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白村江の戦いの後、百済の民が近畿地方に渡来した。彼らは現在の関西弁にあたる言葉を喋り現在に至っている。ヤマト政権の中枢を占めたであろうことは既に述べた(参考)。天智天皇と中臣鎌足(藤原鎌足)が起こした乙巳の変(大化改新)以来、現天皇家と主流派公家の藤原氏は車の両輪のように、また表裏一体の存在であった。すなわち、藤原氏は百済からの渡来人で、百済王家の者達だったと推測しても不自然では無い。ちなみに、現在に至る公家系統の旧華族のほとんどは藤原氏の分家である。雑談1長州の毛利氏のルーツの大江氏や
藤原摂関家という家は、合戦を経ることなく天下を取った家で、天下人の実質を失ったあとも臣下のなかでは最高権威の家として、昭和の敗戦まで続いて来たのですから、その世渡り術は凄いと言えます。昔は、天下は合戦をやって奪い取るものだったのに、初代の中臣鎌足が軍事面では役に立てなかったと言っているくらいで、歴代軍事は苦手で、家の地位を画期的に上昇させた藤原不比等も軍事的な才能はなく、律令の制度作りと日本書紀の編纂で辣腕を振るい、朝廷のなかで不動の地位を得ました。各豪族の代表者が1名ずつ
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します
2018年卒のタクちゃんが顔を見せてくれました。(笑顔)「試合観戦用のベンチを作るんだ!」なんて言っていた小学生のタクちゃんも今年の4月で高校2年生。1年坊主の分際で試合に出場させてもらったりマウンドに立たせてもらったり大きく逞しくなったね。🥹🥹テスト前という事で顔を見せてくれたけど取り敢えず勉強も頑張れな。(笑顔)大化の改新の中臣鎌足は「かたまり」じゃなくて「かまたり」だからね。🤣🤣そんなタクちゃんも電車と違ってバスはこのブザーを押さないと
阿武山古墳封印事件藤原鎌足といえば中大兄王子と蘇我入鹿🐬を宮中で誅殺したクーデター(乙巳の変)の首謀者として有名な歴史上の重要人物の1人だが、その鎌足の墓の存在はあまり知られていない。いや、知らされていないと言ったほうが正解かもしれない。墓が発見されたのは、1934年(昭和9年)京都大学地震観測所の工事の際に偶然見つかった。墓には数々の貴重な遺品と、骨・肉・毛髪が残る成人男性の完全なミイラが埋葬されていた。その出立ちから当時の権力者であり、相当高貴な人物と思われる。発掘時は世紀の大発見!
最期の言葉天智天皇が見舞ったとき「何か希望はないか?」と尋ねれ「なにもございません。ただ葬式は簡略におねがいします。生きて百済救援の外戦にお役に立てませんでしたのに、死してどうしてこれ以上ご迷惑をおかけすることができましょう」出典【中古】図説・名言で読む日本史人物伝決定版/学研/学研[ムック]【ネコポス発送】中臣鎌足(なかとみのかまたり)のち藤原鎌足(ふじわらのかまたり)飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。大化の改新