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4年生の冬私はまた祖母から逃げるために家を飛び出して真夜中寒さを凌ぐためにマンションの駐輪場で体を丸めてしゃがみ込んでいたそれでも寒さを凌ぐ事はできず私はあるマンションのエントランスで寒さを凌ぐ事にした当時私の行動範囲の中で唯一のオートロックのマンションあそこへ行けば寒さを凌げると思いついた深夜のマンションなかなか人が通らずドアが開かないそこへ1人の人が帰ってきたその人は私の事を不審そうに見ながらオートロックを開けた私はその人と一緒にマンションのエント
あれは姉が5年生の時の事だった虐待を受ける姉はその日母のピアノの椅子に縛りつけられていたその夜夜中に母が仕事から帰ってきてから母の部屋が騒がしかった隣の部屋で寝ていた私はその騒がしさで目が覚めたまた始まった。。。私はいつもの祖母の暴力が始まったと思っていただけどいつもとは様子が違う気になったけど見に行く事もできない隣の部屋ではピアノの椅子に縛られた状態で祖母に殴られた姉がピアノ椅子ごと殴り飛ばされ母の部屋にあったハンガーラックの角に顔を打ち
施設での新しい生活3歳からほとんどまともな生活をした記憶がなかった私にとって施設に入ってやっと普通の生活ができるようになった何よりも施設に入るまでの私はずっと心が休まる瞬間がなかったのだと今になって感じている自由はないけど理由なく怒鳴られる事も理由なく殴られる事もない生活やっと安心を得ることができた施設で生活する子供達の入所理由は様々生まれた時から親の顔も知らない子私同様虐待を受けた子ネグレクト生活苦みんなの心の中はわからないけど寂しそうにして
祖母は嫁いだお家も裕福でいつも『うちのパパはね』と私達に祖父の話を自慢げにしていた母が高校生の時に病気で亡くなっているので私達姉妹は祖父に会ったことはない祖父が亡くなった後祖父の実家で同居だった祖母は肩身が狭くなりお姑さんにかなりいびられていたと話していた事があるだけど義父はいつも優しくしていてくれたそうでその義父も亡くなりますます居場所が無くなった祖母はその家から出る事になったその後は夜の仕事をしていたと聞いたけど持病の喘息や顔面神経
無事に祖父母に会う事ができた姉は家を出てきた訳を祖父母に話した祖父母は事情は理解してくれたものの姉を引き取る事はできないと。。。その日の晩のうちに母に連絡をしてしまった父方の祖母は電話で母に「引き取ったのに家出してくるなんてどうなってるの!」そう言った連絡が入った母と祖母はすぐに名古屋に向かった翌日の朝には2人が迎えにきたあんなにも大変な思いをしてやっと祖父母の元に辿り着いたのに呆気なく連れ戻された姉自宅に帰るともちろん言うまでもなく
祖母は私達が家出をする度に家を出て行けない様にするための対策を強めていく以前にも書いたが玄関のドアが開くと音が鳴るようにしたり常に私達の姿が見える位置に自分が座って見張ったりした私も姉も自分が虐待をされている時はどうやって家を出ようかとそればかり考えいたそして私はある方法を思いついた玄関がダメなら。。。家の外に出る手段はベランダしかない当時我が家はマンションの6階に住んでいた運の良い事にベランダの横は共用の階段だったあのベランダの手摺を
私達姉妹が家出を繰り返すため祖母は私達が自由に動けないよう手足を帯紐で縛り付けるようになった手が自由に使えなければ玄関の鍵も開けれない手だけを縛る時もあれば手足を縛る時もあった2段ベットの柱に括り付けられる時もあったそうなってしまえばもちろん祖母からの暴力を受ける時は腕で自分を庇う事も逃げる事もできずサウンドバック状態もう最悪の状況だったある時祖母は私に激高してまたベットの柱に私を縛り付けた怒りのままに力いっぱい縛り付けた紐は私の手首に食い込
