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はじめての入院の記念すべき初食事。(一口食べたところで慌てて写真撮りました)ふりかえりではもう退院して兄の死も発覚したところまで行ってしまいましたが、手術後のトラブルがあったのを記し忘れていました。床擦れ。これには驚きました。いまもくっきりと跡が残っています手術のあと、予想外に腋窩リンパの郭清が施されたと知ってから不自由な体に戸惑っていました。病室に戻って自分のベッドが、手術当日朝の、着圧の靴下を履いたりするのに、少し角度をあげた状態のままでした。でも手術後そのまま眠り、翌朝~同じ
すっかり進行形の骨転移の治療に追われ、振り返っていなかった2020年のことを少し。2020.10.30に手術をして11.7に退院して、12日に実家へ行ったわけですが、退院報告の電話で「実はお兄ちゃん夏に死んじゃったのよ。」と聞いて理解が追い付かず、コロナ禍ですし電話で報告。と思っていましたが、とにかく顔見せにいくわ。と言って帰省したわけです。私の手術の話しをメインに抗がん剤がきつかった。入院生活はこうだった。まだ手術痕が痛い。病理結果が出てから放射線治療のスケジュールが決まること。会社には
上司には「病院寄ってから出社します。」と伝え半休を取りました。まだ、相談するには材料が少なすぎる。クリニックに到着すると、すぐに診察室に通された。「やっぱりねー悪いものだったわ。2センチくらいかなー。ちょっと位置が悪いんだよね。全摘になるかもしれないし、術前抗がん剤で小さくなれば部分切除でいけるかも。ルミナルBでHER2陰性。」一気に捲し立てられて動揺する間もなかった。「すぐ大学病院いくコロナ落ち着いてからにする」なんて言われて「そんなのんびりでいいんですか…去年の検診でなかったのに1年
遊びに来て下さりありがとうございます😊アラ還主婦のみょん太です2022年9月にすい臓癌と診断され抗がん剤治療中ですが今日も元気に過ごしています治療の事や日常生活の事など思いのまま綴っています自分の記録用としてまとめてみたらこんな1年やった2022年から2022年9月検査入院すい臓癌肝転移ステージⅣの告知(この時点で切除手術不可)抗がん剤の点滴開始(アブラキサン&ゲムシタビン)そして2023年2023年6月抗がん剤の点滴週1回を3週して
2007年3月1日ミクシーに残してある日記から2月26日13時半・・・息子(長男)が転落したとスキー場から連絡意識は戻ったが下肢が動かないと知らされ転落して6時間後に対面した息子は内臓に血がたまり輸血しないと危険であること背骨が折れ、脊髄損傷のため下半身が麻痺していると告げられました・・・・夢であってほしいと何度も思いましたが現実でした。地面に落ちた瞬間に足の位置が変で感覚がなくなるのがわかったそうです。人の気配を遠くに感じたとき、「助けてー」と叫んだけど声がで
乳腺クリニックの予約を取った数日前、「あれしこり大きくなってる気がする。」と、気がついた。毎年夏のボーナス前に乳がん検診をしていました。(数年前に良性のしこりが見つかり針生検をして経過観察ということで厳密に言えば保険診療をしていただいていました。)「良性といえど大きくなってきたら手術もあるよ」と、クリニックの先生が言ってたな。しこりのことはあまり気に留めずにのほほんと、クリニックへ向かう。私「右のしこり大きくなってます」先生「しこり…良性のしこりは左だよ」私「」先生「良性の次見つ
2020.10.30に゙手術を終えて、腋窩リンパ郭清が行われたので当初の予定の11月2日に゙退院することはできなくなったことを会社と夫に報告したのは翌日のお昼ごはんを食べたあとでした。夫は有給を取って帰京する予定でしたが取り消しました。退院の日はドレーンの廃液が規定通りに減ったら。なので◯日とは言えないとのこと。ご飯も食べられたしトイレに一人で行けるけど怖いことは明日の夜から許可されているシャワーに入ること。傷口の消毒をしてもらったときも清拭のときも怖くて見れませんでした傷を見て正気
