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この時代の貴族達は、源頼朝が大姫を亡くしても自分の娘の入内を諦めないでいること、また、源頼朝がこの時代の最大の武力を有していることも熟知しているが、源頼朝の武力を背景に源頼朝の要望に屈するようでは貴族ではない。貴族というものは、良く言えば百戦錬磨、普通に考えれば底意地が悪い存在である。源頼朝が自分の娘を入内させようとしている状況とは源頼朝にとって現在の立場が良好とは言えない状況であることを意味し、源頼朝の意向を後回しにして自分の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させ、土御門通親と同様の立場、あるいは、
4月10日出来事628年(推古天皇36年3月2日)-日本て記録(日本書紀)に残る最古の日食。823年(弘仁・こうにん14年2月26日)-嵯峨天皇の勅により比叡山寺の寺号を延暦寺に改める。1268年(文永・ぶんえい5年2月27日)-元寇:鎌倉幕府が蒙古来襲に備えて西国御家人らに防備を命じる。元寇自体は二度来ておるでの。文永の役と弘安の役。しかしながら、この1268年正月に3通の書状が鎌倉幕府に届き、外交を担っていた朝廷へ回送された。この事がきっかけとなり幕府は防衛力強化のための指令
慈円は愚管抄にて、大姫を失った源頼朝が、大姫の妹である三幡を入内させようと画策したと記述した。しかし、吾妻鏡の欠落もあって、三幡という女性についての記録は乏しい。文治二(一一八六)年生まれではあることはわかっているものの、吾妻鏡の文治二(一一八六)年の記事のどこを探しても三幡という女性が登場することはない。また、北条政子の産んだ女児であることも判明しているのだが、この年に北条政子が妊娠していることの記録も出産したことの記録も存在しない。三幡の記録が登場しないのはその後も同じで、建久六(一一
【食育クイズ:Vol.1611】「京都府」の「六波羅探題」おさらいクイズ!鎌倉幕府が京都に六波羅探題を設置したのは何の戦乱の後?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)たねす
タイムトラベラーが鎌倉時代、鎌倉市街地に入り、幕府を訪問しようとしたとしよう。幕府とは将軍の居館を意味する。近くまで来たはずだが、どこにあるか分からない。何せ現代と違って看板、案内板の類が全くないからだ。仕方なく、通行人に幕府はどこですか?と尋ねる。すると数分で大勢の武士が集まってきて、彼はどこかに連行されるはずだ。帰ってこない所を見ると、彼は斬られたかもしれない。幕府という言葉は元々中国の戦国時代に由来し、将軍が陣地を張る場所を指していた。幕=テント、府=軍事機関とい
4月9日出来事702年(大宝・たいほう2年3月8日)-文武天皇が日本で初めて全校的に統一された計量単位(度量衡・どりょうこう)を定める。1333年(元弘・げんこう3年/正慶・しょうきょう2年閏2月24日)-鎌倉幕府により隠岐島に流されていた後醍醐天皇が島を脱出し、京に向かう。1991年-グルジアがソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)から独立。グルジアは現在、ジョージアと呼び方が変わったの〜。記念日など大仏の日天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年(旧暦4月9日・新暦752年5月26日
さ~て、一度、伺いたいと思っている横浜市金沢区にある『称名寺』。そこで、今日は、同寺に参った気分で、同寺周辺の事を少し見て参ります。以下、一般社団法人横浜金沢観光協会の公式ホームページに書かれていた事を転載させて頂きます。尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。称名寺金沢山(きんたくさん)称名寺(真言律宗)金沢北条氏一門の菩提寺。鎌倉幕府の要人・北条実時が六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂から発展が起源とされます。実時の孫・貞顕の時代には三重の塔
