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母と祖母の住む家には私達2人の部屋が用意されていた勉強机が2つ2段ベット本棚や自分達のタンスこんな部屋に住める日がくるなんて思いもしなかった服も靴も下着も全部真っ新新しい学校の制服を買ってもらったりランドセルや筆箱体操服も準備してくれたやっと普通に学校に通える毎日3食の食事ができてお風呂にも入れた毎日洗濯された綺麗な服も着れるこれが普通の生活なんや。。。まるで夢みたいな環境だった今までとは全く違う生活違いすぎて始めは戸惑いも少しあった今まで
しばらくして祖母は自分達が出かけて留守にしている間に炊飯器のごはんが減っている事に気がついたそしてもちろん姉を問い詰め激怒した祖母はその日から出かける時は台所のドアに内側からつっかえ棒をして外側から開けれないようにしたそして姉は水を飲む事も許されていなかったから「トイレに行かせてください」と祖母に頼みトイレの手洗いから出てくる水を飲んでいた食事も与えられず水分も与えてもらえないのにトイレで出るものなんてない。。。トイレに行くだけなのに家の
もちろん毎日誰かのお家でご飯をご馳走してもらえる訳ではなかったしゲートボールだって毎日集まりがある訳ではない何日も何も食べられない時もあった私達姉妹は空腹のあまりに公園に咲いているツツジの蜜を吸ったりして空腹を紛らわせる時もあった私は今になって思うけど空腹って普通に食べれる環境であるから感じるものなんだと思う毎日常に空腹だとそれが自分にとっては当たり前の事で空腹があまり辛いとは思わなかったし空腹を空腹と認識さえしていなかったかもしれない客観的に
私も6歳になると1人でいる時の行動範囲も広がってきて姉が学校に行っている間1人で近所をウロウロするようになった。午前中〜お昼頃にかけての公園は子供達は幼稚園や学校に行っているからか誰もいない。。。いつも貸切状態1人ぼっちの公園で私はよく遊んだ行動範囲が広がったと言っても6歳の私にとっては自分の住む住宅街がとても広く感じたしその1画から1人で出る事はなかったいつも通り公園に行ってみるとお爺さんお婆さんがゲートボールをしていた私は1人滑り台の上からじ
名古屋に辿り着いた姉姉の持っている祖父母の情報は名古屋に住んでいる。。。ただそれだけだった10歳の姉はとりあえず駅のロータリーに停まっていた沢山のバスのうちの1台に当てずっぽで乗り込んだどこへ向かっているかもわからないバスに揺られながら外を眺めているとどんどん人気や建物が無くなっていく姉は不安になって名古屋駅からかなり離れたと思われるバス停でバスを降りた降りた先は人気がほとんどない小さな町だったどこへ向かえばいいかもわからず引き返そう
私の当時の記憶はとても端的で印象に残ってる出来事も少ない幼過ぎたからか感情みたいなものが思い出せない辛さや悲しさや不安みたいなものを感じていたのかな?ただただ毎日を必死に生きるそれだけで精一杯だったのかもしれないそんな事を考えていたら姉はどうだったんだろう。。。ってふと思った2人で昔の出来事を話す事はたまにあっても姉の当時の気持ちを私は聞いた事がない私は生まれた時から隣には姉がいて姉が側にいる事がもちろん当たり前だった辛い生活を2人で乗
イメージコンサルタントのshiiです。今日も私の文章を読んでくださることに感謝を込めて。。。インスタでも、なんでこの仕事を目指したか、などなどは語っておりますので、そちらもみて欲しいなーと思いつつ。私は決して安いお値段で診断をしておりません。いや、イベントなども出ているの、その際はかなりお得に受けていただけてはいますが、やっている内容?お伝えする内容が、かなり違います。イベントで診断を受けることは、コンサルティングというよりは、いわば占い感覚かなと。というか、自分の属性を知る、と
私達は家で食事を与えてもらえなかった。姉は学校がある日は給食があった。だけど朝も夜も家での食事はない。私には給食もなかった。何も食べれない日もあった。姉は私の手を引いて毎日考えてくれてたんだろうな。今日はどこでごはんを食べさせてもらおうか。。。家の真向かいには幼馴染の子が住んでいた。姉と同級生の男の子そこのお母さんは優しい人だった。よくお家に入れてくれた。冬は暖かいコタツがあった。ゴハンを食べさせてくれたり。。。おやつを食べさせてくれたり。。。みんなでT
祖母からの許しが出て姉が普通の生活に戻ったのも束の間祖母の次の標的は私に変わった姉の時と全く同じ何時間も続くお説教から始まり正座食事抜き。。。。それが始まった時今まで姉がされた事を見てきた私は次その次と自分に降りかかる祖母の仕打ちは予測できた食事を食べさせてもらえなくなるのはいつ?布団で寝れなくなるのは?暴力は振るわれるのはいつ?学校へ行けなくなるのは?ほんとにデジャヴのように同じ事をされたこうして私達姉妹は祖母と暮らしている間2人共