こんばんわ。いつもご訪問&いいねありがとうございます😊今日も朝から面会へ。やはり寝起きからミルクの時間までがご機嫌ななめになるようで、今日も咳込んでチアノーゼに。私が行った頃にはピークが過ぎてちょっと機嫌が悪いくらい。いつもの薄眼チェック後、段々と目が開き始め午前中はお風呂が終わるまで、ずっとご機嫌に過ごせました。笑顔もたくさん見せてくれたのでとりあえずひと安心。だけど私が帰る直前になると、また咳込み出してなかなか治らず。。。先生も???という感じなので、何だかスッキリしません。
思い返すと針生検の結果を待つ間はクリニックの先生に「やっぱりがんでしょうか。」的なメールを送ったりしました。結果が出なきゃ先生もなんとも言えませんよね。でもいても立ってもいられなくて。変に期待をもたせずに「改めて画像確認したけどがんだと思ってくれたほうがいい。」と返信をもらってました。いま、改めて診療費請求明細を見ると「悪性腫瘍特異物質治療管理料」って載ってる先生は確信してたんだな2020.5.19事務職の私は仕事中スマホはロッカーに保管しています。しかし、日々仕事をこなしながら頭の隅
家からバスで行ける大学病院で、治療を受けることになった私は、この大学病院は2回目でした。一度目は夫が怪我をして救急のお世話になりました。あのときは救急外来と後日精算で少し入っただけですが「この大学病院スゴ」と、施設の充実に驚きました。母の通った大学病院しか知らなかったので「きれいー」という印象でした。いつもの通勤バスで病院に向かう。知った顔ばかりなので私が降りると踏んで目の前で待機してる人がいました。「今日は会社じゃないんだ…」と、申し訳なくなりました。バスを降りてからの道順は予習
ついに手術の朝、付き添いがいないのでカーテンで仕切られた隣のベッドの御婦人が旦那さんに励まされていて羨ましかったですT字帯と、きつきつの靴下、病棟の看護師さんが持ってきてくれた服に着替えていざ、出発。マスクもしていたし全身真っ白で黒いケア帽子が浮いていたな。と思いました。入院中はずっとメガネで過ごしていたのでもちろんメガネで手術室へ。待合所みたいなところで帽子とめがねとマスクをオペ室の看護師さんへ預けて、同じ時間帯に手術を受ける方の一人が私の坊主頭を見て「治療頑張ったんですね。わたしも乳が
この日は会社を休んでPET検査に行きました。初めて大学病院に行った日に数々のサインをしてPET検査の承諾書もサイン済みでした。もちろんやるしかないので全部サインしましたが。食事の制限や持ち込めないものなど話を聞けば聞くほど初めての検査でもあるので怖さが増しました。検査室は地下にあり、エレベーターを降りたら受付階や行ったことのあるフロアとは違ってシンと静まり返っていて緊張した覚えがあります。(後に検査や放射線で毎日通ったので最初だけでしたが。)進むとさらに扉。自動ドアを入るとスマホが繋
最後の抗がん剤を終えて検査ラッシュ8回の抗がん剤を終えた開放感で髪の毛はないけど、いつもの副作用も寝込むほどのものは感じませんでした。全て終えたら入院まで夫の赴任先でゆっくりしようと決めていました。なるべく早めの予約を入れてもらってMRIは外部の病院で。その日は戻って更に検査。「早く旦那さんのところ行きたいよね。」と、予約を入れてくれる先生方も「ちょっとハードだけど頑張って」と励ましてくれました。この胸のままで受けるマンモグラフィは最後になるんだな。よく皆さんは写真を撮ったというブログを
親への乳がん発覚を伝えるのが本当にきつかったです。結果、検査が全て終わり抗がん剤を開始する前の週に実家で伝えるつもりでした。時系列がごちゃごちゃになりますが、抗がん剤が始まる2020.6.22から有給を使って7月からは半年の予定で休職をお願いしました。6月19日からは最終の新幹線で夫の赴任先に行くつもりだったので実家に帰るのはその前の週しかありませんでした。私の家族は少し特殊で、下の名前を呼び合う仲のよさです。そんな仲良し家族ですが、母はどこか子離れしていない節があって、私のことが大好き
月曜に抗がん剤をして、水曜にジーラスタ。どちらも打ったその日はなんの変化もなかったのですが翌朝、からだがズーンと重く動くのが億劫でした。初回のジーラスタは特に熱が出たりはしなかったのですが、初めてこれが腰痛か。。。と実感しました。何してても痛い。処方してもらったボルタレンがあってよかったですそれでも起き上がるのとかよっこいしょでしたがそして家にこもっていたので近くのスーパーへ行くのも疲れてました。でも一人暮らしなので、買い物に行かないといけなくて休み休み歩きました。そして次の抗がん
