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忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
それにしてもなぜ鳥羽か?過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもと
用事で鎌倉に行ったついでに、お散歩まずは安産祈願のおんめさまこと大巧寺のお庭を見に行くコロナ以来、訪れるのは初めてむらさきのシランがいっぱいそして、白のシランこれはムラサキツユクサだけどこれはムラサキツユクサの白バージョンおんめさまを裏から出てしばらく歩くと、宝戒寺
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師として経供養を行い、ついで浄衣で若宮に参ると、近習の人々や巫女三十人ほどが拝殿に集まり、乱舞に堪能の輩が白拍子を舞って、御幸の一日目が終わったというのがこのときの石清水八幡宮詣である。豪奢にして壮麗に感じるであろうし、緊縮財政論者が聞いたら卒倒する内容に感じられるであろうが、治天の君である上皇の参詣ならばこれぐらい当たり前である。ついでに言うと
人間というものは、物質的な生活がより豊かなほうへ豊かなほうへと流れることを本質的に求めている。歴史も人間の営みの軌跡であるのだから、いつの世であってもそのことに変わりはない。ただ、そのテンポが川の早瀬のように急速な時代もあれば、ゆるやかな時代もある。急速な時代の典型は、現代であろう。1925年のラジオ放送開始を起点に見てみると、1953年にテレビ、1987年に携帯電話、2007年にiPhone、そして2023年に生成AIが登場。この間、約100年である。鎌倉時代。この時代もそうとう
千早城に釘付けになっている幕府軍の隙間に後醍醐天皇は隠岐島を脱出し討幕を全国に発し播磨国や伊予国、肥後国が蜂起すると千早城を囲んでいた守護が帰国し始め、関東では挙兵した新田義貞が鎌倉を攻めて鎌倉幕府は滅亡してしまいます鎌倉幕府が滅亡するのは千早城の戦い100日戦争が終了した12日後の事でした
は鎌倉幕府軍は千早城へ100万とされる軍で攻撃しました。一方、楠木軍は僅か1000人足らずで籠城します鎌倉軍は上赤坂城と同じように水源を断ち持久戦となりましたが城内では300の大木をくり抜いて水を溜めていましたし食料も十分あり心配はありませんでした籠城戦が長引き士気に緩みが出始めた為正成は藁人形を何十体も作らせて甲冑を着せ弓や槍を持たせて藁人形を夜に城外の麓に並べ後ろに500人の兵を潜ませ夜が明けると鬨の声をあげました決死の攻撃と思い込んだ幕府軍は攻め寄りましたが楠木
休み休み石段を登ります。金剛山ロープウェイは運転していませんでした楠木正成は前衛の下赤坂城、本城の上赤坂城と2つの城を持っていました下赤坂城は急造の城だった為1331年楠木正成は下赤坂城に火を放ち鎌倉幕府軍に奪わせました鎌倉幕府軍は下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体(幕府軍兵らしい)を何十体も発見してこれを楠木正成と一族だと思い込み鎌倉へ戻って行きましたが1332年楠木正成は下赤坂城を奪い返し鎌倉幕府の湯浅宗藤を服従させています
登城口から真っ直ぐに伸びる石段は登城する前にため息が出ますこの階段が全部で560段‼️1331年後醍醐天皇は倒幕を企てましたが吉田定房の密告によって発覚し1332年に天皇は隠岐島に流されますこれを機に鎌倉幕府の得宗(北条氏の嫡流で跡継ぎの血筋を持つ者つまり北条氏のトップ)に不満を持った楠木正成や赤松則村などの武士たち(悪党と呼ばれていました)が各地で反幕府の兵を挙げるようになりました
日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石清水八幡宮へ参ること自体は珍しい話ではなく、後鳥羽上皇の行動は前例踏襲である。しかし、規模が前例のない壮麗さ、そして、スケジュールが綿密でないとなると、周囲の人はただただ振り回されることとなる。このときの石清水八幡宮への御幸について、後鳥羽上皇が綿密なスケジュールを立てずに行き当たりばったりで行動するつもりだとするのが当時の人の出発前
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳にして治天の君となった瞬間に、後鳥羽上皇の周囲には後鳥羽上皇の意のままに動く人材が揃っていた。その多くは自らの不遇からの一発逆転を狙って院政に自らの未来を託した野心家である。その野心家の全てを後鳥羽上皇は周囲として迎え入れたのではない。後鳥羽上皇は自らの周囲に集った人材に競争させたのである。ここまではいい。問題はどのように競争す