姉の生きて行く力これは小さな時からの色々な経験から通ずるものがあるのかもしれないと思った姉が虐待を受けている時みんなが家を留守にしている間に姉は空腹に耐えかねて台所を物色炊飯器のごはんを食べるそれが祖母に知られてしまい祖母は台所の引戸の内側につっかえ棒をして扉が開かないよにしてから出掛けていたこれは以前の投稿でも書いたそのつっかえ棒すらもうまい具合に外してキッチンに入る姉。。。そしてそれも祖母に知られてしまい姉はみんなが留守にする時はベラ
猟奇化していく祖母の虐待の内容は今思い出してもゾッとしてしまう姉が虐待を受けていた時姉は着ていた服を全て脱がされベランダに真っ裸で放り出された事があった中から鍵をかけて何日間もベランダに放置されたトイレに行きたいと姉がお願いすると祖母はシンクに置くタライを持ってきたそしてその中でしろ!と姉に言った姉は仕方なくその中に用を足したそしたら祖母が「自分がしたんやからその中に座っとけ!」と姉に言ったのだった姉は祖母に言われるがままに自分が用を足し
あれは真冬だった私は毎日24時間玄関に立たされていた時期があったかろうじて服は着させてもらえていたものの足は裸足だった暖をとる事もできずずっと玄関に立っていた何故玄関なのか理由は忘れた誰かがうちに来るたびに玄関先から見えないように移動する事を祖母から指示されて尋ねて来た人が帰るとまた元の位置に戻される真冬だったため足は冷え切って感覚が無くなっていた玄関に立たされるようになって数週間が過ぎた頃私の足の色が変わり始めた足の指はどんどん黒く変色してい
それにしても娘があんなに酷い事をされている家の中で平然と生活のできる母の心理状態は少し異常だと思う私が包丁を突きつけられても私が湯船に沈められても姉が大怪我を負っても祖母を止める事なくそれどころか姉に口止めまでしてしまうどう考えても正気の沙汰ではないと思う普通ならこれが他人でも助けようとしない?通報でもなんでもその人を何とか助けようとしない?それを我が子が受けているなら尚更だと思う私がもし自分の子供達があんな事をされたら。。。という
姉は見つかっては家に連れ戻され家を出ないように監禁されたそれでもあらゆる方法を使ってまた家から逃げ出しそしてまた家出をするとおじさんの所へ行ったけれどおじさんにいつまでも面倒を見てもらう事はできないと姉は感じ取っていたそして姉は次の決断をするおじさんの車のダッシュボードに少しだけお金が入っているのを姉は知っていたおじさんの目を盗みダッシュボードに入っていたお金を握りしてめて姉は駅に向かった。。。姉が向かった先それは父方の祖父母が住む
私達姉妹の家出姉は祖母の虐待が始まってから以前も書いた様に家出を繰り返したもちろん私もそれを見ていたため家出を繰り返したが私はといえばお金もなく着の身着のまま家を飛び出して行く当てもなく団地やマンションの駐輪場などに身を隠すしかなかった友達に助けを求めた事もあったが親御さん達が不審に思いすぐに家に連絡が入ってしまう食べる物もなく限界が来た私達はとうとうスーパーで食べる物を盗んでしまったそれが見つかって補導されて家に連れ戻された事もあ
私は一時保護所から帰宅して数日後施設に人所するための準備をしていた荷物をまとめている時祖母から「これはこの家で買ったものや!持って行くな!」と嫌味を言われながら支度をした施設に入ることが決まっていたためさすがに暴力は振るわれなかったけど祖母は最後の最後まで私を罵った私は必要最低限の荷物をまとめ母に連れられ施設に向かった私が入所した施設は都会のオフィス街の中に建つ大きな建物だった祖母から監禁を受けている時沢山読んだ本その中に出てくる子供を預かる
祖母がどうしてあんな事をしたのか?できたのか?祖母の過去に何かあったのか?何故?どうして?そんな質問を沢山頂くけど正直姉にも私にもわからない。。。むしろ私達が教えて欲しいと思う。。。どんな理由があるにせよ決して許される事ではないだけど私も考えなくはないあの人に落とされた闇は一体何なのか?母に聞くと子供の頃から祖母は何不自由なく育ったと言っていた本当にそうなのだろうか?外側から見れば不自由なく幸せに育ったように見えただけでは?もし何も原因がない
