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博多どんたくの夜遠くから、にぎやかな音楽とアナウンスが聞こえてきた。窓の外に目を向けると、花自動車が走っていた。「博多どんたく港まつり」が始まった。娘と彼氏のねすたに声をかけ、一緒に外を見た。「きょう、ねすたと博多どんたくに行くんだけど、パパも合流する?」。最近、娘は自分たちのデートにパパを誘ってくれる。もちろん「YES」。親子で「どんたく」に行くのは、何年ぶりだろうか。夕方、どんたくの本舞台がある福岡市役所前広場で待ち合わせ。3人で人混みをぶらぶら歩きながら
食べることは生きること「勉強は二の次でいい。自炊ができる大人になれ」娘には、そう言い続けてきた。健康で生きる力が身についていたら、将来どこに行っても、何をしても生きていける。亡き妻のバトンを受け継いで16年。いよいよ、そのときが近づいてきた。朝ご飯、食べてる?(2007年9月7日)準備完了。本日よりしばし、創作活動に入るので不在にします。すみません。なのでお詫びに・・・旦那が今朝作ったみそ汁をどうぞ~みんなに飲ませてあげ
食の力娘の彼氏、ねすたの体調が良い。手前味噌だが、ほぼ毎日、わが家の手料理を食べていることが関係しているのかもしれない。きょうの朝食は、タケノコのみそ汁と卵かけご飯と辛子明太子。ご飯は玄米の七分つきに麦を混ぜたものだ。「ねすた、最近、風邪をひかなくなったな」「本当ですね。そういえば、ずっと体調がいいです」。本人は気づいてなかったようだ。昨年の春ぐらいから、週5のペースでわが家で食事をするようになった。朝は、野菜たっぷりのみそ汁と分つき米。昼は娘が作った弁当を
食で人を幸せにがん患者が死ぬときは、やせ細って死んでいく場合が多い。例外はあると思うが、食欲旺盛なまま、太りながら死んでいく人はいないだろう。亡き妻千恵は、生きるために食べた。料理が苦手だったが、毎日、台所に立った。いつの間にか、料理が大好きになり、講師を務めるほどになった。「私の病気が治ったら、しんちゃんとカフェをやろうね」夫婦で「人生の楽園」に出演することを目指していた。妻が他界して今年の夏で15年。娘は「食で人を幸せにする仕事がしたい」と、大学で「
大人も子どもも、みんな何かを抱えて生きている娘は中学生時代、「みそ汁」と呼ばれ、いじめに遭っていた。教室の机には「死ね」と書かれたメモが入っていることもあった。つらく苦しかった中学校生活がトラウマになって、高校入学直後の娘は、周囲になかなか心を開くことができなかった。そんな娘に「友達になろうよ」と声をかけてくれた同じクラスの女の子がいた。彼女は、Yちゃん。高校卒業後の今も、彼女はわが家を訪れ、一緒に食事をするなど親しい関係が続いている。先日、Yちゃんから、うれしいひと言
そこにいるだけでいい大切な人がそこにいる。今、生きている。何に不満があるんだ。十分じゃないか。そんなことに気づかせてくれた亡き妻のブログ「そこにいるだけでいいということ」。17年前、職場でこっそり読んだ。がん闘病中の妻から僕へのメッセージも込められていた。涙が止まらなかった。そこにいるだけでいいということ(2007年7月31日)がんの患者さんや、そのご家族から相談を受ける機会が多くなった。なぜだかは、わからない。けれど、それが私に与
1日限定カフェをオープン「はなちゃん、うちの店で1日だけ飲食をやってみらんね」昨年末、福岡市で飲食店を経営するPublicbarBassic.の渡辺圭一さんが娘に声をかけてくれた。娘は、ためらうことなく承諾した。2月7日午後7時に1日限定カフェ「HanaKitchen」をオープンする。娘にとっては人生最大の仕事。緊張しているのだろうか。布団に入ると5秒で眠ってしまう娘が「寝つきが悪い」とつぶやいている。これまで、何度も食のイベントをやってきた。いつ
