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1614年大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、その後、北条氏重・小出吉英と続き1619年には松平康重が城主となります1615年大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと1619年に大坂は幕府の直轄地となり1620年将軍徳川秀忠の命により大坂城の再建が始まり、その大坂を挟むように守る役割が尼崎城と岸和田城でした。この時期に外様大名の小出秀政が但馬の出石に転封となり譜代大名の松平康重が城主となります1623年に伏見城が破却されると矢倉などが移築され松平康重は山崎城へ転出し1931年には高槻
佐賀県唐津市にある別名鬼子嶽城。東から松浦川が、西から波多川が流れて合流する中間の要害に位置し、唐津湾に至る水運を支配する上での要衝で、山頂付近は急崖に囲まれ、その山頂部の南側尾根の上に築城。この山は岩石が多いようで多数の石垣があります。【岸岳城】上松浦党の盟主として活躍した波多氏の居城佐賀県唐津市にある別名鬼子嶽城。東から松浦川が、西から波多川が流れて合流する中間の要害に位置し、唐津湾に至る水運を支配する上での要衝で、山頂付近は急崖に囲まれ、その山頂部の南側尾根の上に築城。この山は岩
機織り機の縦糸を巻く千亀利と言う器具が本丸と二の丸が千亀利のように重なって並んでいるので別名千亀利城と呼ばれているようですただ千亀利がどのような物なのかわかりません。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて縁結びの神社として知られています南北朝時代に楠木正成が和泉の守護職となり一族の和田高家を代官とし、この辺りの地名が「岸」だった為「岸の和田」と呼ばれたようです
🍀4月27日🍀岡崎公園今日は、午前の武将隊演武に合わせて向かいました🚙到着すると、会場の二の丸能楽堂前に行列ができていました。行列を見ると、ドラマ館の行列を懐かしく思い出します😋私が、到着して間もなく、開門されて入場しました。今回の演武は、富山の三味線と胡弓のユニット💜糸音💜とのコラボ演武でした。😍いつもの演武とは、また一味違う雰囲気で貴重な経験ができて良かったです。演武を見た後は、藤棚へ花房は、伸びていますが、既に咲き終わりの花もあり、ピークを過ぎたように思
2024年4月20日(土)、「遠野ふるさと村」の桜を見た後は「鍋倉公園」の桜見物。その途中には「福泉寺」という桜の名所があるが、昨年見てるし拝観料かかるしでパス。ほっそーい道を進んでいくと駐車場。「鍋倉城の由来」という案内看板。現在いるところが「三の丸」で、階段を上った先が「本丸」本丸の桜・・・早いのか遅いのか、そんなに咲き誇ってるほどじゃないかな?二の丸があるみたいだけど、そっちはどうなんだろう?枝が地面についているが、折れたわけでは
こんにちは😀青森県弘前市にある弘前城です。車は市役所の駐車場に停めますが、早い時間なのに満車状態です。何とか駐車出来て城の中へお堀の桜から三の丸通手門二の丸南門弘前城イメージしてたお城と違ってちょっと小さいですね。二の丸二の丸大シダレ桜の時期に一度は来たかった場所の一つで今年は角館の桜は残念でしたが、弘前城の満開の桜が見れて幸せ気分です。お城をぐるっと一周🏯ではまた(^_^)/~いつも見に来て下さって有り難うございますm(__)m
熊本城二の丸広場にある美術館。子供の頃、遠足で何度も来た。高校生の頃、"点描画展"に母親からもらったチケットで行った想い出がある。常設のチブサン古墳の展示は今でも変わらない。
2023/3/22〜3/24投稿『松の木坂』と書いた説明板がありました。古写真によれば、かつては「松ノ木坂御門」という立派な櫓門が建っていたことがわかります。(*^^*)現在は坂道と石垣を残すのみとなっています。福岡城の石垣はほんとうに立派ですね。福岡城は初代福岡藩主・黒田長政(くろだながまさ)が慶長(けいちょう)6年(1601)から7年がかりで築城しました。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、潮見櫓(しおみやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)
