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道満塚から東へ直線で500メートル、谷を1つ越えた山腹に晴明塚があり、道満塚から、うっそうとした竹林や松林を抜ける道がありますが、車で車道を通って行きます。いぶし清明塚宝篋印塔兵庫県佐用郡佐用町大木谷1304無料駐車場あります晴明塚に着きました。ここには駐車場と簡易トイレがあり、観光地によくある「顔出しのパネル」もあります。この先に、安倍晴明にまつわる碑があります。宝篋塔という墓が、この佐用町に残る言い伝えによると、晴明はある目的のためにこの地を訪れました。それは“蘆屋道満抹
12/10(日)は、兵庫県佐用町で開催されました第17回さようマラソン(ハーフ)に参加しました。兵庫県の大会に参加するのは先月に続いて49回目、ハーフマラソンに参加するのは2週間ぶり96回目です。大会当日は5時過ぎに起床し、6時前に家(神戸)を出発。車で西側へ進み、播磨自動車道の播磨新宮ICで流出。ICを出て5分程で、大会駐車場のテクノ特設駐車場に到着。そこから無料シャトルバスに乗車し、7時30分ごろ大会会場の三日月中学校に到着して受付を済ませます。
佐用町の名物のホルモンうどん佐用町には多くのホルモンうどんのお店がありますB級グランプリでもおなじみですねホルモンうどんと言えば岡山県の津山市も有名ですが佐用町も有名なんです津山・佐用同じホルモンうどんですが食べるスタイルが違います津山のホルモンうどんはお皿で出てきてそのままいただきますが佐用のホルモンうどんは鉄板の上で食べつけダレにつけていただきますどちらが美味しいのかは好みの問題かと…私たちは佐用ホルモンうどん派定期的に津山vs佐用のホルモンうどん対決も行われて
早瀨城(佐用郡佐用町早瀨)創築年代は明らかでないが、羽柴秀吉が佐用郡へ進攻した時、上月城とともに落城した時の城主は赤松次郎政直であった。落城後、上月城へ尼子氏が入城するとともに早瀨城は尼子十勇士の1人である寺本生死之助が在城した。天正六年(1578)七月、毛利の大軍に攻められ、上月城とともに落城、その後廃城となった。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)白山神社(南七郭?)南七郭南東腰曲輪南東八郭南東八郭上段北帯曲輪南東六郭南東五郭南東四郭南東四郭東帯曲輪南東四郭からの南竪堀
こんにちは^^初めましての方はこちらから♡結婚式を終えて、3ヶ月以上が経過しましたが、今改めて、じわじわと、式挙げて本当に良かったなぁっていう気持ちに2人でなってます"心は繋がってる"って、もちろん信じてるんですけど、イギリスに来てから、なかなか日本に住んでる大切な方々と会えなくなってしまい、より一層思います♡だからこそ、式の時に渡英前に皆さんに会えて、私たちなりに感謝の気持ちも伝えられて、本当に良かったねって。。(><)改めて、あのとき来てくださった方々、式を手伝ってくださった
久しぶりのキャンプに行って来ました今回の場所は兵庫県佐用町にある『南光自然観察村』前に一度予約が取れてたんだけどコロナによる緊急事態宣言により強制キャンセルになってしまい今回はリベンジも兼ねて行ってきました↑『入口』って書いてるけど帰る時もこの橋を渡ります。離合出来ないので前から車が来てないか確認してからの侵入必須です🚗予約したサイトは電源付きフリーサイト⛺️最近新しく出来たサイトのようで区画も勿体無いくらい広くて大満足トイレも近くて綺麗🚻キレイなトイレだからサイト
佐用町の芝桜と電車を堪能した帰り道佐用町の芝桜&電車の風景『芝桜を楽しむ』芝桜と智頭線天気が良かったので芝桜を見に行ってきましたヤマサ工場の芝桜もいいけれどこちらも結構凄いですよ〜智頭線の線路沿いに果てしなく続いてますありがたすぎ…ameblo.jp立ち寄った道の駅で卵を見つけつい衝動買い帰宅して早速ご飯を炊いて、、、チビ助さんは熱々ご飯をどんぶりによそい贅沢にもんじろうの卵を2個のせ画像からも分かるように白身はプルンプルン硫黄臭のような独特の匂いはなく黄身は濃厚でめち
櫛田城(佐用郡佐用町櫛田字宮山)別名:宮山城この宮山に城を築いたのは長田山城主(南光町土井)得平三郎頼景の次男有景(『日本城郭全集』には頼景の孫とある)で、地名の櫛田をとって櫛田八郎有景と称した。以後、有諸(有景の長子)、有喜(有諸の末弟)、有興(有諸の子)、有祐(有興の子)、有範(有祐の弟)と相続して城主となった。七代目有兼の時、嘉吉の変(1441)が起こり、播磨に進攻してきた山名氏に滅ぼされた。赤松政則が赤松家再興の後、寛正六年(1465)櫛田氏の子孫が再びこの城に入ったが、天正五年(