寄せられた300通のメッセージ朝から、東京で撮影した写真を見ながら、うるうるしている。はなとねすた、僕の3人が「雷門」の前で笑っている写真だ。安武信吾『「24時間テレビ」の出演を終えて』うれしさ半分、寂しさ半分みなさま、お疲れさまでした。家族で出演した「24時間テレビ」。日曜日の朝の早い時間に、多くの方たちに見ていただき、とても感謝し…ameblo.jp幸せを感じる時間。ずっと、写真を見ていられる。ここは、23年前、亡き妻千恵と2人で立っていた場所。
今夏は十七回忌講演会で生花をいただくことが多い。持ち帰ると、いつも、千恵の祭壇に供える。主催者の「千恵さんの供養に」との思いも込められているはず、と勝手に考えている。おかげで年中、祭壇の花を欠かしたことがない。繁忙期は、わが家の花瓶が足りなくなる。感謝しかない。今年は妻の十七回忌。7月11日まで、心穏やかに元気でいよう。下関市立菊川中学校主催の講演会でいただいた生花DARENYI花瓶ガラス大きい高さ40cm大型透明ガラス瓶円柱型フラワ
亡き妻も好きだった味府の餃子福岡三越(福岡市中央区天神)の前にある屋台「味府」に娘の彼氏、ねすたを連れて行った。名物の餃子に牛タン、締めはラーメン。娘と3人で天神の屋台を満喫した。ねすたと屋台で語り合いたかった。亡き妻千恵も味府の常連客だったこと。幼い娘を抱っこして、家族3人で餃子を食べたこと。妻が他界して、思い出すのがつらくて味府の暖簾をくぐることができなくなったこと。他人にはどうでもいい話かもしれないが、ねすたには伝えたかった。その夜、家族の思い出が
生きている間にやるべきこと3年ほど前から、それまで手付かずだった千恵の遺品を片付ける習慣が身についた。今朝、アルバムを整理していると、学生時代の千恵の写真が出てきた。僕と出会う少し前の千恵。今のはなと同じくらいの年齢だろう。教師になる夢を抱いていた。音楽が生きがいだった。恋もしていたのかな。何があっても愚痴をこぼす人ではなかったが、つらいこともあっただろう。写真の中の千恵は、友人らに囲まれて幸せそうな笑顔。はなの笑顔を見ているみたいだ。他界して
寒い日の夕食は常夜鍋23日の福岡は、今季一番の寒気が流れ込み、断続的に雪が降った。それでも、ヤツはくじけなかった。極寒の中、娘の彼氏ねすたは自転車に乗って晩ご飯を食べにやって来た。ねすたは、重要な定期テストの直前。ここ数日、授業が終わった後、大学の図書館で遅くまで勉強している。昨夜は、少し早めに切り上げて、図書館からわが家に直行。玄関で泣きそうな顔をして立っていたので、理由を尋ねた。強い向かい風に加え、途中で自転車のチェーンが外れたらしく、到着までに、いつもの倍の1時間かかっ
友人知人が集う場に2月7日、娘が“1日店長”を務めたカフェ「HanaKitchen」。開店と同時に満席になり、厨房は閉店間際までフル回転。大盛況だった。店内は、娘と僕の友人や知人が一堂に集う場にもなった。調理の合間に、久しぶりの再会に乾杯。「はじめまして」の人とは写真を一緒に撮影した。「にのさかクリニック」理事長、二ノ坂保喜先生の来店には驚いた。二ノ坂先生は、がん闘病中だった妻の最後の主治医。妻が亡くなるまで、在宅医療でお世話になった。当時、娘は5歳。成長し
改めまして。リニューアルしました。(ちょっと前ですけど)つきましては、私の家族の紹介をしたいと思います。一人息子:光一現在、特別支援学校中学部2年生自閉症スペクトラム・療育手帳A判定言葉でのコミュニケーションはできません、が、年に1~2回、何かの拍子に言葉がでることがあります。食いしん坊でグルメ。妻(おかん):智子2019年10月17日に癌で他界。島根県江津市出身。東京の看護学校卒業。卒業後、大阪・島根・東京・大阪で看護師・ケアマネとして働き、結婚後、愛知
妻の遺影に報告僕は結婚を機に、宗教を仏教からキリスト教に改宗した。亡き妻千恵が、カトリック信徒だったからだ。カトリックのしきたりに詳しくなかった僕は、千恵の葬儀を終えた後、彼女が好きだったコーヒーや緑茶を遺影に供えた。それを見た義母が「水だけでいいのよ」と教えてくれた。聖書では、偶像礼拝を禁じている。故人に直接語りかけることや好きだった飲食物などを供えることも、厳密には偶像礼拝に当たる、と聞いたことがある。線香をあげる風習もない。でも、やっぱり、線香をあげなければ、僕
