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逃げ上手の若君は連載一周年を迎えました。松井センセイ、おめでとうございます!!昨年の1話目を見た時から、今年の「ジャンプ」は違うぞ!!と直感し、ツラツラ感想を書きだしてからというもの。今やすっかり私にとっては逃げ若は欠かせぬものとなりました。おまけに大河ドラマも今年は感想記事を書き出しててんやわんや。何とも嬉しい誤算でしたが、今年はまさに鎌倉イヤーなんじゃないかと思う次第。この調子でアニメ化までこぎつけて欲しい。この記事をご覧になられた方に一つお願いがあります。どうかジャンプで『逃げ上手
千早城に釘付けになっている幕府軍の隙間に後醍醐天皇は隠岐島を脱出し討幕を全国に発し播磨国や伊予国、肥後国が蜂起すると千早城を囲んでいた守護が帰国し始め、関東では挙兵した新田義貞が鎌倉を攻めて鎌倉幕府は滅亡してしまいます鎌倉幕府が滅亡するのは千早城の戦い100日戦争が終了した12日後の事でした
登城口から真っ直ぐに伸びる石段は登城する前にため息が出ますこの階段が全部で560段‼️1331年後醍醐天皇は倒幕を企てましたが吉田定房の密告によって発覚し1332年に天皇は隠岐島に流されますこれを機に鎌倉幕府の得宗(北条氏の嫡流で跡継ぎの血筋を持つ者つまり北条氏のトップ)に不満を持った楠木正成や赤松則村などの武士たち(悪党と呼ばれていました)が各地で反幕府の兵を挙げるようになりました
鎌倉へは行かない!そう言っていた息子だが、私とMさんが行くと知ったら急に行くと言い出したのだ。「僕も行く!明日行くんでしょ?じゃあ、僕も行く!!」何を言ってるんだか…「だって行かないって言ってたからレストランも2名で予約しちゃったよ!それに神社はつまらないって言ってたし…」何とか諦めさせようと話すが「いやいや、神社好きだから!源頼朝?大好き!大好き(笑)!レストランもママとパパだけ食べていい!僕はコンビニのおにぎり食べるから!」何でそうなる?おかし
「一条家」「二条家」「三条家」と、計らずも「○条家」紹介のシリーズと化してしまった当ブログ。だったら「四条家」もやってしまおうと、今日はそんな試みです。自己満足もここまでやるとかえって清々しいってもんよ。四条家は、大河ドラマ『平清盛』と『鎌倉殿の13人』の時代ドンピシャ(ちょっとオーバーするけど)なので、今年のうちにやるとちょうどいいですしねw四条家は、藤原氏善勝寺流の流れをくむ家です。善勝寺流は、以前に紹介した奈良時代に左大臣にまで登り詰め、そして失脚した藤原魚名の
今年に入って3回目のブログ更新です。昨年はサボりすぎたので、ちょっと頑張ってます(昨年のブログ更新12回)さてさて、絶賛一昨年のネタまだやってます今回は2021年10月20日に訪問した大阪府の千早城です🏯頑張って追いつきますね約4時間車を走らせ、駐車場へ到着しました。駐車場は何ヵ所かあるようですね。駐車料金は1日600円でした。工事の車がたくさん停まっています。mont-bellさん建設中だから?(今はもうオープンしているようです)お豆腐屋さんに100名城のスタンプがありまし
用事で鎌倉に行ったついでに、お散歩まずは安産祈願のおんめさまこと大巧寺のお庭を見に行くコロナ以来、訪れるのは初めてむらさきのシランがいっぱいそして、白のシランこれはムラサキツユクサだけどこれはムラサキツユクサの白バージョンおんめさまを裏から出てしばらく歩くと、宝戒寺
長かった修羅の刻義経編もついに完結します!さて舞台は壇ノ浦の戦い。もちろんこの両雄が対峙します!陸奥鬼一vs平教経!まぁこの修羅の刻源義経編における鬼一の戦闘シーンは少ないからね、教経くらいはビシッと倒してくれなきゃ困ります。つーわけで鬼一の実力を見抜いた教経。教経「さがれ…ぬしらでは歯が立たぬ…こいつは物ノ怪だ。」刀や薙刀や弓で殺し合うという時代において「飛び蹴り」という発想はなかなか生まれないか。蹴るくらいならその前に斬っちゃえよと思っちゃうもんねぇ。さて揺れる舟の上での戦い、
は鎌倉幕府軍は千早城へ100万とされる軍で攻撃しました。一方、楠木軍は僅か1000人足らずで籠城します鎌倉軍は上赤坂城と同じように水源を断ち持久戦となりましたが城内では300の大木をくり抜いて水を溜めていましたし食料も十分あり心配はありませんでした籠城戦が長引き士気に緩みが出始めた為正成は藁人形を何十体も作らせて甲冑を着せ弓や槍を持たせて藁人形を夜に城外の麓に並べ後ろに500人の兵を潜ませ夜が明けると鬨の声をあげました決死の攻撃と思い込んだ幕府軍は攻め寄りましたが楠木
六波羅探題って?時代:鎌倉時代六波羅探題っていったい何?源頼朝は自分と主従関係にある武士たち「御家人」を率いて、京都の市街地を警備させました。京都朝廷鎌倉幕府京都の朝廷、つまり天皇を中心とした貴族たちの政治機関と、武士たちを中心とした政治機関の鎌倉幕府との連絡にも御家人を動員しました。また、京都の中における裁判なども務めました。このシステムは「京都守護」と呼ばれました。守護って何かを守るの??平家を打倒して、そのあと奥州でもの凄い権力を誇って
休み休み石段を登ります。金剛山ロープウェイは運転していませんでした楠木正成は前衛の下赤坂城、本城の上赤坂城と2つの城を持っていました下赤坂城は急造の城だった為1331年楠木正成は下赤坂城に火を放ち鎌倉幕府軍に奪わせました鎌倉幕府軍は下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体(幕府軍兵らしい)を何十体も発見してこれを楠木正成と一族だと思い込み鎌倉へ戻って行きましたが1332年楠木正成は下赤坂城を奪い返し鎌倉幕府の湯浅宗藤を服従させています