母は私達が虐待を受けていた時どんな気持ちだったのだろうどうして助けてくれなかったのだろう今でもとても疑問に思う我が子が実の母親からあんなに酷い目にあわされているというのに何故止めてくれなかったのか何故私達を連れて家を出てくれなかったのか私はこのブログを書くにあたって姉から「お母さんの事でもあるしブログを書く前にお母さんに一言言っておいた方がいいんじゃない?」そう言われてブログを書き始めてすぐに母にブログの事を伝えに行った母はその時初めて私に「1つ
姉はというと始めの頃は私と同様家の近所で身を潜めなら過ごしていたけれど何度も祖母や母に捕まえられている間にもっと遠くへ逃げなければ。。。そう思うようになったそして姉は電車に乗り幼少期父の元へいた時にお世話になったクリーニング屋のお姉さんの所へ逃げた勿論電車賃なんて持っていない無銭乗車だったその時の気持ちは見つかったら殺される。。。と思うぐらい追い詰められ命懸けで逃げないといけない子供ながらにその恐怖から逃げるためならなんでも出来たんだと
祖母からの許しが出て姉が普通の生活に戻ったのも束の間祖母の次の標的は私に変わった姉の時と全く同じ何時間も続くお説教から始まり正座食事抜き。。。。それが始まった時今まで姉がされた事を見てきた私は次その次と自分に降りかかる祖母の仕打ちは予測できた食事を食べさせてもらえなくなるのはいつ?布団で寝れなくなるのは?暴力は振るわれるのはいつ?学校へ行けなくなるのは?ほんとにデジャヴのように同じ事をされたこうして私達姉妹は祖母と暮らしている間2人共
どうして祖母はこんな悪事を思いつくのだろう祖母に殴られている最中に突然祖母からここへ手を置け!と台所の引戸のサッシに手を置くように言われた手を置いた瞬間祖母は思いっきり引戸を閉めた木でできたガラス窓の入った重たい扉は私の手に容赦なく襲いかかった怖くて手を引っ込めると手を退けるな!と怒鳴られる何度も何度もそれを繰り返してくる祖母もう指が無くなるんじゃないかと思った。。。痛みよりも扉が自分の手に向かってくる恐怖心の方が大きかった様な
祖母は私達をどんな風に育てたかったのか。。。そして私達に何故苛立ちを覚え始めたのか祖母は私達を引き取ってから女の子らしく慎ましくお上品で可愛らしくマナーのある子。。。きっとそんな風に育って欲しかったのだと思う引き取ってからの私達を祖母はまるで着せ替え人形の様に扱ったいつもフリフリの服を着せられ学校に行く時も毎朝私と姉の髪の毛を編み込んだ女の子だから女の子なのにいつも口癖の様に言っていた私はフリフリの服を着せられるのがとても嫌だったもち
母がどうして父の元に姉と私を置いて行ったのか。。。『お母様には彼がいらっしゃったのでしょうか?』『お母様は何故お父様の所へ置いたまま出て行かれたのでしょうか?』『こうなる事は想像できたはず。。。』こんな質問を度々いただく。。。私は当時何も事情を知らなかったし気がついたら母がいない生活だっただけどきっと何か私達を置いて行かなくてはならない事情や理由があったんだろうとは小さいながらに思っていたし私達を置いて出た母を恨んだ事は今まで一度もない私がこのブログを
Bonjour!りんまおです🦭💕今AOコーチング第六講義が終わったところなんだけど自分の思い込みに大爆笑でした🤣💖冬至を過ぎてからは今まで行動したくなくて目を逸らしてきたことに対してどんどん向き合わされてる感じ🥶💙💙ネガティブな感情が出てきた時少し焦りを感じていた自分もいたけど重い思考を外せるチャンスだし望みを教えてくれるってことを思い出せて安心できました🥰💓💖この世界は全て相対性🌏😆‼️❤️青子さんありがとうございますっ💙💙そして今日は勇気を出して手を上げて青子
ある時その日は食事ができなくて2人で途方に暮れていた。。。そしたら姉が継母の母の家に行ってみようと言い出した継母の母は私達に会うといつも優しく接してくれる人だった少し前までは私が1人でも行けるぐらい近くに住んでいたのにしばらく行かないうちに継母の母は私達の住む所から5駅も先に引っ越していたもちろん当時の私は5駅も離れているなんて知らなかったし家の場所も覚えていなかっただけど姉はちゃんと覚えていたどれくらい歩かないといけないのか想像もつかないまま
