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鶴岡八幡宮を出て、三ノ鳥居から正面参道を鎌倉駅方向に50m程戻った左側、M'sArkビルに入り、奥へと進むと、唐突にガラス張りの床になり、そのガラス越しに見えるのが…↓鎌倉時代の住居跡の一部。鎌倉幕府3代執権・北条泰時の住居だったと言われている。柱穴やゴミ箱が遺っている。左端の貝殻が集められている所が、ゴミ箱らしい。↓この日のプチ!キック・ザ・ツアーは、これで終了!※巽神社→八坂神社→寿福寺→鎌倉歴史文化交流館“異国襲来”→巌窟不動尊&不動茶屋→鶴岡八幡宮→北条泰時邸
後鳥羽天皇と関白の娘との間に女児が生まれ、土御門通親の養女との間に男児が生まれた。性に目覚める年齢の少年の周囲に性の相手をする女性がいる、それも、女性のほうから数多くやって来るという環境であることを考えると、年齢から言っても後鳥羽天皇はこれから何名も子をもうける可能性が高い。実際、建久七(一一九六)年一〇月一六日には坊門信清の娘との間にも皇子をもうけている。これは九条兼実としても状況を悪化させる事態である。状況悪化は九条兼実自身だけでなく、九条兼実の周囲にも及ぶ話だ。九条兼実は実弟であ
確かに面白いです裏切りのなんと多いこと!だましうちのなんと多いこと!NHKの鎌倉殿の13人の内容そのものだが、いろんな人の視点から書いているので結果的に何度も同じことを繰り返して書いていることになっている眠れないほどおもしろい吾妻鏡北条氏が脚色した鎌倉幕府の「公式レポート」(王様文庫)[板野博行]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}
夫とわかみやさんで朝食を食べながら、鎌倉殿の13人の話題が出ました。鶴岡八幡宮様の御祭神は応神天皇で、若宮の御祭神は応神天皇の親王の仁徳天皇です。頼朝公は応神天皇を自分に仁徳天皇を嫡男の頼家公になぞらえて、鎌倉幕府の弥栄を祈念したのだと私は思います。その若宮である頼家公の修善寺でのご最期は謀りごとによるもので、蒸し風呂で無防備な所を卑怯な騙し討ちで襲われたのでした頼家公は武勇に優れ怪力無双だったので丸腰だったにもかかわらず3人がかりでも抑え込む事
武士⚔️🐎の都鎌倉開善寺に迎えていただく前に属していたお寺が建長寺派であった御縁🪢で建長寺🏯三門下において法話をする機会をいただいております🙇🏻♂️建長寺🏯は日本で最初に禅の教えをまず第一に大切にして修行する場所(修行道場)が作られたお寺です🙌日本で一番古い禅寺です😳❣️資金を提供したのは鎌倉幕府執権(しっけん)北条時頼(ほうじょうときより)公⚔️🐎樹齢760年😳❣️❣️❣️ご本尊さまはとても大きいお地蔵さまです😌素朴でやわらかなお顔が魅力的❤️お地蔵さま
甲斐の武田氏の系譜の実際邇波荒田(大荒田命)ー依網ー蔓木垂見ー摩理勢ー毛人(蘇我入鹿)ー神威毛人ー諸雄ー人萬侶(柿本人萬侶)ー賀茂忠行ー保憲ー光栄ー義行ー義光(新羅三郎)ー武田義清ー逸見清光(黒源太、源頼政)ー武田信義悪源太義平は、三浦義明です。左近の桜の内裏は鎌倉中期以降で創作と為ります。佐々木氏系譜(愛智氏輩出)蔓木垂見ー小祚(鞍作鳥)ー萬呂ー奈弖萬呂ー良朝(宮道武萬呂)ー良清(彌益)ー時清ー清信ー佐々貴山満義ー成頼ー義経ー
先に記したように、吾妻鏡は建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの記事が現存していない。ゆえに、この三年間の鎌倉幕府の動静は吾妻鏡以外の情報から記さねばならない。壇ノ浦の戦いで平家が敗れてから十一年目。鎌倉に刃向かう平家は滅んだということになっているが平家の残党は探せばまだ存在していた。もっとも、かつてのように朝廷の中枢に君臨して政権を操るレベルの強大さではなく、存在はするものの国政に何ら影響を与えることのない、それでいて迷惑極まりない犯罪集団として、平家の残党が存在している。