小野氏の中で「武将」として活躍したのが武蔵七党に数えられる「横山党・猪俣党」になりますが、彼らは本姓が小野氏だとしながらも後世の人達からは「嘘じゃないの?」と思われている原因は系図にありました。横山党や猪俣党の系図には明らかに作り込んだ内容を伝えるものが多くあった為、信用出来ないと思われていたからです。この間違った系図が生まれた理由は士官をする時にどの氏族であったかを示す必要があり、恐らくあまりに急速に拡がった為、多くの家で系図を継承できず、必要上やむをえずねつ造したと考えられ
日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石清水八幡宮へ参ること自体は珍しい話ではなく、後鳥羽上皇の行動は前例踏襲である。しかし、規模が前例のない壮麗さ、そして、スケジュールが綿密でないとなると、周囲の人はただただ振り回されることとなる。このときの石清水八幡宮への御幸について、後鳥羽上皇が綿密なスケジュールを立てずに行き当たりばったりで行動するつもりだとするのが当時の人の出発前
結局仕事に行きましたが問題は解決出来ず休み明けに何とかする事に😭今週は大変だったけど来週こそは良い事ありますように。で、何だか疲れてしまったので帰りにたこ焼き買って帰りました。銀だこってテイクアウトだけじゃなくて中で食べたり飲んだりできるんですねwリーズナブルです。塩辛ポテトが気になりすぎました笑で、話が変わりますが今テレビを見てて興味深い事が!私の頃って鎌倉幕府設立は1192年(いい国作ろうと鎌倉幕府)と覚えてましたが今って1185年(いい箱作ろう鎌倉幕府)に
2022年1月9日(日)から放送開始のNHK大河ドラマです。ラベルダウンロードここでの公開は一部です。詳細は上記で。平安末から鎌倉前期を舞台に、源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きと、その勝利者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公に描く。タイトルの「13人」とは、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「十三人の合議制」を構成した御家人たちを指している。
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師として経供養を行い、ついで浄衣で若宮に参ると、近習の人々や巫女三十人ほどが拝殿に集まり、乱舞に堪能の輩が白拍子を舞って、御幸の一日目が終わったというのがこのときの石清水八幡宮詣である。豪奢にして壮麗に感じるであろうし、緊縮財政論者が聞いたら卒倒する内容に感じられるであろうが、治天の君である上皇の参詣ならばこれぐらい当たり前である。ついでに言うと
鎌倉観光(その3)白旗神社にある、源頼朝の墓に行ってきました。ヾ(●⌒∇⌒●)ノ鶴岡八幡宮を後にして、住宅街を白旗神社に向けて歩きます。C=C=C=┌(;・_・)┘トコトコ途中、レトロなコカコーラの自動販売機を発見。学生の頃、お世話になった自販機です。お金を入れて、左のドアを開けて、好きなビンを引き抜きます。なぜか、1本しか抜けない構造です。学生の頃、若気の至りで、二人で2本抜きを試みましたが、手にできたのは1本だけでした。自販機の、写真をよ
【高校日本史】目からうろこの北条氏の覚え方みなさん初めまして、蒼欄(そうらん)です。とつぜんですが、日本史に興味をお持ちではないでしょうか。少しでも興味ある人はぜひ見ていってください。まず北条氏がなぜ力をもつようになったのかということです。一番有名なのが北条政子(ほうじょうまさこ)ですね。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)の妻であり承久の乱のときには、武士に熱い演説をしました。政子が頼朝に嫁いだのは、実は父の北条時政(ほ
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
こんにちは!(๑´ヮ`๑)本日もお立ち寄りいただきありがとうございます。昨日、仕事を終えて帰宅するや否や、娘の社会に付き合いました。ウソです。ちゃんとご飯食べてからやりましたー笑WEB講義を視聴直後、テキストを読み込んで線引き&補足説明をしていきます。単元は平安末期〜鎌倉幕府のおこり。源平合戦を経て、壇ノ浦の戦い、平氏の滅亡、守護・地頭の設置、義経討伐、奥州藤原氏の滅亡、鎌倉幕府のおこり、侍所・政所・門注所、承久の乱、いざ鎌倉、執権政治etc...と続きます。懐かしさを感じつつ、そ
鎌倉五山日本の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けをする制度です。鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりで、その時々に応じて入る寺院や順位などが変動しました。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれ、現在の五山の順位が決まったのは、至徳3年(1386年)、室町幕府3代将軍・足利義満の時です。ちなみに、五山の下には十刹、諸山があります。【鎌倉五山第一位】建長寺【鎌倉五山第二位】
人間というものは、物質的な生活がより豊かなほうへ豊かなほうへと流れることを本質的に求めている。歴史も人間の営みの軌跡であるのだから、いつの世であってもそのことに変わりはない。ただ、そのテンポが川の早瀬のように急速な時代もあれば、ゆるやかな時代もある。急速な時代の典型は、現代であろう。1925年のラジオ放送開始を起点に見てみると、1953年にテレビ、1987年に携帯電話、2007年にiPhone、そして2023年に生成AIが登場。この間、約100年である。鎌倉時代。この時代もそうとう