私は当時3歳4歳ぐらいだったから記憶は途切れ途切れだけど1度大きな施設の様な場所で母と姉と私の3人。しばらく沢山の家族と集団生活をしていた記憶がある。どの家族もお母さんと子ども達だった。2段ベットのある部屋でよその家族と一緒に生活した。子ども達みんなでホールの様な所に集まってまーるく円になって座っておやつを食べたり。。。大きくなってからわかったけどあれはいわゆるシェルターみたいな所だったんだろうな。母は私達を連れてきっと父から逃げないといけない理由があったんだろ
私は度重なる家出の末に児童相談所に保護され一時保護所で一時的に保護された一時保護所というのは児童相談所が管轄する言葉通り子供を一時的に保護する所で何らかの理由で家には帰れない帰すことができない児童を預かるそこには0歳児〜高校3年生までが入所でき親に育児を放棄されて児童養護施設が決まるまでの間入っている子もいれば非行行動が酷く家庭裁判所の結果を待つ子もいる理由も年齢もさまざま最長2ヶ月間しか入れずもちろん自由に建物内を動くことも出入りする事も
結局何も買う事が出来ないまま入学の日を迎えた。もちろん入学式にも行けなかった。私には入学式に着て行けるような綺麗な服もないし一緒に行ってくれる親もいなかった。。。姉からこの間聞いて初めて知ったんだけど向かえに住んでいた幼馴染のお母さんが筆箱をくれた。えんぴつと消しゴムは姉の使い古しを貰った。1度だけ学校に行った記憶が残ってるきっとその日は新1年生の登校初日ランドセルもまだいらないし私は何も持たずに学校に行ったんだと思う。私にとっては初めての登校日
祖母の私達への虐待は止まる事なく続いたそんな中姉が虐待を受けていた時の事姉はもう5年生も終わりに近づき3学期も中盤に入っていたリビングのテーブルの上に置かれた見慣れない冊子表紙には雪化粧の山の写真に「白峰村」と書かれていた私はその時通常の生活をしていた何やら母と祖母がバタバタとしているそんな雰囲気が何もわからない私にも伝わってきた3月中旬春休みに入ってすぐ突然泊まりで出かけると言われたしか母に連れられて姉と私と祖母と4人で電車に乗ったかなり長
3歳ぐらいから始まる私の記憶は…父と母と姉の4人暮らし風呂無しの6畳二間のボロボロアパートだった。父が家に居た記憶はほとんど無い。いつも母と姉と3人で居た記憶が強い。この当時の写真が残っていて私はカメラを向けられると変顔ばかりする茶目っ気たっぷりの女の子だったみたい。(今の私からは想像もつかない!あの頃の私どこ行った?)保育園の先生と母の保育手帳のやり取りを見ても、かなりのおてんば具合が伝わってくる。自分の記憶でも保育園に行くと男の子と園庭を駆け回る。お遊戯会で他の子
姉が白峰村へ行ってから私は実は少しの希望を持っていたそれは祖母のターゲットが2人では無くなったことだった今までは2人のターゲットがいた祖母は2人同時に同じように接する事ができないだから片側だけを虐待してその間は片側を普通に生活させるターゲットが1人になれば虐待は起こらないかもしれないそんな期待があったけれどその期待は奇しくもすぐさま裏切られた姉がいなくなった直後から矛先は私のみになってしまったそれは私にさらなる絶望感を生んだもう終わる事はないそう感
私もいよいよ小学校に入学する時がきた。と、言っても親は子に無関心。。。父も継母も私が小学校に入学する年だという事すらもわかっていなかったのではないかと思う。入学準備はもちろん何も言ってもくれないし何もしてもらえなかった。いつから?どうやって?学校に行けばいいのかもわからない。ランドセルも体操服も給食服も筆箱もえんぴつも消しゴムも何もない。。。どうしよう。。。学校に行けない。。。姉と途方に暮れていた。そしたら姉が部屋の隅っこから貯金箱を引っ張り出してきた。