赤い悪魔の副作用が抜けた頃に2回目の抗がん剤投与日になりました。念願のとんかつに心折られ味のしない食事に苦労しながら主治医や看護師さんから勧められていたバニラアイスやラクトアイスをはさみながら過ごしました。この期間も食べたい物リストを作って次のジーラスタの副作用が抜けた頃挑戦しようと夢見ながら心の支えに過ごしました。よく考えればわかるのですがジーラスタの副作用が抜けた頃って味覚障害が始まる頃なのに動けるようになったら動きたい願望が強かったんだろうな投与中は変わらずコード・ブルーの俳優さんに
祝日の関係でいつもの月曜日抗がん剤、水曜にジーラスタの予定が変更となり木曜に抗がん剤、土曜にジーラスタと変更になりました。「ジーラスタは何時でも良いよ。」とのことでしたが(と言っても夕方には行ったことないのですが)「土曜日は午前中でお願いね。」とのこと。残り2回はこの日程。ほんとに前半のアブラキサンに比べてEC療法はつらかった。つらすぎた手足が思うように動けなくなったり味覚障害が起きたり。ジーラスタの副作用もきつくなった気がしました。でもこの頃はゴールが見えていたし頑張れました。ただ
夫が赴任先から一時的に帰ってきていつも暗かった部屋が明るく感じました。翌日は病院へ行く日。主治医の先生と夫は初対面です。なんか私まで緊張するのは遺伝子検査があるから。午前中に主治医の問診のあとに遺伝カウンセラーの先生と面談して、血液検査となるとのこと。そうこう話してると、またずーんとした空気になり、夫が「そういえば今年誕生日プレゼントもらってない」と言い出し、ボロくなった名刺入れの買い替えをリクエストされたので、デパートへ。コロナもあり売り場は閑散としていました。希望の名刺入れを新調
遺伝子検査を最後に次に大学病院に行くときは抗がん剤の開始になる。日々働きながら怒涛の検査三昧で通い詰めた大学病院でしたが、しばらくは仕事に向き合うことになります。休職に向けての引き継ぎの準備やためていた仕事をやっつけるのに忙しくしていたので病人であることを忘れることもありました。でも自分史上ありえないくらいのショートカットが、現実に引き戻します夜はもらった治療方針の用紙や、これからやる抗がん剤の説明、遺伝子検査の用紙を読んだり結局は検索したり(主治医から「乳がんは全く同じタイプの人に出会
思うように行かないわけでこの日から赤い抗がん剤が始まる予定でした。しかし、肝機能の数値ががっつり低下してスキップになりました。ならもうちょっと夫のところにいたかったこの頃は振り返るとちょっとしたことで落ち込むことが多く夫の赴任先にいた一週間は気分も安定していて治療にも前向きでした。会社に報告していたスケジュールも変更になり上司に連絡しました。この先も思い通りには行かなくて年明けからの復帰は叶わなかったのですが。次の一週間まで猶予が与えられたわけですが沈む気分の中独り言をいいながらどう
2022年4月あと1年始と余命宣告させれてからも、面会できなかった。2022年9月この頃から、たびたび、父の体調不良が目立つようになり、その時だけは面会許されていた。2023年4月余命宣告されてから1年がたち、ほとんど会えないまま1年たってしまった。焦りとか、なんで?とか、ほんと辛かったな。2023年6月面会開始されるが、登録者2名のみ週1。面会できるようになって、ほっとした。2023年7月面会開始になるも、すぐ体調崩す。左側の前額部、頭のてっぺんまで、帯状疱疹。ひどい目
ついに来た。2回目の抗がん剤の朝、身支度を整えているとバサッと抜けましたびっくりしたし悲しかったです。すぐにウィッグを被って出かける準備。もう心に決めていました。スキンヘッドにしてもらおう。2回目からは朝の診察時間を少しずらしてもらいました。帰れる時間は少し遅くなるけど、今までの通勤のバスに乗るのが辛かったので。知らない人たちだけど、知った人たちなのでウィッグとかバレたくない。自意識過剰かもしれませんが。病院へついて診察をして、主治医に首の後ろが痒くてたまりません。あとのどのつま