夫と私は若宮大路を由比ガ浜へ向かって1キロほど歩き、この日のお宿のKKR鎌倉わかみやさんに向かいました🎵わかみやさんの入口にはカモメのオブジェが飾られています。KKRという名前は国家公務員共済組合連合会の登録商標だそうです🎵一般の方も泊まれるし、今のところ鎌倉で唯一の温泉のあるお宿ですhttps://www.kamakurawakamiya.jp/sp/KKR鎌倉わかみや【公式サイト】|湘南鎌倉の和風リゾートホテル鎌倉にある和風リゾートホテルです。由比ヶ浜海
いい国創ろう鎌倉幕府!に代表されるような年号と事象の組み合わせ!これらが覚えられなくて苦労しました・・しかも今では1192年じゃなくて1185年でいい箱創ろう鎌倉幕府なんですよ!何だったんだろう・・こんなものに苦労していた時間・・社会に出てこれは本当に役に立ったなー!なんて思った事一度もないです!そんなクソの役にも立たない情報をただ詰め込んでまる暗記するために僕の青春は費やされていましたこれじゃあ面白い大人になんかなれる訳がありませんよね~
九条兼実が摂政となってから一〇年が経過している。とは言え、九条兼実はまだ四九歳であり、政界引退を考える年齢ではない。しかし、周囲は九条兼実の政界引退を予期するようになっていた。それまでの九条兼実の独善的な行動を支えてきた源頼朝はもう九条兼実を選ばず、慈円のおかげで制御できていた比叡山延暦寺も怪しくなってきている。だからこそ、周囲の思惑とは逆に九条兼実自身は関白の職位を手放さないことに執心するようになった。仮にここで九条兼実が関白を降りたら、実弟の太政大臣藤原兼房でもなく、九条家の後継者とな
中央公論新社から発行されている日本の古典を漫画化したシリーズの中で、鎌倉時代の基本的資料となっている『吾妻鏡』を全3巻で漫画化しています。シリーズ上の位置づけとしては『平家物語』の世界から『太平記』の時代への架け橋とのこと。物語は頼朝の挙兵から始まり、承久の乱でおおよそ本編が終わるという大河ドラマ『鎌倉殿の13人』と同じ年代を扱う構成となっています。(当然ですが、だからといって「姫と呼べ」や「みんな武衛だ!」などというセリフは登場しません)著者は帯の紹介によると週刊マーガレッ
その流れの中において、天台座主が慈円であるということ自体が園城寺の僧侶にとって許容しづらいものであったのだが、建久七(一一九六)年四月一八日に四天王寺別当の定恵が死去したことが混乱をさらに深めるものとなった。九条兼実は慈円に四天王寺別当を兼任させようとしたのである。しかし、四天王寺はかつて園城寺の支配下にあった寺院であり、園城寺が灰燼に帰したことで一時的に園城寺の支配から離れることとなっていたが、復旧しつつある今、園城寺の意向を無視して天台座主慈円にさらなる権勢を与えることは容認しづらかったの
名称:脇本城城郭:階郭式山城築城年:1334年築城主:鎌倉幕府側勢力か改修者:安東季愛主要城主:安東氏所在地:男鹿市脇本脇本字七沢外指定文化財:国史跡続日本100名城
愚管抄は歴史書であるが、源平合戦以降の歴史について言えば同時代史料でもある。どういうことかというと、著者である慈円の生まれたのが久寿二(一一五五)年であり、慈円は建久七(一一九六)年時点で四一歳であるから、愚管抄の記事のうち源平合戦以降の記述の多くは慈円自身が体験し、あるいは見聞きしたことである。この慈円という僧侶であるが、九条兼実の実弟であると同時に天台座主である。天台座主に就任できたのは兄が九条兼実だからという側面もあるが、徒然草の吉田兼好は天台座主としての慈円を書き記しており、能力の
※信仰のさんぽ道より抜粋・臨終は必ず来る日蓮大聖人は、「人の寿命は、いつ尽きるかわからないものです。賢い人にも愚かな人にも、また老人・若輩にかかわらず、死というものは、やってくるのです。だからこそ、まず臨終・未来の果報ということをしっかりと習い、それから自分のやりたいことを習いなさい」と私たちに訓告されています。私たちは仕事・生活に忙殺されていたり、「いまの健康」「いまの生活」が強ければ強いほど、先のことを考えない傾向にあるともいえます。「後(のち)の世(よ)と聞
