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2024年4月20日(土)、「遠野ふるさと村」の桜を見た後は「鍋倉公園」の桜見物。その途中には「福泉寺」という桜の名所があるが、昨年見てるし拝観料かかるしでパス。ほっそーい道を進んでいくと駐車場。「鍋倉城の由来」という案内看板。現在いるところが「三の丸」で、階段を上った先が「本丸」本丸の桜・・・早いのか遅いのか、そんなに咲き誇ってるほどじゃないかな?二の丸があるみたいだけど、そっちはどうなんだろう?枝が地面についているが、折れたわけでは
(1)菱の門櫓門と呼ばれる型式の二の丸の入口を固めた門で、両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋のあることから、この名前が付いています。門全体に安土桃山時代の様式を残しており、城内で最も大きな門です。何の表示か忘れました歩いた順に写真出しますのでよろしくお願いたしますこの櫓の南面と東面の鬼瓦には、波しぶきが彫ってあります。こ
機織り機の縦糸を巻く千亀利と言う器具が本丸と二の丸が千亀利のように重なって並んでいるので別名千亀利城と呼ばれているようですただ千亀利がどのような物なのかわかりません。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて縁結びの神社として知られています南北朝時代に楠木正成が和泉の守護職となり一族の和田高家を代官とし、この辺りの地名が「岸」だった為「岸の和田」と呼ばれたようです
佐賀県唐津市にある別名鬼子嶽城。東から松浦川が、西から波多川が流れて合流する中間の要害に位置し、唐津湾に至る水運を支配する上での要衝で、山頂付近は急崖に囲まれ、その山頂部の南側尾根の上に築城。この山は岩石が多いようで多数の石垣があります。【岸岳城】上松浦党の盟主として活躍した波多氏の居城佐賀県唐津市にある別名鬼子嶽城。東から松浦川が、西から波多川が流れて合流する中間の要害に位置し、唐津湾に至る水運を支配する上での要衝で、山頂付近は急崖に囲まれ、その山頂部の南側尾根の上に築城。この山は岩
長野旅行の続きのお話です。7月27日は(旅行5日目)道の駅「上田道と川の駅」で朝散歩してからは~上田城へー。(上田城跡公園駐車場は無料でした)南櫓下の中段石垣は、長雨により崩落しちゃったらしいのだけど~原型に基づき修復されたんだそうな~天然の堀となっている尼ケ淵は崖面がもろく崩れやすい性質らしく西櫓下の中段も修復されたかと思うのだけど?大雨に降られたら崩れて
こんザンギ!大衆酒場俺流二の丸からの情報です!以前、ふーみん会で実施したような、ザンギ食べ放題プランが本日11月19日からスタートしたそうですよ!ふーみん会でのザンギ食べ放題俺流二の丸からの提案は…元祖ザンギ2個の他、小鉢7品とミニ鶏中華の全9品が提供されるAコースそして、ふーみん会で実施されたような、元祖ザンギが食べ放題で、たまごかけごはんも食べ放題となるBコースどちらも120分の飲み放題が付いて、2,000円なんですって!
1614年大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、その後、北条氏重・小出吉英と続き1619年には松平康重が城主となります1615年大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと1619年に大坂は幕府の直轄地となり1620年将軍徳川秀忠の命により大坂城の再建が始まり、その大坂を挟むように守る役割が尼崎城と岸和田城でした。この時期に外様大名の小出秀政が但馬の出石に転封となり譜代大名の松平康重が城主となります1623年に伏見城が破却されると矢倉などが移築され松平康重は山崎城へ転出し1931年には高槻