テレビのクイズ番組が好きで色々見ているのですが偶に「エッ!そうだっけ??」と思う事があります気にはなっていたのですが調べる事もせず(笑)ところが今回ネットで見つけました皆さんはご存じでしたか・・・この中で私が何とか知ってたのは「鎌倉幕府開府年」「富本銭」「太陽系の惑星数」くらいかなあ「仁徳天皇陵」が「大仙陵古墳」なんで聞いた事も無かったかも正直言って「百舌鳥(もず)・古市古墳群」と言われても知らないんだもんね漢字の書き順も私が習った
大姫は治承二(一一七八)年に源頼朝の娘として生まれ、六歳のときに木曾義仲の後継者であるはずの源義高と婚約しており、このまま年月を重ねれば源義高との結婚生活が待っているはずであった。しかし、木曾義仲が討ち取られた後に源義高も誅殺されると、その瞬間に大姫の人生は終わってしまった。無理もない。現在の学齢でいくと小学二年生から三年生だ。その年齢の少女が、将来の結婚相手と考えていた源義高の死を知った、それも、他ならぬ父の命令で殺害されたのである。源義高の死を知った瞬間から大姫は病床に伏すようになり、
皆さま、こんにちは今日は朝ごはんにロコモコ丼を作りました✌ハンバーグも目玉焼き🍳ももちろん手作りです美味しかったあ!!😀今日も元気いっぱい頑張ります💪•••••cut•••••・1147年(久安3年)4月8日、源頼朝が生まれる→源頼朝は、平治の乱で敗れ伊豆に流されていましたが、平氏打倒の兵を挙げ、平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開き、武士政権を築きました•••••cut•••••
🌸臨済宗宗祖ー栄西☆幕府の庇護のもと禅の教線を広げた宗教家⛳密教僧が宋で禅に出会う☆日本にはじめて禅が伝わったのは7世紀中頃*9世紀にも天台宗の宗祖・最澄が中国で禅を授かった☆禅を一宗派として確立したのは鎌倉時代の僧・栄西*栄西は比叡山にのぼって出家した*比叡山では密教を学び、宋で求法を体験*帰国後は天台密教の一派を開いた*栄西は当初、禅僧ではなく密教僧として活躍していた☆栄西は密教僧でありながら次第に禅への関心を深める*2度目の入宋を果たし、天台山
後鳥羽天皇のもとには人生一発逆転を狙う者が集まり、後鳥羽天皇は周囲に集う野心家達を自分の手駒として利用するようになっていた。後鳥羽天皇は自らの周囲に野心家を集めたが、野心があるだけでは後鳥羽天皇の側に身を寄せることはできない。それが趣味の世界であろうと、あるいは実務の世界であろうと、後鳥羽天皇の求める資質を持った人物でなければ後鳥羽天皇の周囲に身を寄せることは許されなかった。彼らの野心は彼らの全員が後鳥羽天皇の求めに応えていたならば歴史は大きく変わっていただろう。しかし、歴史はそれを許
次男が言う。この帽子のかぶり方、北朝鮮の喜び組みたいじゃね?俺、YouTubeでこんなの調べるの好きなんよ!YouTubeで覚えてきたそうです。笑北朝鮮について色々教えてくれます。笑他にも色々覚えてきている。次男ママ?アウシュビッツ強制収容所って知っとる?私知っとるよ。ユダヤの人が大量虐殺にあった所よね。いつか勉強しに行きたいよね。次男可哀想よね。毒ガス使ったり。怖いけん行きたくないけど。色んな世界の歴史に興味をもつのは良いことですね中には間違った
お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-175「北条政子と不動明王現る」の続きとなります。歴史から目を背けたら、未来の道は続かない。「ルートを確保せよ」の「root[s]」と「route」という人が通ってきた道を観ないと掴みどころがないのでございます。歴史に興味がない、苦手という人は多く、私自身も可もなく不可もなくなのでそこに関しては何にも言えない。「腐った男子を作らない、本物の男を育てていくシステム」を創るには、歴史を知るとルートの
源義経と行動を共にしようとした飛鳥井雅経であるが、父親が源義経の協力者であったために配流となり、自身も連座として鎌倉に護送されると、ここで飛鳥井雅経はその才能を発揮することとなる。この人は貴族としての教育を受けてきた人であり、また、貴族の嗜みとしての和歌と蹴鞠で才能を示す人であったのだ。元からして貴族趣味のある源頼朝にとって、京都の貴族社会の教育を受けている途中の若者が鎌倉にやってきたというのは貴重なことであった。特に、息子達を自身の後継者とするために貴族としての教育も施さねばならないと考えて
