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☆またもや放送業界にコンプライアンス問題が発覚、大人気のラジオ番組オールナイトニッポンにおいて笑福亭鶴光の替え歌が謝罪問題に発展したようです!はいはい、まぁ鶴光なら何が起きても不思議はありませんね、何しろ放送倫理なんぞに縁の無い方です♪腑に落ちないのは局が正式に謝罪したのが、放送日時から3ヶ月も経った後からだった点なのです😅替え歌に使われたのはピンクレディーの名曲UFOと、渚のシンドバッドとサウスポーのようですねぇ。誰からのクレームで謝罪したのかさえ明らかになってはおりませんが、謝罪相
今日は「UFOの日」であります。今を去ること77年前の1947年(昭和二十二年)6月24日、米国人ケネス・アーノルドが自家用機で飛行中に円盤状の謎の飛行物体に遭遇。アーノルドはこの謎の飛行物体を”FlyingSuecer”と称したことから、日本でも「空飛ぶ円盤」という固有名詞が広まったというわけ。この現代的UFO調査・研究の発端となった「ケネス・アーノルド事件」に由来して6月24日は「UFOの日」となったとのこと。宇宙人はいると思う?▼本日限定!ブログスタンプあな
咲き始めました✌️🥰一斉にとはいかんなあ(笑)ま、今年はしょうがないかな(笑)来年は上手くいくかなあ。もう少し増やさなければ!とりあえず今年は産直かな?🤣宿根ガーデンかすみ草ピンクレディーそろそろ切ってみようか(笑)いい感じに揃ってきたわ!😆
ケイちゃんこと増田惠子さんがソロデビュー40周年を記念して、11月28日に初めての配信ライブを行うことが決まった。この日を心待ちにしているファンの方も多いはずである。増田惠子40thアニバーサリー配信LIVE高音質・高画質のライブストリーミングで心躍るライブ体験をあなたにthumva.com今から40年前、1981年のこの日、ケイちゃんのソロ歌手としての最初のシングル「すずめ」がリリースされた。ピンク・レディーの解散から約8か月後のことだった。この時の芸名が現在の「増田惠子」ではなく「増田け
我が若い頃に流れていた歌謡曲🎵はこんな雰囲気をまとっていました。そして若きヒデキの歌声が好きなかたは多いんですね!そうか、この曲のようにヒデキは星から来た人。もう空に帰ってしまいました。でも、たびたびこちらに来ているようで、ヒデキは今もやることいっぱい。しかし、亡くなったらどうなるのかは人間である限りずっと誰もわからないんですねえ。西城秀樹㊗️誕生日:「星から来た男」(再編集)bedoさん、リクエスト有難うございました。🙇♀️麻丘めぐみさんとの誌上対談やその他の画像は、ちょうど「
「テレビ」の歴史を通し、その時代を読み解く「テレビ史」シリーズ…今回は、「『歌番組』の歴史」について描いているが、前回の記事では、1953(昭和28)年のテレビ放送開始から、1969(昭和44)年に至るまでの「歌番組」の歴史について、ざっと振り返ってみた。今回は、その「続編」であるが、今回のテーマは、「権威に反逆する者達」である。では、その「権威」とは何か…。それは、当時、隆盛を誇っていた「ナベプロ帝国」であり、「NHK紅白歌合戦」など、まさに当時の日本の芸能界・音楽界を取
「UFO」っていえば、何といってもピンクレディー(;^_^Aまさに昭和50年代を席巻したアイドルデュオだった。「UFO」はその代表作といっていい。彼女らの楽曲には個人的に大好きな「SOS」とか「渚のシンドバッド」なんてもあるけど、とりわけ「ウォンテッド」は、歌詞がまさに「多羅尾伴内」なんで、非常に興味深く思っている。まあ「ウォンテッド」に関しては、いずれ「多羅尾伴内」と絡めて話題にしたいとは思っている。ところで、件の「UFO」を歌うピンクレディーの衣装は、シルバーラメのミニワンピー
TOKIです。メダカを飼い始めて一年を超えました。もう少し簡単だと思っていましたが意外と大変、、、水質はちょくちょく測っています。多分問題ないと思います?最近、水槽リセットして再度メダカを飼い始めました。1匹が暴れん坊で追いかけまわすんで隔離、禁錮1週間水槽に戻してみると、また追いかけまわす。1匹死んでしまいました、現在無期懲役又は終身刑で隔離中🥲平和な水槽になったかと思いきや違うメダカがまた暴れ出す!シンガポールの空港にてこんな綺麗な、🤩(なんて言う🐟?)水槽
