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お誕生日…底辺ぼっち女はドヤ街“山谷”にいた。南千住駅を下りた瞬間から浮浪者臭いッ!目の前には処刑場跡…ウソでしょ…お仕事とは言え、なんでお誕生日にこんなとこにいなきゃならないの???泪橋から一気に雰囲気が変わる!簡易宿泊所が建ち並び、歩道には自転車がズラーッと!普通に考えると旅館やホテルには定住しないから自転車がこれだけあるのは不自然…そう言えば…駅前の駐輪場に自転車ドロボー監視中の貼り紙があった。今や、自転車はどこででも借りられる時代!盗む人なんているの?と不思
さて、少し唐突ですが、これが何かわかりますか…?私はこの仕事に就くまで知らず、それまでは見たことがありませんでした。正解は、炊き出しの場で使われている、自分の食事を受け取る順番の目印です。炊き出しによっては、配られる食事に限りがあることもあります。確実に一食にありつけるよう、また食事の配布が混乱しないよう、炊き出しに並ぶ人が状況を見ながら工夫しているのだと思います。以前、何かの拍子でその目印がずれてしまったことがありましたが、それに気づいた人が静かに元の位置に戻していました。その
ほぼほぼ毎日横浜・寿町の町に居る………・東京・三谷大阪・釜ヶ崎そして横浜・寿町………日本三大ドヤ街そう呼ばれてもう何十年になるのだろうか?ドヤ街…ドヤって何か解りますか?宿・ヤド…をひっくり返した言葉…です。三谷も釜ヶ崎も寿も遠い昔は日雇い労働者の町………でした。三谷ブルース/岡林信康あしたのジョー/泪橋の一場面三谷には昔泪橋がありあしたのジョーのスタート場面はジョーが泪橋を渡り三谷に入る場面からスタートします。このブログの読者の皆様な
2月26日(木)、炊き出しとアウトリーチ活動を行いました。今回はボランティア7名、スタッフ2名の計9名が2班に分かれ、事務所近くの橋のたもとでの炊き出しと、両国方面へのアウトリーチを実施しました。炊き出しには53名の方が来られ、両国方面のアウトリーチでは7名の方にお会いしました。あわせて60名の方々におにぎりをお渡しすることができました。寝袋を持った男性がおり、はじめてお会いする方だったので挨拶をしました。ここ数日は少し肌寒く、路上で生活されている方にとっては夜の寒さが堪えるとのこと
一時帰国、ホテル泊する少し前のこと。日本へ母子で一時帰国していました。これまでは、私たち夫婦の実家にお世話になっていましたが、やはり長いとお互いに疲れる…ので、今回はホテルにも滞在しました。関係はどちらの家とも良好だけれど、やっぱり気をつかうのでね💦がしかし、ホテルも安くないそんなとき見つけた都心で1泊6000円ほどのお宿。あら、立地もいいし、ここにしよ!とポチリ。到着して山谷エリアだと気づくいざ、ホテルへ向かうと…私は気づいた。「あ、
10月22日(水)、アウトリーチを行いました。今回は、ボランティア3名とスタッフ1名の計4名で、隅田川河川敷エリアを訪問し、31名の方にパンセットをお渡ししました。当日はあいにくの雨で、気温もぐっと下がった一日となりました。この日は、普段は姿が見えない方が寝床にされている場所にいらっしゃる場面が多く見られました。理由を尋ねると、「仕事が休みになったからね」と教えてくれました。山谷地域で路上生活を送る方々の中には、東京都の特別就労対策事業※として「上野公共職業安定所玉姫
またドヤ街に宿泊10月の一時帰国の備忘録。以前、東京でドヤ街である山谷エリアの簡易宿泊所に泊まった。『独特なエリアに泊まった一時帰国(日本堤・山谷・吉原)』一時帰国、ホテル泊する少し前のこと。日本へ母子で一時帰国していました。これまでは、私たち夫婦の実家にお世話になっていましたが、やはり長いとお互いに疲れる…ameblo.jp万博のために行った大阪でも同じく、西成区の格安宿に泊まりました。親子2人、女性専用フロアで1泊5000円弱!安い!入口
◻︎土手通り明日のジョー象◻︎桜なべ中江(馬肉)土手の伊勢屋(天麩羅)◻︎馬肉の千葉屋◻︎吉原大門交差点◻︎吉原大門へ続く五十間道◻︎吉原大門の前にあるラーメンランド◻︎台東区千束4丁目◻︎千束稲荷神社◻︎台東区日本堤1丁目◻︎簡易宿泊所が並ぶ通り◻︎山谷地区から見える東京スカイツリー◻︎湯どんぶり栄湯◻︎カフェバッハ◻︎バッハブレンド700円◻︎城北労働・福祉センター(改装中)◻︎いろは商店街◻︎山谷労働福祉会館◻︎泪橋交差点◻︎映画喫茶泪橋ホール
山谷や西成は、特別な人だけが行き着く場所ではありません。会社の倒産、仕事を失うこと。暮らしは、思っている以上に不安定で、紙一重です。誰にとっても、そこへ行ってしまう可能性があります。神戸・新開地も、かつては戦後の混乱の中でドヤ街が密集した街でした。昭和の山谷や西成と、よく似た空気を持っていた場所です。そこには、昭和を生きた無名の人たちがいました。剝き出しの人間臭さを抱えながら、日々をつないでいた街でした。時代が流れ、新開地はいま「昭和レトロな街」として語