昨日の台湾の地震には驚かされました。今年は能登半島地震が元旦にありましたし、台湾は地理的にも近く、何かしら能登の影響がプレートにあったのかと素人考えで不安にさせられます。被害が最小限にゆけばいいと願いますし、今までの恩返しのためにも復興支援の一端を担いたいと考えています。第八十二代後鳥羽天皇は鎌倉時代が始まった時の天皇です。治承四年(1180年)生。御名は尊成(たかひら)。御父は高倉天皇、御母は藤原殖子。また御祖父は後白河院です。そして二歳違いの異母兄は安徳天皇です。
京都で九条兼実が失脚したことを鎌倉の源頼朝が掴んでいなかったわけはなく、何らかの形で京都のコンタクトを取る必要も感じていた。土御門通親や丹後局高階栄子とのコンタクトを続ける必要も忘れずにいたのは無論、九条兼実不在の朝廷の在り方として可能性の高い天皇親政、ないしは新たな院政に向けて動き出す必要も感じていた。それに、この時点でもまだ源頼朝は娘の入内を断念したわけではなかった。源頼朝は九条兼実を通じて京都に影響力を及ぼすことに成功していたが、九条兼実を少しずつ見限るようになり、建久六(一一九五)
6月になった。情報がもたらされて来た。「対馬に元の東路軍が攻めてきて、戦いが始まった。」ということだった。対馬ではかなり抵抗をされて、東路軍は足踏みをして占領するのに日数を要し、やっと5月26日に壱岐島に到着したのであった。6月6日、東路軍軍船が博多湾に迫り、博多湾岸に上陸して来たが、日本軍は既に博多湾岸に20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いていて、応戦するかまえを見せた為に東路軍は上陸を諦め、まずは志賀島に上陸した。6月8日日本軍の御家人達は二手に別れて志賀島を海からと陸続きの
失脚したはずの九条兼実の家司であるはずの三条長兼が、自由自在に内裏に出入りするようになっているのは、後鳥羽天皇が三条長兼を直接呼び出すようになったからである。三条長兼は唯一の例外なわけではなく、多くの中下級貴族が後鳥羽天皇に呼び出されるようになっている。この件について、三条長兼は面白い記録を残している。建久七年の政変を境にして、後鳥羽天皇のもとに情報が数多く集まるようになったというのだ。藤原摂関政治においては、摂政や関白である藤氏長者のもとに情報が集中するようになっていた。日記のタ
4月2日出来事184年(中平・ちゅうへい元年3月5日)黄巾の乱。漢の各地で太平道の信徒が蜂起。三国志演義ではこの黄巾の乱が物語の始まりとなる。髪に黄色の布を付けて武装蜂起したため黄巾と言われる。1332年(元弘・げんこう2年/正慶・しょうきょう元年3月7日)-鎌倉幕府が元弘の乱で挙兵した後醍醐天皇の隠岐への流罪を確定。しかし、この後醍醐天皇を中心とした倒幕の動きは止めるとこができず、最終的には鎌倉幕府と鎌倉時代の終わりを迎えることとなるの〜。誕生日1340年(暦応・りゃくおう3年
・平安朝の事件簿繁田信一文春新書下級貴族や武士のデンジャラス平安京の実態。・足利直義森茂暁角川選書鎌倉幕府再興を目指した彼は間違っていたのか?・中世の開幕林屋辰三郎講談社現代新書院政期から鎌倉幕府滅亡まで200余年を活写。・南北朝林屋辰三郎朝日文庫人物中心の南北朝時代史。今でも読む価値あり。・戦乱と一揆上島有講談社現代新書南北朝から室町時代史を動乱を中心に描く。・神風と悪党の世紀海津一朗講談社現代新書歴史転換期のダイナミズムを描く好著。・南朝研究の
クーデターとしてもよい建久七年の政変を主導したのは土御門通親である。その後の政権運営を見ても土御門通親の意向が強く反映されていることが読み取れるというのが人口に膾炙されているところである。しかし、よく見ると、本当に土御門通親の意向なのかと疑念に感じる点も出てくる。公卿補任を見る限り、建久七年の政変に伴う人事と断言できるのは、関白が九条兼実から近衛基通に変わったことと、藤原兼房が太政大臣を辞職したため太政大臣が空席となったこと、そして、一条高能が新たに参議に任命されたことだけである。しか