1日限定カフェの振り返りとお礼はなちゃん12歳の台所:その後の、「はなちゃんのみそ汁」Amazon(アマゾン)Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る${EVENT_LABEL_02_TEXT}はなちゃんのみそ汁青春篇父と娘の「いのちのうた」Amazon(アマゾン)Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る${EVENT_LABEL_02_TEXT}はなちゃんのみそ汁(文春文庫
妻の梅干し「24時間テレビ」の番組収録では、芦田愛菜さんと娘と僕の3人で食卓を囲むことになった。娘と愛菜さんが2人で作った料理は、みそ汁、肉じゃが、春菊の白あえ、ぬか漬けの4品。これに加えて、愛菜さんには、16年前に妻が漬けた梅干しを食べてほしかった。僕は、その梅干しを食卓に運んだ。娘と愛菜さんが2人で作った料理撮影が終わった後だった。愛菜さんの人を思いやる優しい心を垣間見た。「これだけは全部食べます。お母様が遺された大切な梅干しですから」愛菜さんは、残った
春の彼岸娘がリンゴをむいてくれた。先日、娘が作ったアップルパイの残りのリンゴ。幼いころ、病気で寝込んだときに母がリンゴをむいてくれた。娘が熱を出したとき、僕もリンゴをむいた。病床の妻には、すりおろしたリンゴを食べさせた。亡き妻が好きだったリンゴの品種は「ふじ」。シャキシャキと歯応えがあって、ほどよい酸味。春の彼岸。今から、妻の墓参り。お供えのリンゴを持って会いに行きます。[ASIAGAP認証農場:津軽農園]青森県産安心安全りんご『サンふ
寛容な心に救われて佐賀市内の中学校PTA関係者から講演依頼のメールが届いた。昨年末、同市内の保育園であった講演に来てくれた女性だった。彼女とは名刺交換もしていた。一度、講演を聴いて、やるかやらないかを判断する。そんな人からの依頼は間違いない。厳しいスケジュールであっても受けることにしている。即座に承諾の返信メールを送った。だが、失態をやらかしてしまった。相手の名前を間違えていたのだ。正しくは◯崎さん。それを◯塚さんと書いていた。ご本人からの指摘で気づいた。
カルボナーラとカップ焼きそば昨夜、3週連続の下関市での仕事を終え、自宅に戻ると、娘が夕食を作っていた。献立は、カルボナーラ。娘の得意料理だ。昼食が遅かったため、娘には事前に「いらんよ」と伝えていた。当然、パパのカルボナーラはない。うまそうに食うねすた(2023年11月3日)ねすたがカルボナーラを食べながら「しあわせやね〜」と、つぶやいた。僕は、「そりゃそうやろ」と心の中で突っ込んでやった。2人が食べ終わった後、急激に腹が減ってきた。カルボナーラはない。
限りある「家族の時間」家族と一緒に過ごす時間をもっと大切にしておけばよかった、と思うことがある。仕事に追われ、余裕はなかったが、時間をつくろうと思えばできたはず。大切な人を亡くし、年齢を重ね、家族の時間に限りがあることを知った。あのとき、どうして気づかなかったのか。そんな自分が残念でならない。亡き妻のブログを読むと、娘と過ごす時間を心から楽しんでいたことがよく分かる。※妻の高校時代のエピソードが笑える。あいつらしくて、かわいくて。なぜか涙出る。娘が巣立
バリエーションは無限大幼い娘に「何が食べたい?」と聞くと、いつも返事は「おにぎり」だった。シンプルな料理だが、にぎり加減やご飯と具材のバランスなど意外と難しい。娘が食べ飽きないように、工夫を凝らして作った。おかげで、パパは、幾種もの「おにぎりレシピ」を手に入れた。大分県宇佐市で農家民宿を営む中山ミヤ子さんから作り方を教わった「かしわおにぎり」お酒の後は「焼きおにぎりのだし茶漬け」おにぎりのレシピ本を作ってみようか。バリエーションは無限大。夢が膨らむ。娘