あの頃のミーちゃんケイちゃんに会えるDVD「ピンク・レディーin夜のヒットスタジオ」。これからDISC2を観ていくのだが、実はいささか気が重い。収録されているのは、1978年11月の「カメレオン・アーミー」から81年3月の「OH!」まで。日本中にピンク・レディー旋風を巻き起こしてきた彼女たちが、ついに栄光の頂点を極める直前から、紆余曲折の末に解散に至るまでの2年半である。順風満帆だった2人が逆風にもさらされ、徐々に苦悩が募っていくのが映像からも伝わってくるようで、特に当時のケイちゃんの状
ビクターエンタテインメントによる公式アカウントの開設など、ピンク・レディーに関して3月末にいくつか動きがあった。特筆すべきは、解散直前の1981年3月にリリースされた3枚組アルバム「PINKLADY」(通称:銀箱)のストリーミング配信が新たに始まったことだろう。全42曲の内訳は、シングルA面が22曲、B面が8曲、アルバムから1曲(「星から来た二人」)で、残りの11曲がこの「銀箱」でしか聴けない当時の未発表曲である。ケイちゃんのソロの名曲、「カリフォルニア・ブルー」がストリーミングで聴けるよう
年が明けて1981年。解散まで2か月を切った2月9日、ピンク・レディーは「夜ヒット」に出演し、前回と同じく「リメンバー」を歌った。この日の新聞ラテ欄の番組表には、久しぶりに「ピンクレディー」の文字があった。緑と赤に染めた羽を縫い込んだコスチュームで歌う2人の背景には、ミラーボールといくつかの光源が配置され、「夜ヒット」お得意のクロスフィルターを使った光の演出が施された。今回もワンコーラス歌ったところで、後方の共演者たちが席から立ち上がって盛り立てる。間奏では、当時の生放送では珍しく、コマ送りの
ケイちゃんが22歳になった1979年9月、ピンク・レディーの所属レコード会社、ビクターが打った販売戦略は極めて異例のものだった。日本を除く世界40カ国で、5月にワーナーから同時発売されていた「キッス・イン・ザ・ダーク」を、国内での14枚目のシングルとして9月5日にリリース。そして、そのわずか4日後(9月9日)に、15枚目のシングル「マンデー・モナリザ・クラブ」を発売したのである。「夜ヒット」では、9月10日(奇しくも月曜日)に後発の「マンデー・モナリザ・クラブ」が先に歌われた。この曲には、
ジャングルジムのような格子状のオブジェに施された無数の小さな電飾が、キラキラと輝く。まるで夜空の星雲の中で、2人が歌っているかのようだ。黒のレオタードの衣装に縫い込まれたきらびやかなスワロフスキーが、電飾に呼応するように瞬く。1979年11月12日の「夜ヒット」、ピンク・レディーは、西武球場での公開放送に続き、今回はスタジオで「キッス・イン・ザ・ダーク」を歌った。暗闇の歌にしては眩しすぎるほど、セットはゴージャスな雰囲気である。美術さん、照明さん、電飾さん、なかなかやるじゃないの!「夜ヒット」
1977年のある時期から約2年ほどは、テレビでピンク・レディーを見ない日は、ほとんどなかった。歌番組もさることながら、とにかくコマーシャルへの出演が多かった。所属事務所T&Cの経営者、貫泰夫氏の著書によると、1年に約300本の番組出演に加えて、コマーシャル出演の年間契約を11もの企業と結んでいたという。貫氏は牛乳石鹸、松下電器、神州一味噌、雪印乳業、アサヒ玩具、日清食品、日本ハム、片倉工業、小西六写真、学習研究社、大日本除虫菊の名前を挙げているが、それ以外にも例えばグリコの「アーモンド・ダ
いつも当ブログ、『昭和TVワンダーランド』へのご訪問をありがとうございます。さて、2022年6月よりYouTube番組『昭和サブカル打ち上げTV』の昭和アイドルシリーズが再開しておりますが、またまた更新がありますのでお知らせいたします。【ピンク・レディー】後編歌謡界のあらゆる記録を塗り替えた軌跡を、デビュー曲からリリース順に考察。果たして平成女子の反応は?【昭和アイドル談義Season2第6回目】当時のマスコミバッシングにより、きちんと報道がされなかったピンク・レディーのアメリ