Gospel本村洋子withALLLOVECHOIRゴスペルライブのお知らせ愛媛県松山市松山城二の丸史跡庭園愛媛県伊予市中山町こよみスペース(旧遊栗館)
二の丸あとから桜雲橋を渡った先は本丸跡さらに西に向かって勘助曲輪を見下ろすところまで歩くお日様の出ているあいだ、晴れていれば桜の向こうに中央アルプスの山嶺が見える石畳の道に小型のプロジェクターで投影された桜の花枝ぶりの良い桜で覆われた桜色の天井本音と建前のメッセージを書いて折りたたんで結び付け桜雲橋を渡り、二の丸あとにもどる二の丸あとには屋台が出ていて、『お祭りのあの香り』が漂ってくるせっかくだから粉物でもいただこう続
桜の季節となりました。3月下旬にいきなり真冬の寒さになったせいか…?『桜の咲くタイミングが当初より遅くなりました。』ただ…私の勤務先はサービス業。しかも好き勝手休みを入れる輩のせいでなかなか思った様に休みが取れません。年度が替わったのである程度暇になり、どうにかこうにか花見の予定を入れて行ってきました。性格上混雑する場所へは行きたくありません。『”風景”見るより”人間”見たって仕方ありません。』今回行ってきたのは地元上田市にある
こちらは、金沢城の夜桜です。金沢城・鼠多門金沢城・鼠多門と玉泉園金沢城金沢城・二の丸堀金沢城・二の丸堀金沢城・菱櫓金沢城・菱櫓金沢城・菱櫓と堀金沢城・石川門裏金沢城・菱櫓金沢城・石川門金沢城・石川門金沢城・石川門桜が散っても、北陸には沢山の見どころ、美味しいものがあります。是非、北陸へ♪※素敵な御写真をお送りくださり有難うございました。心より感謝申し上げます。※お知らせ12/1~4/17までの間にお申込みを頂きました方の鑑定料金を、通常の3分の2にさせて頂い
今日は、淡交会能松風を観に、岡崎城二の丸能楽堂へ。番組仕舞竹生島菊池翔子舞囃子天鼓瀬戸洋子仕舞景清久田勘鷗山階彌右衛門(やましなやえもん)野守山階彌右衛門林本大能解説山階彌右衛門能松風シテ(松風)久田三津子ツレ(村雨)梅若紀佳ワキ(旅僧)飯富雅介間(浦人)井上松次郎物語のあらすじ:須磨の浦を訪れた旅僧が、海女の姉妹、松風・村雨の旧跡の松に経を上げて弔い、それから塩屋に泊めてもらおうとする。そこへ月下の汐
松山城の桜が満開ということなので、今日は松山城へ行ってきました。運動を兼ねての桜見物なので、城山の麓までは自転車で行き、城山へは歩いて登りました。(ロープウェイやリフトもあります)桜以外にも写真を撮りましたが、今日は桜が中心の記事にします。残念ながら、今日は曇り空でおまけに靄っていて透明感のない写真ばかりなのでご了承ください。次の写真は城山から南西方向を撮影したものです。天気が良ければ青い海が見えるのですが、こんな感じにしか写りませんでした。まず、松山城を下から眺めた写
藤原秀郷が築城したとされているのには唐沢山城の城主の佐野氏の先祖が秀郷だからと言われていて室町時代中期の1491年に佐野盛綱が城の修築を行なっています戦国時代の佐野氏は北条氏・上杉氏の二大勢力に挟まれて、どっちにつくのか悩んでいました佐野昌綱は当初、上杉謙信と同盟を結び1559年に北条氏政軍3万5千に城を包囲された時には謙信が直ぐに援軍をよこして北条軍を撤退させました「大炊の井」は飛来矢山と西城の間にある口径8m深さ9m以上ある大きな井戸です築城の時には厳島大明神に祈
城を観る今回は...(撮影2021/07/16)二俣城〜二の丸〜ここがッ二の丸ねッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
今日の東京地方の最高気温は7月上旬並みの28.1℃で、気象庁のデータ一覧の備考欄には「3月の観測史上最高」という文言が記載されています(@。@)それにしても前日差+11.6℃というのですから、気象情報を良~く確認して着るものを決めないと、たちまち体調を崩しちゃいそうですね(^^;さて今日の記事は「日本100名城」めぐりで、今回は群馬県の「箕輪城」です(^.^)箕輪城は大きな駐車場が城の正門とは反対側にありますので、この度は「搦手口」からの「城攻め」ですv(。・・。)イエッ♪搦手口とは城の
山中城は東海道を中心にして両翼を広げたような城です登城口になっている旧東海道を抜けた辺りが城の正面にあたる大手口です中心に本丸・二の丸・北の丸があり西側に西の丸と西櫓があり街道を挟んで南側に岱崎出丸が突き出していました東海道からの敵を、このV字形の縄張で両側から挟み込み一網打尽にする作戦だったようです