パパは同じ話を何度もする娘とねすた(娘の彼氏)とご飯を食べていた夜。ねすたが観葉植物を探している、という話になった。わが家にも、観葉植物がある。はなが生まれたころから、ずっと窓辺にパキラを置いている。「16年前、ママがパキラの枝を全部切ったんだよね。『おいおい、なんしようとか!』ってパパが言ったらさ、ママが『いいの、いいの。大丈夫』って。そしたら、その後、ちゃんと枝が伸びて葉もついた。もう、びっくりよ」たぶん、僕は2人に何度もこの話をしているのだろう。娘は「あーまたその話
いのちをいただくきょうは、娘と娘の彼氏と3人で久留米市田主丸町の酒造会社を訪ねる。娘に誘われた。珍しいこともあるもんだ。目的地は、米焼酎で有名な紅乙女酒造。社長が、娘のアルバイト先の寿司店の常連客で、僕も親しくさせてもらっている。朝、部屋中にリンゴとバターの良い香りが漂っていた。冷蔵庫には、アップルパイが入っていた。そういえば、昨夜の午前2時すぎ、2つのアルバイトを終えて帰宅した娘が台所に立っていた。アップルパイは娘の得意料理。社長に手土産として渡すつもりなのだろう。
赤面しそうな言葉書棚を整理していると見たことのない緑色のファイルが出てきた。亡き妻千恵のものだった。ファイルには、昔、僕が彼女に送ったとみられるメールを印字した用紙が30枚ほど入っていた。最初の数枚は彼女のことを「松永さん(旧姓)」、途中から「千恵ちゃん」と呼び方が変わっている。交際を始めたばかりのころのメールだろう。声が聞きたい。飛んで行きたい。今すぐ会って抱きしめたい。今読めば、赤面しそうな言葉が並ぶ。2000年1月28日には「25歳の誕生日おめでとう」
1日限定カフェ、まもなくオープン「いつかカフェをやりたい」闘病中の妻は、いつも、そう言っていた。娘が、1日限定カフェをオープンする。安武信吾『人生最大の仕事を引き受けた娘』1日限定カフェをオープン「はなちゃん、うちの店で1日だけ飲食をやってみらんね」昨年末、福岡市で飲食店を経営するPublicbarBassic.の…ameblo.jp縁とは不思議なものだ。16年前、PublicbarBassic.の渡辺圭一さんが、亡き妻のブログを読んでく
亡き妻の喜ぶ声が聞こえる夜10時過ぎ、娘の彼氏ねすたが、わが家の台所に立っていた。オーブンで特大のサツマイモを焼いていた。部活帰りにスーパーで買ってきたそうだ。夕食として用意していたアジフライはすでに全部平らげていた。食後のデザートに焼き芋。菓子やケーキではなく、焼き芋。亡き妻千恵も、幼い娘のおやつに焼き芋やトウモロコシを食べさせていた。「君、なかなかやるね〜」千恵のそんな声が聞こえてきそうだ。それにしても、食欲半端ねえ。【完熟しま
死ぬことは生きること僕が死んだら、遺骨は、妻千恵が眠る福岡県糸島市の墓に入れるよう娘に頼んでいる。骨壷は、友人である佐賀の陶芸家、川本太郎さんに作ってもらう。残された家族に迷惑をかけないように、エンディングノートの準備もしよう。しっかり、死と向き合ってみる。そうすることで、生きようとする力が出てくる。「死ぬことは生きること」なのだ。追悼コンサート「いのちのうた」(2023年11月23日)Photobychiyori下関市立安岡中学校(2018年12
変わるべきは子どもではなく・・・昨日、愛知県日進市で話をさせてもらった。三重県四日市市から駆けつけてくれた2人の母親がいた。母親の1人、赤星純子さんは、16年前、亡き妻千恵のブログに出会って「人生が変わった」と打ち明けてくれた。それまで、私は何となく生きていた。子どもの卒業式、子どもの成人式、子どもの結婚式・・・。そのときが訪れれば、当たり前に目にすることができると思っていた。でも、そうじゃなかった。日々、生きていることが奇跡の連続であることを千恵さんに教わった。ぼー
昨年の11月。妻と私の共著という形で下記の本を出版することができました。⤵ぶどう社/私がいなくなったら(budousha.co.jp)突然、癌であることが発覚。抗がん剤が効いて半年、なにもしなければ3か月くらいか?と余命宣告された妻(おかん)が何か世の中のためにならないかという思いで書き出したのが始まりでした。入退院を繰り返す中でこつこつと書き以前、細井先生の本のことで縁のあった「ぶどう社」さんに話したところ、引く受けてく