♪この世をいきいきとバラ色に飾るには心が感じやすい方がいいOH!「あれ?」ミーちゃんが歌い始めたソロパートをDVDで視聴しながら、なぜか違和感を覚えた。1981年3月30日、ピンク・レディー解散前日の「夜ヒット」、最後のシングル曲「OH!」の歌唱シーン。楽曲は確かに「OH!」だが、何か違っていないか?モヤモヤとしたまま、歌はケイちゃんのソロに引き継がれる。♪形だけ整えたよそ行きの顔より小さな言葉で裸になるがいいOH!OH!違和感の理由がわかった。彼女たちが歌
ネタ提供ありがとうございます。もはや15歳で区切るのもどうかと思われるこのシリーズ雪崩を打ってネタ提供が来ています。エマニュエルのテーマでどうぞ。また同僚のセンセからクレームきたらどうしてくれるー私が尊敬してやまないゴリラさまたちは飼育員の見ている前では決してセックスしないそうだYOそれに引き換え、時に見せる変態も存在するニンゲンもしかしたらゴリラさまより本能に忠実なのではないかと瞠目。検索しても、まあ、こういうニンゲンの闇の部分は出てこないし書かないよ
現在、私は当ブログで「サザンオールスターズと野球界の40年」という記事を「連載中」であり、先日は、「サザンオールスターズ前史」と題して、1974(昭和49)~1977(昭和52)年にかけての、サザンオールスターズが、青山学院大学の学生バンドだった頃の話について、描いた。そこで今回は、私が描いているサザン史で、「サザンオールスターズと野球界の40年」が「正史」だとすると、そこで描き切れなかった事柄などについて、「外伝」として描いてみる事としたい。「サザンオールスターズと野球界の4
ピンク・レディーが出演するテレビ番組のテーマ曲とコマーシャルソングだけで構成した「星から来た二人」。“テレビの申し子”ピンク・レディーでなければ成立し得ない、この異色のアルバムについて書いてきたが、残すトラックはあと2つとなった。それらについて述べる前に、少しだけ、このアルバムがリリースされた1978年11月の状況についてふれておく。ピンク・レディーの活動の軌跡を振り返ると、この11月が一つのターニングポイントとなったことは間違いない。テレビと歌謡曲が大衆娯楽の主役だった70年代の後半、彗星の
ピンク・レディーが「夜ヒット」で2度目の「モンスター」を歌ったのは1978年8月28日。前回の出演からは、70日も経っている。この日はまずオープニングメドレーの最後に登場し、共演者たちをバックに「サウスポー」を歌った。衣装も、この曲用のベースボール風コスチュームの黒いバージョン。わざわざオープニング用に用意したのか、それとも前の仕事で着てそのまま移動してきたのかは定かではない。自分たちの歌のパートでは、水色のミニのワンピースに着替えて登場。前回はセパレートの衣装だったが、歌唱中にミーちゃんの
行きつけの宇奈ととへ。宇奈ととは、G-FACTORY(3474)という上場企業がFC中心で運営している激安うなぎチェーン。韓国の男性アイドルグループみたいな名前の会社だ。時価総額は29億円と小さい。株主優待は廃止されたばかり。前回はうなめし「鰻増し」だったが、今回は「鰻特増し」を選択。うなめし550円うなめし鰻増し1.5倍660円うなめし鰻特増し2倍770円さて、鰻特増しはこんな感じだ。参考までに、、、こちらは前回の鰻増し。うなめしに乗っているのは切り落とし的な安
1980年9月1日。ミーちゃんケイちゃんは赤坂プリンスホテルで記者会見を行い、翌81年3月末をもって、ピンク・レディーを解散することを発表した。2人とも「ピンク・レディーとしての活動は使命を果たし終えた」と考えたこと、そしてそれぞれの価値観が違ってきたので、次のステップに進むため、別々の道を歩むことにしたと、解散の理由を語った。会見の様子を伝える当時の記事によれば、2人とも「終始にこやかに笑顔を絶やさなかった」(スポーツニッポン)といい、「新しいものへの出発を発表する場のような雰囲気だった」(
山口組三代目の田岡一雄組長が1978年7月11日に店内でピストルにより狙撃されたことで有名な京都のナイトクラブ「ベラミ」の1976年6月のショー・スケジュールとコースターとマッチ。この月には菅原洋一やフランク永井らが出演。越路吹雪、坂本九、ピンクレディーらもここのステージに立っている。山本千代子ママの死で1985年に閉店した。