公園で大声で叫びたい衝動にかられ、しばらくベンチに座っていると、大学病院の付属高校の学生さんがちらほら。あたしにもあんな頃あったな。あの頃は癌になる自分想像できてなかったな。なんておセンチな事を考えていました。今となれば高校生のときに40代の自分なんて考えてないよな何でもかんでも癌になった自分を絡めてはネガティブな事を考えていました。とにかく、とぼとぼ病院へ。受付をしてとりあえず落ち着こう。と、ドトールへ。アイスココアを飲んで気合を入れ直し外科へ。(あと少しでお昼になっちゃうな。
この日は赴任先から一時帰省してる夫の希望で、主治医の先生と、面談を。主治医の診察の後、私は遺伝子の検査について遺伝カウンセラーの先生とおはなしを。検査は保険がきく(両親共にがん、母が卵巣がんで、乳がんに罹患した年齢が比較的若いということらしい)が、この遺伝カウンセラーの先生とのお話は実費になると主治医から聞いていました夫は、私がそこまで頭まわらなかったことや、当事者として検索魔と化していた私が持っていたにわか知識の説明じゃなく専門家としての先生からちゃんと話を聞きたい。と、積極的に質問してい
夫が赴任先から帰ってきた。大宮まで迎えに行って気分転換の食事。一旦家に帰り、夫の実家へも(私の実家への報告は別記事で)私の病気について説明に行きました。義理の父も母もとても驚いていましたが、「治る。大丈夫」とポジティブな言葉をたくさんかけてくれました。その当時は「私の気持ちはわかりっこない」と、笑顔でやり過ごしましたが、いま2人に会うと本当に私の病気は治るに違いないと信じてくれていることがわかります「がん患者に頑張れ」は禁句とよく言いますが、私の場合、カミングアウトは私の判断で話したい
2日ぶりに出社。上司に面談をお願いして、今の状況を伝える。上司絶句ここ何年で乳がんで奥様をなくされた支店の方もいたし、治療に専念するために辞めた方もいました。「復職させてもらう方向でとりあえず半年休職させていただきたい」ことを伝えました。6月22日から抗がん剤を始めて手術のあとに放射線治療になる。「年明けに復帰できると思います。」と宣言。この約束は叶わなかったんですが。しばらく検査が入るので、抜けたりお休みもらったりします。あと、お願いしたことは本年分の有給を20日残してもらうこ
強烈な副作用に悩まされたdd-EC療法。ちょっとあれな話ですが、尿も赤くなると聞いて抗がん剤の日と翌日は、点滴が入っていくところすら見れない私はもちろんトイレも悩ましい事象でした。トイレは電気を消して水溜り部分を絶対見ない。と決めて最終回まで一度も見ずにすみました他にも味覚障害など困ったことを振り返りたいと思います。
午前中は主治医の診察と、初回の抗がん剤の説明、化学療法室の見学、治療前の診察のときに提出する血圧や体温を記入する用紙を受取り、夫の質問やらがあり朝イチから病院へ行ったのですが、終わったのはお昼ごろでした。遺伝カウンセリングは、13時からということで病院内のフードコートへ。さっとご飯を食べて、遺伝カウンセラーの先生と面談。夫は病院内の喫茶店で留守番。遺伝カウンセラーの先生は、まずは私の家系図を知りたいと、図に書くことを求めました。年齢や性別の他に、この人はこの病気、この人はこの病気で亡く
ついに赤い抗がん剤の日になりました。緊張や不安でやはり全然眠れませんでした。先週肝機能の数値が悪くスキップになり、やりたくない気持ちでまた数値が良くなければいいのに。。。とも思いました。コードブルーの俳優さんにそっくりな薬剤師さんに不安で吐きそう。と泣き言を言いつつ、看護師さんの「何がありますか?」に「点滴が入ってるの怖くてみたくないんです。」と、無茶なお願い。点滴のガラガラを私のリクライニングチェアの真後ろに下げてくださり点滴の管をタオルで覆ってくれました。針のところは漏れたりしたら
初めての入院になります。前日に唾液を提出して入院手続きの時にコロナかどうかの結果がわかるとのことでした。朝、スーツケースを転がして夫とタクシーを待ちました。当時自粛ムードで「旅行かよ。」と通勤の方達からの視線を感じた気がしました。出た被害妄想乗ったタクシーが、まさかの東京の道に詳しくない新人の方の車で、「あれ?こっち曲がっちゃうの?」って感じで、いよいよ時間がまずいということで、夫が裏道を教えていました。約束の時間の5分前くらいに着いてなんとか手続き開始。コロナは陰性。部屋の希望は