衆議院議員の補欠選挙の東京15区には、なんと9人が立候補する乱戦になっている上に、その中の一人が他の候補の選挙戦の妨害行動を続けている、という報道が相次いでいる。選挙の際には、基本的にどのような演説であろうと、特定の人間の名誉棄損や、公序良俗に反する行為が明白などの場合を除き、演説内容の是非などは犯罪行為とはみなされない。それが〝言論の自由〟の擁護ということである。ところが今回、ある候補の陣営はこうした規制の緩さを逆手に取って、他の陣営の街頭演説の邪魔をし続けている、というのだ。
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後で
こんばんは!吉野の桜、続きです。奥千本から下ってきて、下千本に来ました。大橋今からおよそ700年前、後醍醐天皇(ごたいごてんのう)の皇子、大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)が鎌倉幕府倒幕にむけて吉野山で挙兵します。親王は吉野山を城として立てこもり、幕府軍に立ち向かいます。「太平記」によれば、6万人の幕府軍を相手に3千人の兵で1週間にわたって持ちこたえたといいます。そして、この大橋のあたりは激戦となったようで今でも、攻めが辻と呼ばれています。この激戦地には、敵の侵入をはば
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。そして、この二点とも永続する要素ではない。どういうことか?替えが効くのだ。後鳥羽院にとっては自分の
残酷な鎌倉幕府のテーゼ。義経を滅ぼした頼朝も、からの頼家、実朝も、執権北条氏もやがて残酷な天使のテーゼ。
4月20日その1誕生日1633年(寛永・かんえい10年3月12日-御光明天皇(ごこうみょうてんのう)第110代天皇。1889年-アドルフ・ヒトラー。ナチス・ドイツの総統。1988年-トウカイテイオー。競走馬。忌日1284年(弘安・こうあん7年4月4日)鎌倉幕府第8代執権。北条時宗。記念日穀雨(こくう)二十四節気の1つ。太陽の黄経が30度の時で、田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころ。
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡静岡県熱海市にある「頼朝の一杯水」に行ってきました。頼朝ラインから少し脇へ降りていくとあります。頼朝公が伊東より熱海へ逃げる途中に口にした水です。頼朝ラインはかなり坂が急です。特に熱海市街側から行くと入り口が判りづらくかつ、かなりの斜度ののぼり道です。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。土御門天皇はまだ三歳であるため、天皇としての政務を執ることは期待できず摂政が必要となる。土御門天皇の治世のスタートに合わせて関白近衛基通は関白を一旦辞任し、改めて土御門天皇の摂政に任命された。摂政にしろ、関白にしろ、自動的に就任できる役職ではなく天皇によってその都度任命される役職であるという建前は変わることない。そして注意すべきは、摂政近衛基通が土御門天
さてさて…………………【まるか食堂】にて、至福のランチタイムをとって元気モリモリのココロは、次の目的地へと向かって歩いた…………………【開田城跡の土塁】歩いていると、史跡に出会う【八条ヶ池】この【八条ヶ池】の向こうに【長岡天満宮】が鎮座する。『天下分け目の天王山⑪〜長岡天満宮〜』さてさて…………天下分け目の【天王山】を出発した我々は、次の目的地に到着した…………到着したのは…………【長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)】京都府長岡京市天…ameblo.jp【長岡天満宮】のココロ過去
建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、そのような字義で捉える者などいない。院政という概念が誕生した後の後院別当とは間もなく始まる院政のキーパーソンに任命されたことを意味する。土御門通親の後院別当就任により、間もなく後鳥羽天皇が退位すること、退位して後鳥羽院政が始まること、後鳥羽院政において土御門通親が重用されることが決まったのだ。そして、次期天皇が事実上公表された。建久