5年前の更新を再UPしました。『吉田郡山城6毛利元就墓と一族の墓』昨日の続きです。今回は毛利元就墓と毛利一族の墓です下地図⑮の所に元就自筆からコピーした名前の旗がありました。⑮の左の⑲の所には毛利元就墓への参道があります…ameblo.jp前回の続きです。今回は二の丸から北の丸です。下図①付近から二の丸にある展望館方向です。この反対側は現地の案内板です。上図①から②方向は上図①から②方向です。赤い線に沿って歩きます。下図②の分岐点です。赤線に
行程2日目初日ホテルで朝食を食べ(朝6時半から開始、最近はどこの宿も朝6時30分からな気がする。(午後7時から、というのが少しある。))午前8時少し前に出発します。行先は「延岡城」です。初日宿泊したホテルからは、車で10分ほどでの到着となります。いや、ここではこの石垣を観たかったんです。【ウェブより】宮崎県延岡市、藩政時代に縣藩(あがたはん/後に延岡藩)の藩庁だったのが延岡城。北大手門から二の丸に入ると見上げるように石垣が迫りますが、これが千人殺しの石垣。高さ22m、
京都二条二の丸のお城🏯から始まり、宮城の瑞巌寺のお城🏯🙋💞
二の丸から三の丸にある宗閑寺に向かいます三の丸にある宗閑寺境内には松田康長以下敵味方の武将たちの墓が並んでいました箱井戸から宗閑寺に抜ける林から不気味な鳴き声⁉️と思ったら木が擦れ合っていました
5年前の更新を再UPしました。『吉田郡山城4御里屋敷伝承地と清神社』昨日の続きです。今回は御里屋敷伝承地と清神社です。初めに御里屋敷伝承地です下図にある安芸高田少年自然の家です。もとは吉田町の中学校でした。もらったパンフ…ameblo.jp前回の続きです。今回は二の丸展望館から北の丸址二の丸展望館に入ったところです。奥では紹介ビデオが上映されてます。近江八幡の紹介ビデオが見れます。2階の展望資料室に上がります。2階に上がったところです。「恋人たちの聖
戦いは岱崎出丸から始まりましたそれは壮絶な銃撃戦となりましたそうした中でも先鋒隊の一柳直末隊は壊滅的な打撃を受け直末自身、流れ弾によって戦死してしまいます一方中村一氏隊も岱崎出丸に何度も何度も攻撃を繰り返して渡辺勘兵衛が一番乗りを果たすと戦いの場は二の丸→本丸へと移り圧倒的な数の前に北条軍は壊滅します城主の松田康長も戦死し正午過ぎには山中城は落城しました両軍の戦死者約2000人とも言われ戦国時代最大の戦いとなりました。美しい富士山と戦いは似合いませんね
土方歳三資料館✕肥後熊本藩、最終日行きました。年月を追って「新選組」へと繋がる土方歳三の生涯をかいま見る事が出来ました。熊本県立美術館に行くといつも感じる事ですが、展示箇所がキャプションにも記され、印字されている事で毛筆では解読しづらいところも読む事が出来て、有り難いです。毛筆で書かれた実物でその時代に生きた人の想いを感じながら、書かれた文章を読みやすい印字されていますので、五感で感じる事が出来ました。二の丸駐車場や熊本城🏯のお堀の桜がちらほら咲き始めています。市民会館近くの清正公(せ
3/10(日)球磨川を旅する。相良藩の居城であった人吉城跡にやって来た。相良神社境内から三の丸へと上ったところだ。平らな広い場所があり、そこからさらに上の段がある。それが二の丸。二の丸には杉の大木が並んでいる。高価なカメラを首から下げている男性と会った。「球磨川沿いの入り口から入れないので、相良神社境内から上がってきた」というと「いや、今は球磨川沿いの入口から入れる」とのこと。そうだったのか。水害復旧工事が進んでいるのだ。二の丸からさらに上に本
続きです時代劇でも見ますよね。「石落とし」ここの小窓から石垣を上ってくる徒士に石をぶつけて落とすという原始的な方法ですが、なかなか効果がありそうです。大きいのだけは勘弁願いたいですねお城なので仕方ないのですが、障がい者の私にとっては急な階段を上るのが何よりも大変降りるのも大変なんですがお城によって呼び方は違いますが、どこのお城でも作られていた施設は同じような感じだと思います。今回上ってきた全景です。よく人の力だけでこんなものを作り上げたと毎度感心します。
「短歌でダンス?💃」(203)大坂の落城までの水面にて揺れる季節は冬から夏よ※みなも