後鳥羽天皇は幼帝ではなく、天皇親政を、そして院政を目指して行動する若き帝王へとなっていたことに気づいた。後鳥羽天皇が政治家として勢力を築き上げていることを源頼朝は知っていたのか?おそらくだが知っていたであろう。だが、具体的なアクションについてはわからない。どういうことか?吾妻鏡が欠けているのだ。吾妻鏡は建久六(一一九五)年一二月を最後に三年間の空白があり、次の記事が建久一〇(一一九九)年まで飛んでいる。建久一〇(一一九九)年がどのような年かは後に記すことになるが、建久七
1469年金山築城の地鎮祭が行われ関東管領上杉方の五十子陣を退き新田一族である岩松家純が重臣の横瀬国繁に築城を命じたようです岩松氏が鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の没後新田総本家に代わり支配した一族で分裂していた岩松二家を統一した家純が新田氏本領の継承者として新田山に築城西矢倉台下の堀切の堀底はV字の薬研堀ではなく平らな箱堀でした堀切の底を石敷きの通路にもしていました
建久六(一一九五)年一一月一〇日、除目。九条良経こと権大納言藤原良経、内大臣に昇格。土御門通親こと中納言源通親、権大納言に昇格。吉田経房こと権中納言藤原経房、中納言に昇格。関白九条兼実の息子の九条良経が内大臣になり、後鳥羽天皇の第一皇子の祖父となった土御門通親が権大納言となった。そして、土御門通親の後を受けたのが、今や誰もが認めることとなった源頼朝の協力者である吉田経房であるため、九条兼実も、土御門通親も、そして源頼朝も何ら文句の付けようのない結果となったのである。このとき
鎌倉歴史文化交流館の企画展、「異国襲来文永の役750年東アジアと鎌倉の中世」へ。(令和6年3/9終了)撮影OKマークの有る物を紹介。教科書でも御馴染みの、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)。↓実際に元軍と戦った御家人“竹崎季長(たけざきすえなが)”が、恩賞を少しでも多く貰おうと、鎌倉幕府に自分の活躍をアピールする為に創らせた…というアレだ。注目すべきは、これ。↓『てつはう』という、元軍が使っていた手榴弾的な物。こちらが海に沈んでいた『てつはう』
娘の新潟市に行ったついでに昨日、ブックオフで柄谷行人の『世界史の実験』(岩波新書版・2019年出版)を購入しました。柄谷にしては珍しく平易に書かれており、あっという間に読み終わりました。衝撃的であったのは、柄谷の柳田国男論はそれまでの定説を覆すものであったからです。よく柳田は体系がないとか批判されますが、柄谷はそれに与しません。内的な体系を見出そうとしたのです。そして、柄谷は柳田自身が「現在の国内の事実はほとんどこの変遷のすべての階段を、どこかの隅々に保存している。一つの土地の見聞では、単
中宮任子が女児を産んだ。九条兼実は自分の娘の産んだ子が女児であったことに落胆したし、九条兼実ほどでないしても後鳥羽天皇も落胆があった。とは言え、天皇の実の子であり相応の待遇が用意されている。建久六(一一九五)年一〇月に中宮任子が産んだ女児である第一皇女が内親王宣下を受けた。後に春華門院と呼ばれることになる昇子内親王である。この時点では昇子内親王のみが後鳥羽天皇の実子であり、九条兼実は中宮任子の次の妊娠の期待もあったし、可能性が薄くなってきていたとは言え源頼朝も娘の大姫の入内を諦めてはい
この大井戸の渡し(尾張川:現木曽川)は、鎌倉時代に起こった国内最大級の内乱・承久(じょうきゅう)の乱の口火を切った「大井戸の戦い」の場所でもあります。㊟サライよりお借りしました。承久の乱とは、承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権北条義時に討伐の兵を挙げて敗れた兵乱のことです。日本史上初の朝廷と武家政権との間に起きた武力による争いで、鎌倉軍の圧勝により支配階級が公家から武士へと移り変わる画期的事件でした。以降600年にわたり武士が政権を担い続ける契機となりました。鎌倉
後鳥羽天皇が九条兼実を見限っていた頃、鎌倉の源頼朝は政治家としての判断を下していた。先に、統治者に求められる国家規模の経営能力として、戦争をしないことを書き記した。ならば源頼朝の奥州合戦はどうだったのか、戦争を仕掛けて奥州藤原氏を滅ぼしたではないかと感じる人も多いであろうし、実際にあれは侵略以外の何物でもない。しかし、同じ侵略でありながらロシアがウクライナに対してしでかしたことと、源頼朝の奥州合戦との間には大きな違いがある。それは、侵略した土地に住む人に対する扱い。源頼朝は奥州
