昔の選手は。素手でバットを握る。サムライみたいだな。カッコいい!門田さんの激走!!昔は強肩の外野手だったらしい。信じられない。ブーマーにハイタッチされて肩を脱臼した珍プレーが忘れられない。
Sランク捕手国内新人選手Sランク捕手リスト出身地近畿成長超晩成衰え早め初期値評価その知名度に反して初期値は低め。史実でも一年目は控えどころか壁だったので当然といえば当然。打撃も走力に劣るような有様。残念ながら即戦力ではない。しかしながら肩とCリードは新人にしては少し高い程度にはあるので球団解体直後ならこれよりひどい選手もいるので場合によっては…いやそれでも留学をさせてあげた方がいい。全盛期評価年齢的な全盛期長打がS+になっており走力もBに近いCで盗塁も狙える
現在、連載中の「サザン史・外伝【連続ブログ小説】『クワタとハラ坊』」というシリーズ記事は、私自身も、書いていてとても楽しいのだが、1つ1つの記事を仕上げるためには、少し時間がかかる。ちょっと気合いを入れて(?)書いているシリーズ記事であるが、一旦、ちょっと「お休み」させて頂き、今回は、肩肘の凝らない(?)記事を書かせて頂きたい。今回、取り上げるのは、かつて阪神タイガースに在籍していた赤星憲広が、試合後のヒーローインタビューで、思わずファンに対して言ってしまった一言、「入ってね
前回の記事では、ヤクルトスワローズの球団史に大きく関わる、広岡達朗、野村克也と、彼らとソリが合わない上司、川上哲治、鶴岡一人との「確執」について描いたが、今回は、彼らと、その後のヤクルト球団史にも大きく関わる、森昌彦との関わりについて、描いて行く事としたい。広岡達朗、野村克也の人生を語る上で、川上哲治、鶴岡一人の存在は欠かせないが、森昌彦もまた、彼らの生涯において、最重要人物だった事は間違い無い。そして、広岡達朗VS川上哲治と、野村克也VS鶴岡一人の「対立」は、遂に決定的となっ
⛩️筥崎宮⛩️今年もホークス優勝祈願へ︎👍🏻̖́-⛩️めざせ世界一‼︎⛩️裏側も︎👍🏻̖́-🦅福岡ソフトバンクホークス⚾️パシフィックリーグ優勝🥇と日本一🇯🇵を祈った🏆🏆⛩️筥崎宮⛩️[にほんブログ村]下記↓クリック応援よろしくお願いしますにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
今日はちょっとNPBなお話し。BallparkBarのある大阪・難波には、かつて南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)というプロ野球チームがありました。マスターも子供の頃に試合をよく観に行きました。その南海ホークスの本拠地・大阪球場の跡地には現在、複合商業施設「なんばパークス」となっています。ここが大阪球場の跡地だと示すものとして、南海ホークスメモリアルギャラリーの他に、ピッチャープレートとホームベースのオブジェがコンコースの床に埋め込まれています。そのピッチャープレートとホーム
(旧)如月八日古地図には難波御蔵と書かれのち大阪球場、なんばパークス雲端なんばパークスの北東角なんばCITY南館入口前に「難波御蔵難波新川跡」の碑がある。古地図を見れば難波新川の突き当りが難波御蔵だったことがわかる。ここに備蓄された米を搬出するために掘られたのが難波新川なのだ。現在、その難波御蔵は「なんばパークス」という商業施設になった。その前は南海ホークス(現ソフトバンクホークス)のホ
本日(5/19)は、1993(平成5)年5月19日、神宮球場で行われたヤクルト-広島戦で、何と、「ヤクルト17-16広島」という、物凄いスコアでの大乱戦が有った日である。「17-16」というスコアは、今もなお、「プロ野球史上最大スコアでの1点差試合」として、記録に残っている。このように、野球の試合において、投手陣が総崩れになり、両チームが激しく打ち合い、大量点を取り合う試合を「乱打戦」というが、そのような展開を、俗に「馬鹿試合」ともいう。というわけで、今回は、1993(平成5
10月7日(土曜日)は問屋の展示会でした。取引先が展示会を開催し、普段はパスなのですが営業マンがどーしても来てください!とお願いするので、嫁と二人で行ってきました。(訪問者数ノルマでもあった?)展示会は特に商談もなく30分くらいで終了。せっかく博多方面に来たし、今日はペイペイドームは試合は無いがイベントをやっているので立ち寄りました。試合開催日じゃないので、普段は大混雑してる球場も閑散として、殆どのお店も休業中。隣接する施設で食事し、一度はきちんと見