私はその後警察に保護されそのまま一時保護所に保護されたこの時は今までで最長期間の保護だったある日のケースワーカーとの面談「もうここから出なあかんねんけど。家に帰る?家に帰りたくない場合は施設に入るっていう方法があるねんけどどうする?」と聞かれた私は即答で「家には帰りたくない」と答えた「じゃあ。施設に入れるように手続きするね」私に一筋の光が差したこんなに嬉しい瞬間は今まで味わった事がなかったやっと地獄から抜け出せるそれから数日後一旦家に帰されて後日施
4年生の冬私はまた祖母から逃げるために家を飛び出して真夜中寒さを凌ぐためにマンションの駐輪場で体を丸めてしゃがみ込んでいたそれでも寒さを凌ぐ事はできず私はあるマンションのエントランスで寒さを凌ぐ事にした当時私の行動範囲の中で唯一のオートロックのマンションあそこへ行けば寒さを凌げると思いついた深夜のマンションなかなか人が通らずドアが開かないそこへ1人の人が帰ってきたその人は私の事を不審そうに見ながらオートロックを開けた私はその人と一緒にマンションのエント
私は一時保護所から帰宅して数日後施設に人所するための準備をしていた荷物をまとめている時祖母から「これはこの家で買ったものや!持って行くな!」と嫌味を言われながら支度をした施設に入ることが決まっていたためさすがに暴力は振るわれなかったけど祖母は最後の最後まで私を罵った私は必要最低限の荷物をまとめ母に連れられ施設に向かった私が入所した施設は都会のオフィス街の中に建つ大きな建物だった祖母から監禁を受けている時沢山読んだ本その中に出てくる子供を預かる
施設での新しい生活3歳からほとんどまともな生活をした記憶がなかった私にとって施設に入ってやっと普通の生活ができるようになった何よりも施設に入るまでの私はずっと心が休まる瞬間がなかったのだと今になって感じている自由はないけど理由なく怒鳴られる事も理由なく殴られる事もない生活やっと安心を得ることができた施設で生活する子供達の入所理由は様々生まれた時から親の顔も知らない子私同様虐待を受けた子ネグレクト生活苦みんなの心の中はわからないけど寂しそうにして
姉が白峰村へ行ってから私は実は少しの希望を持っていたそれは祖母のターゲットが2人では無くなったことだった今までは2人のターゲットがいた祖母は2人同時に同じように接する事ができないだから片側だけを虐待してその間は片側を普通に生活させるターゲットが1人になれば虐待は起こらないかもしれないそんな期待があったけれどその期待は奇しくもすぐさま裏切られた姉がいなくなった直後から矛先は私のみになってしまったそれは私にさらなる絶望感を生んだもう終わる事はないそう感
3歳ぐらいから始まる私の記憶は…父と母と姉の4人暮らし風呂無しの6畳二間のボロボロアパートだった。父が家に居た記憶はほとんど無い。いつも母と姉と3人で居た記憶が強い。この当時の写真が残っていて私はカメラを向けられると変顔ばかりする茶目っ気たっぷりの女の子だったみたい。(今の私からは想像もつかない!あの頃の私どこ行った?)保育園の先生と母の保育手帳のやり取りを見ても、かなりのおてんば具合が伝わってくる。自分の記憶でも保育園に行くと男の子と園庭を駆け回る。お遊戯会で他の子
姉の生きて行く力これは小さな時からの色々な経験から通ずるものがあるのかもしれないと思った姉が虐待を受けている時みんなが家を留守にしている間に姉は空腹に耐えかねて台所を物色炊飯器のごはんを食べるそれが祖母に知られてしまい祖母は台所の引戸の内側につっかえ棒をして扉が開かないよにしてから出掛けていたこれは以前の投稿でも書いたそのつっかえ棒すらもうまい具合に外してキッチンに入る姉。。。そしてそれも祖母に知られてしまい姉はみんなが留守にする時はベラ
私は当時3歳4歳ぐらいだったから記憶は途切れ途切れだけど1度大きな施設の様な場所で母と姉と私の3人。しばらく沢山の家族と集団生活をしていた記憶がある。どの家族もお母さんと子ども達だった。2段ベットのある部屋でよその家族と一緒に生活した。子ども達みんなでホールの様な所に集まってまーるく円になって座っておやつを食べたり。。。大きくなってからわかったけどあれはいわゆるシェルターみたいな所だったんだろうな。母は私達を連れてきっと父から逃げないといけない理由があったんだろ