東京都荒川区にある「尾久」は「おぐ」と読み、荒川区の北西部に位置する。「尾久町」はかつて存在した町の名前で、現在「尾久」という町名は存在せず、「尾久西」と「尾久東」に分かれている。また尾久駅は「おく」と読む。赤色の粘土・赤埴に由来する鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に「武蔵国豊嶋庄犬名」という地名があり、「犬名」は「大名」の間違いと考えられ、「おおぐい」が「おぐ」となったとする説がある。他にも、鎌倉時代、この地は鶴岡八幡宮の社領となっていて、文書に「武蔵国豊島郡小具郷」との記載があり、「小具」
【3/19㈫・足柄「ゆだねの会」】主催者は、土屋一族末裔のヒロシさん、です。土屋一族とは、平家一族台頭の時代に、源頼朝公を助けた相模の武士団・中村一族の血を受け継ぐ方々。鎌倉幕府を樹立した際に、頼朝公の後ろ盾となった方たちです。その血を受け継ぐヒロシさんの主宰の元に、「ゆだねの会」を開催させていただきます。御参加希望の方は、御気軽に、メッセージにて御連絡くださいませ✨
この意味で、源頼朝は大きなアドバンテージを獲得していた。何と言っても戦争を終わらせた当事者である上に、源頼朝の元には京都の貴族社会に入ることの許されない低い地位に生まれた者が周囲に結集している。それまでの権力のもとでは権勢を掴むことをできなかった者をまとめ上げることに成功しているだけでなく、現在進行形で平和の維持に成功させている。ついでに言えば、鎌倉幕府の御家人に対して守護や地頭という形で、平和の維持と実利の付与の双方を実現させている。これは源頼朝にしかできない話である。そもそも戦争を終結
それでも白河院政が絶大な権力を握ることに成功していたのは、それまで絶対的な権力として君臨していた藤原摂関政治における不遇への反発を最大限活かすことができたこと、藤原道長は身分の低い者でもそれなりに抜擢していたが藤原道長の死後は従前のようにその人の生まれでその人の上限を定め、いかに優秀でも抜擢されることがなくなっていたために、白河院政の時代となると白河法皇のもとに赴くことしか藤原摂関家に対する反発を示す方法が無かったことが挙げられる。一方、後鳥羽天皇の時代となると、まずは鎌倉幕府が存在し、藤原摂
この先しばらく、土日祝日に「誰かとの約束」が入る可能性が高くなっています。というわけで、2日続けてですが前日に続いて、日曜日も競馬を。『ウインズ新横浜へ行ってみた』「ひな祭り」は、都心で友人と会う「ついで」に、ウインズ後楽園へ行きました。『ウインズ後楽園へ行ってみた』3月3日(日)は、夜、都内某所で友人と約束あり。母…ameblo.jp前日が「新横浜」だったから、日曜日は「横浜」か「伊勢佐木町」へ行ってみようかと思っていました。しかしですね…。新横浜に行ってきた
はじめに総本山第9世日有上人は、第26世日寛上人とならび、古来、本宗における「中興の祖」として尊崇を受けてきました。その具体例をいくつか紹介しますと、まず「有師堂」の存在が挙げられます。有師堂とは、本宗の古刹である妙教寺〈宮城県栗原市〉·常泉寺〈東京都墨田区〉·真光寺〈千葉市緑区〉などの諸寺院に建立されていた堂宇です。また、日有上人ゆかりの寺院には上人の御画像が現存しています。なかでも、上人が晩年隠棲(いんせい)された大杉山の地に、後年建立された有明寺〈山梨県身延町〉に
2022年近所の書店で購入する。本書を通読するのは二回目である。「何故北条氏は鎌倉幕府将軍にならなかったのか?」という問いに「鎌倉幕府将軍になる必要がなかったから」という答(仮説)に驚く。「将軍が存在しながら、北条氏得宗が権力を握っている」政治体制を正当化する論理(ツジツマ合わせ)を1鎌倉将軍は、武家政権創始者源頼朝の後継者である。2北条氏得宗は、八幡神の加護を受けし武内宿禰の再誕北条義時の後継者である。3義時の後継者である北条氏得宗は、鎌倉将軍の「御後見」として鎌倉幕府