国明は轟教授の話が耳に残っていた自分の布団に潜り込み、元寇のど真中に降りることを覚悟して目を閉じた。国命は妻のキヨに朝早く起こされた。「旦那様、今阿曇族の早船が袖の湊に入ったという知らせがきました。これから太宰府政庁に行くそうですよ!」国命は急いで袖の湊に向い、船頭に会って、早船の情報を尋ねた。「はい網首様、百済国に元のクビライ皇帝が戦艦300艘の建造を命令したそうです。その船で日本征伐に向かうとのことです。」「そうか、遂に戦艦を造り始めたか!」時は1274年(文久4年)の1月
現時点で土御門通親のもとに集っているのは九条兼実に対する反発である。ここで九条兼実がいなくなり、藤原兼房がいなくなり、さらに慈円も天台座主の地位から降りたために権力の中枢から九条家がいなくなる。つまり、九条兼実への反発だけを軸にして集まっている勢力から共通の敵を奪ったらどうなるか?集団が瓦解する。関白は近衛家が継承したものの、近衛家が九条家に変わって政権を握ることのできる可能性は低い。何しろ主導権は土御門通親こと源通親が握っているのだ。近衛家でないどころか藤原北家ですらない。さらに土御
国命は寝る前に仏壇に備えている翡翠の腕輪を握って床に入った。目が覚めると現世の自宅の自分の寝床だった。携帯が鳴っていた。「お早う!目が覚めましたか?」「どうしたの、こんな朝早くから?」「あら、先輩が明日朝、電話で起こしてくれと言ったじゃありませんか?もう、頼んで置いて忘れたの?二度と起こしてあげないから!」「ああ、忘れていた。ゴメン!」そういえば、今日から新しい場所の発掘作業が始まることを思い出していた。場所は早良区の西新町にある西南学院大学の体育館横にある元寇防累跡の近
それにしても、九条兼実はなぜ関白の地位を手放したのか?従来の説では、関白の地位を手放したのではなく失脚させられたということになっている。これも遠城悦子氏は別の視点から捉えている。中宮任子は後鳥羽天皇の子を産んだが女児であった。一方、土御門通親の養女である源在子が後鳥羽天皇の男児を産んだ。この点を遠城悦子氏は注目した。そもそも源在子は土御門通親の養女であったのかという疑問だ。源在子は藤原範子の娘であり、藤原範子の土御門通親の妻である。しかし、娘を産んだときの藤原範子は僧侶の能円の
棚沢の山の中を歩いてゆくと不動尊さんの屋代が見えました。多摩の奥に進むとだんだん山の森は森は深くなっていく感じです。将門山と書いてあります。この地域でとっても愛されている平将門公はこの地域の誇りなのです。穴沢天神神社と書かれています。このあたりの場所を昔は穴沢とったのか気になり地図を見てみると他の場所に穴沢という地名や
ここで着目したいのが、そもそも九条兼実が実弟でもある太政大臣藤原兼房のことをどのように捉えていたのか、という視点である。藤原兼房は、兄の引き立てがなければ太政大臣になることはあり得ない人物であった。何しろ太政大臣になる前は内大臣であったのだ。内大臣であった者が、右大臣にも左大臣にも就くことなく太政大臣に就くことは何例かある。そして、その全てが、太政大臣に出世させることで実権力から遠ざけることを目的とした空虚な出世である。どういうことか?内大臣は大臣であるが、手にしている権力は小さい
建久七年の政変の幕開けから二日後の建久七(一一九六)年一一月二五日、誰もが信じられないニュースを耳にした。関白九条兼実、更迭。上表すら許されず、後任の関白には前摂政の近衛基通が就くこと、併せて近衛基通を藤氏長者に任命することが発表された。愚管抄によると、土御門通親の指示のもと、権右少弁の平親国と五位蔵人の藤原朝経が中心となって動いたとある。なお、このときに九条兼実の流罪を検討したとあるが、後鳥羽天皇自身が九条兼実には流罪に値する罪科がないことを理由に、関白罷免のみとさせたとある。た
昨日は久しぶりの鑑定日……以前からのなじみのお客様の鑑定を、2件やらせていただきました。鑑定と鑑定の間も、ずっと六十干支講座のテキストを作っていました。一昨日の夜の月一Zoom勉強会の後、今度はちゃんとお布団を敷いてグッスリと眠ったので、かなり能率よく作業ができました。首が痛かったのも、いつの間にか治っていました。これから当分の間、鑑定はお休みにして、毎日講座のテキスト作りにしっかりと時間を取ろうと思います。結局の所、徹夜で無理をして作業をしても、眠ってしま