祖母は度々私の表情に苛立ちを見せたお説教中や殴られている時の私の目や態度に更に怒りが増す事がよくあったこの時もそんな事がきっかけだった突然台所へ私を連れて行き刃先を私の方に向け私のお腹に刃先を突きつけ私に包丁を持つように指示してきたそして「早く刺せよ!!早く死ねよ!!」と何度も怒鳴りつける時折祖母がその包丁を押してくる私はその時裸でお腹に刃先が何度も触れたでも。。。私はこの時心の中で「何で私が自分で死ななあかんの?あんたが刺して
私には2つ年上の姉がいる。2人目の継母と暮らし始めた時姉は小学1年生で私は5歳。私はとにかくお姉ちゃんっ子でホントに常に姉といた。私達は自分達でも認める程の超仲良し姉妹。というか、その頃から私は姉が居なければ生きていけないと思っていたし姉しか頼れる人がいなかった。父親も継母もほとんど家に居ないし居ても寝てるし何かをしてもらえるわけでもない親無し子も同然の生活だったから。私は家に居たくなかったのか姉が学校に行って寂しかったのか毎朝、姉の登校に付いて行く。学
母が居なくなった時私の記憶の中に母が居なくなった時の不安な気持ちや悲しい気持ち母を探し回ったりママと泣き叫んだ記憶もないでも姉に聞いたら母が居なくなった時2人で凄く泣いたんだってそしたら父が物凄く怒ったらしい。。。私の記憶には全く泣いた記憶なんて残ってないんだよね父に怒られた記憶も残ってないけど姉も私も泣いたらダメって思って我慢するようになったんだろうな私にはねちゃんと母と居た時の記憶は残ってるんだよボロボロアパートに住んでた時はお風呂が家になかったか
2人目の継母は日に日に私達姉妹の生活に苦をもたらしていく当時40歳ぐらいだった父が私達に‘’新しいお母さんだよ’’と言って連れてきた2人目の継母は19歳の若い女性だった。父はその女性を家に置いたままずっと何日も帰宅しない。そんな若い新しい母親からは食事も与えてもらえなくて完全に放置状態。自分の子どもが産まれてからは家にいるようになったんだけど。それでも、何もしてもらえなくて。。ある日。姉も学校へ行っていて私はあまりの空腹に「お腹空いた」って継母に言った。
祖母はお説教をしている時私を殴っている時の私の表情や目をとても嫌った私の姿を見るのが癪に障るとよく言っていた同じ家の中に居ても私の姿や顔が見えないようにする事が多々あったうちにはベランダのドアの内側にもう1枚引戸があったそのわずか20センチ〜25センチ程の空間に私を押し込め私はその空間で何日も立たされた身動きが取れない隙間で疲れてもしゃがむ事も出来ずひらすらその空間でただただ立たされるだけの毎日を過ごしたうちにあった3畳程の納戸その
姉は見つかっては家に連れ戻され家を出ないように監禁されたそれでもあらゆる方法を使ってまた家から逃げ出しそしてまた家出をするとおじさんの所へ行ったけれどおじさんにいつまでも面倒を見てもらう事はできないと姉は感じ取っていたそして姉は次の決断をするおじさんの車のダッシュボードに少しだけお金が入っているのを姉は知っていたおじさんの目を盗みダッシュボードに入っていたお金を握りしてめて姉は駅に向かった。。。姉が向かった先それは父方の祖父母が住む
母が居なくなった翌日には父が知らない女の人を連れてきた。母が居なくなってから2回継母が変わっている。1人目の人は私にはあまり印象に残っていない。その人はわりと私達の面倒を見てくれていたような記憶はあるかなぁ。ただ、私は保育園に行ける事もなくて毎日1日中家の中にいた記憶しかない。1人目の継母と過ごした期間はホントにほんの短い期間だった。それから、すぐだったと思う。2人目の継母に変わった。この人の記憶はかなり残ってる。めっちゃくちゃ若い継母だった。彼女のお腹には父
姉はというと始めの頃は私と同様家の近所で身を潜めなら過ごしていたけれど何度も祖母や母に捕まえられている間にもっと遠くへ逃げなければ。。。そう思うようになったそして姉は電車に乗り幼少期父の元へいた時にお世話になったクリーニング屋のお姉さんの所へ逃げた勿論電車賃なんて持っていない無銭乗車だったその時の気持ちは見つかったら殺される。。。と思うぐらい追い詰められ命懸けで逃げないといけない子供ながらにその恐怖から逃げるためならなんでも出来たんだと
私が入所した施設は子供達のメンタルサポートがとても充実していた1週間〜10日に1度カウンセリングが必要な児童にはカウンセリングの時間が設けられる私にはカウンセリングの時間があった担当の先生がそれぞれに付きカウンセリングを受ける私の担当の先生は若い女の先生だった私は最初のうちはこのカウンセリングの時間が大嫌いだったきっと昔母に連れられて受けたカウンセリングがトラウマになっていたのだと思う心理カウンセリングといえば嫌なイメージしかなかったそれが回数を増すごと