「ピンク・レディー」と「ピンクレディー」、正しい表記はどっち?もちろん、正解は前者。ピンクとレディーの間に「・」がある方だ。ところが、後者の表記、ひとつながりに「ピンクレディー」と書く人は意外と多い。そんな細かいことは気にしない、大雑把な性格の人たちなのだろう、と考えるのは早計である。自分なりに大胆な(?)仮説を立ててみた。実は70年代後半の彼女たちのブームを知る世代の方が、「・」のない「ピンクレディー」が正しいと思い込んでしまっている可能性がある。なぜか?…原因は、新聞のラテ欄(ラジオテレ
千葉県の成田空港が「新東京国際空港」として開港したのは、1978年5月20日のことだった。ピンク・レディーの軌跡に重ねるなら、ちょうど「サウスポー」がオリコンシングルチャートの首位を独走していた時期だ。新しい日本の空の玄関口が出来たことで、翌79年には日本人の出国者数が初めて年間400万人を超えた。とは言っても、現在と比べると4分の1にも満たない。バブル期の海外旅行ブームはこれより10年ほど後になる。まだまだ多くの日本人にとって、海外は遠い存在だった。そんな時代に、日本国内で大ブームを巻き起こ
今回も作家でスポーツライターの山際淳司氏が、1978年11月から12月にかけて「週刊文春」に連載したルポ「ピンク・レディーの1000日」から、ピンク・レディーの「育ての親」的な存在で、PLプロジェクトを牽引した相馬一比古氏についての記述を中心に見ていきたいと思います。前回は、ピンク・レディーの所属事務所T&Cの制作部長だった相馬氏が、プロデューサーとしてコンサートツアーに同行し、ステージ制作の現場を仕切る場面などを紹介しました。今回は、会社の幹部としての相馬氏の役回り、またミーちゃんケイちゃん
ピンク・レディーが活動した1976〜81年にかけて、国内のテレビで放送され、現在DVDで視聴できる歌唱シーンの映像をリスト化したところ、最も多いのが「UFO」の歌唱映像だった。78年1月19日放送「ザ・ベストテン」(「PinkLadyChronicleTBSSpecialEdition」所収)その32件(メドレー含む。別々のDVD作品に同じ内容が重複して収録されている場合は1件と数える)の映像のうち、TBSで放送されたものは半数を占める。つまり、今年4月にDVDボックス「Pink
こんちは、yoichiです先週書いたドアミラーの効果ですが結構、良い結果でした小さい水滴は付くのですがちょっと大きくなると直ぐ流れ落ちてミラーはしっかりと後方確認できますしかし、運転席の窓や助手席の窓は大粒の水滴がベッタリついて肝心のミラーが見にくくて仕方ありません窓の水滴をなんとかしなければ・・・さて、今週木曜日はPIN★LADYのLIVEの予約開始日です6月27日16時より予約受付開始します予約窓口はAVANTI(アバンティ)になりますAVANTIのホームペー
令和最初の7月、東京は梅雨前線の影響で日差しが少なく、特に前半は記録的な日照不足だったそうだ。39年前、1980年の7月もいわゆる冷夏で、似たような傾向にあったらしい。農作物への被害は、日本全国で戦後最大の7千億円近くに上った。その年の七夕、7月7日の東京の天気は、曇り時々雨だった。天の川は見えなかったに違いない。その夜に放送された「夜ヒット」、赤のコスチュームで登場したピンク・レディーは5月の出演に続き、「世界英雄史」を歌った。♪ナポレオンもシーザーも始皇帝も死んだジンギスカン
繰り返された「小さな爆発」「なぜ、こんなにまでやらなくちゃいけないの。ほかのタレントさんはこんなにハードにやってない」いくどか、彼女たちはそういった。現場についているマネジャーの春日進は「ピンク・レディーはほかのタレントと違うんだ。目ざすところが違うんだ」といって、決して甘い顔を見せない。「春日さんは鬼だ」と、思わずケイがいってしまったことがある。そういう言葉が出てしまうときがある。(「週刊文春」1978年12月20日号)作家でスポーツライターの山際淳司氏が、「週刊文春」誌上