4月18日その1出来事第8代執権。1268年(文永・ぶんえい5年3月5日)北条時宗が鎌倉幕府執権に就任1429年(正長・しょうちょう2年3月15日)-足利義教(あしかがよしのり)に将軍宣下が行われる。1943年-第二次世界大戦:山本五十六海軍大将が、搭乗機をアメリカ軍機により撃墜され戦死(海軍甲事件)。忌日1943年-山本五十六、日本海軍の軍人。連合艦隊司令長官。1955年-アルベルト・アインシュタイン。物理学者。記念日良い歯の日「よ(4)い(1)は(8)」の語呂合わせで
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であれば誰もが知っている。これは平家物語の延慶本の伝えるところであるが、どうやら源頼朝は守貞親王を後鳥羽天皇の次の天皇と目論んでいたようなのである。ただし、源頼朝が守貞親王をわかりやすい形で推していたのではなく、文覚を通じて守貞親王の即位の後援をしていたというのが平家物語の記載だ。ただ、これは平家物語の過剰反応とも言える。守貞親王と文覚
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能性で、後鳥羽天皇は退位して上皇となり、院政を敷くという未来が見えてきたのである。建久七年の政変時、後鳥羽院政は可能性の一つとして考えられはしたものの、現実味を帯びた話ではなかった。それが一年近くの時間経過で現実味を帯びるようになってきた。源頼朝は情報の重要性を強く認識していた人であるから例外に近いが、源頼家が従五位上右近衛権少将に任命さ
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論がなく、元服時に源頼家と名乗るようになったことも意見の一致を見ている。問題は、どのタイミングで元服を迎えたのかという点だ?建久四(一一九三)年の巻狩のときか?建久六(一一九五)年の上洛のときか?吾妻鏡が源頼家を詳しく書き記している場面を読んでも、また、同時代史料における源頼家の扱いを見ても、建久六(一一九五)年の上洛までの
日本で1番多いと言われている八幡信仰の総本社宇佐神宮ですが古代は宇佐氏の磐座信仰の地と言われています。その後、比売大神信仰となります。比売大神は卑弥呼ではないかと言われています。571年に八幡信仰に変わります。神仏習合発祥の神社と言われており。東大寺大仏の建立の功績で全国に広まるキッカケとなります。そして応仁天皇に変わったのは8世紀頃と言われています。鎌倉幕府の氏神となり庶民にも広まっていきました。調べてみると、現在の神道の前に古代信仰がある事が分かります。古代から続
元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まったんです。幕府権力は元寇のお陰で最盛期になった、と言えます。ところが、です。社会には、貨幣経済が浸透します。いまも昔も戦争ってのは巨大な景気刺激イベントであって、元寇のおかげで全国的な流通経済が盛んになってきます。そうなると当然、物価は上がります。領地が減ったわけでもないのに武士の生活はどんどん苦しくなります。土地本位制の封建主義を大前提とした幕府というシステムは
信濃豪族諏訪氏は神職にありました。上原城にあり、大祝職でした。2代頼重は、鎌倉幕府14代高時の遺児を擁立し、『中先代の乱』を起こしますが敗死します。9代政満の頃から、戦国大名化します。政満は一族の大祝継満に殺害されますがその息子の頼満が総領職を奪還します。諏訪氏一族の争いに乗じて隣国武田信虎・信玄に攻められ、降伏します。頼重は甲斐に変更され、処刑されます。頼重の娘は、諏訪御寮人と呼ばれて武田信玄の側室になります。生れた男児が運命の子武田勝頼でした。
大姫を失った源頼朝は三幡を入内させようとしたものの入内させられずにおり、様々な手段を練って朝廷に食い込もうとしているものの上手くいかずにいる。これは源頼朝だけの話ではない。九条兼実への反発で集まった面々が、いざ九条兼実を関白から引きずり下ろすのに成功したあと、明瞭な権力の構築をできずにいる。誰もが自分の、あるいは自派の拡張を狙って他者を牽制しあう状況が前年一一月からずっと続いており、源頼朝が入り込む隙間などなかったのだ。何だかんだ言って九条兼実のもとに権力が集中していたのは、敵を多く生み出
しかし、建久八(一一九七)年九月一〇日、藤原範季の娘の藤原重子が後鳥羽天皇の皇子を産んだことで、藤原範季は土御門通親に続いて後鳥羽天皇の皇子の祖父となった。これで話はややこしくなった。藤原範季は藤原氏であるが藤原北家の人物ではなく藤原南家の人物である。もともとは後白河法皇に仕える蔵人であり、平治の乱の後は各地の国司を歴任する身になっていた。ここまではまだいい。この人のキャリアには三つ問題があった。一つは平治の乱の後で源範頼を引き取って養育するようになったこと。二つ目は安元元(一