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・前回のブログの続き。山上大神宮の創建は、1368年~1375年.。藤坊という修験者が、伊勢神宮の分霊を、当時の亀田赤川村(現・赤川町)に祀ったのが始まり。何度かの移転を繰り返し、現在地に至る。<所在地>函館市舟見町15番1号<例祭日>7月16日<主祭神>・天照皇大神(あまてらすすめらおおかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ)<合祀されている神々>・倉稲魂神・木花開耶姫命・手置帆負命・彦狭智命・大国主命
5/2(木)久住山赤川ルート。久住山の山頂にてしばしの時間を過ごす。九重山は日本百名山の一つであり、全国から若い人たちがやって来る。山頂で会った若い女性三人組は、兵庫、広島から来た会社の同僚だという。九重山に長居をせず、稲星山に移動する。一旦、久住山を下り、稲星山に上る。稲星山の山頂にて昼食。昼食を終えて南側の雲海を見下ろすと、雲が晴れて緑の裾野を見晴らすようになっている。(続く)
ウェルテルドイツの文豪のゲーテは25歳の時に若きウェルテルの悩みを刊行した。僕は彼の紡ぐ物語にいまいち感情移入できない。僕は実際ウェルテルを所有しているのだが、いやはや童貞というものの憐憫さなり。高邁な理想を追い求める中で僕は恋愛などとは無縁の生活を送るようになっていった。無論表面的には長身美人に一目惚れしたりしたのだが彼女達を僕はただひたすら高嶺の花として扱いアプローチする事はなかった。実際僕にとって恋愛はガラス戸の向こうである。蚊帳の外である。しかしこのままでは駄目だと思う。人と一緒にな
松福堂正一妻が貰ってきた頂き物が此方〒535-0005大阪府大阪市旭区赤川2丁目5−17かしわ餅白いお餅は、こしあんよもぎ餅は、つぶあん美味しくいただきました(^_^)
5/2(木)久住山。赤川ルートを上っていく。登山口辺りは雲の中だった。濃霧に覆われていた。山頂はまだ見えぬかクサボケ久住山の山頂を目指してひたすら標高を上げていく。やがて雲の中から抜き出たと思うと、眼下に雲海を見下ろすようになる。祖母山や阿蘇山などが雲海の上にちょこんと顔を出している。視界良好になった急登の階段を一歩ずつ踏みしめるように上っていく。そうして久住山の山頂に到着。自分にとって、赤川ルートは初めてだったから、これまでとは異なる新たな感動
5月1日(水)久しぶりに赤川に修行行きます水温もあがってきて水位も下がってもう釣れたもの同然でしたが今日も気持ち良く素振りして帰宅します今年も赤川サクラマスは幻の予感本日もお疲れ様でした。
読者には前後関係、文脈を知らないのでしょうがないかも知れないが僕はこの数年間で指数関数的にユニークな存在になった。僕派元々中学の頃にユニークな人だと認知されていたが、鬱傾向の到来と軌を一にして僕は自分を出せなくなった。あらゆるものが叫喚に満ちたものに思えた。僕は失速し、正常な判断を失い、高専に進学した。それからの僕は文学に没頭する、声の小さい、成績も芳しくない存在であった。生きるのがしんどくなりいつも部屋でメソメソと泣いた。浴場でも泣いた時もあった。人生リセットしたいと思った。しかしその頃の苦
文明が廃れ、古色蒼然の往来、萎びた果樹園、退廃的なアーケード。様々な栄枯盛衰が続けざまに我々を襲い、そして消滅してゆく。まあそんな事はさておき、僕は恐怖の消滅を目指してやっていきたい。僕は外に出る前は病的なまでに体が強張るのだが読者の、殊に精神疾患者の中にも同じような症状に懊悩する人はいるだろうか。僕はこれまで数限りもない人から優しいと言われてきた。しかしそれは故意にしている訳ではない。どうしても苦悩の真髄を、障害随一の苦痛を感じてる身としては少なくとも僕といる間はリラックスさせ、癒やしたい。
一世を風靡するプログレッシブツイストプログレッシブツイストは一世を風靡するに値するものなのだろうか。少なくとも僕はそうした存在にする為に奔走してきた。プログレッシブツイストは様々な概念の僕による継承と結合である。統合失調症である白痴の僕であっても世の中のスーパースターになる事が出来ると僕は信じている。これは現実とは乖離した思いに感じるかも知れない。僕はこの芸術様式を長い間続けてきた。僕の友達も凌我はいつか理解され、評価されると言っていた。状況的に美辞麗句や皮肉ではなかった。ちなみに凌我とは僕
表紙が三毛猫の写真の新装版を読んだ。この猫毛が長すぎる様な気がする。自身の赤川先生の作は5冊目となった。この間は大学が舞台の作品だったけど、今回は中学生がメインキャラクターとして出てくる。編入してきた子が20年前の恋人にそっくりだったらどう思うだろうか。気になった点は、晴美の昔の友達の中村克士だけど、以前の作品にも登場してるのだろうか。竜野先生は完全に淫行教師だし弓削理事長もやばい人だろうと思ってたら想像通りだった。四捨五入は最初とラストに少し出てくる程度。サクサクと軽く読めてしまう赤川作品
哀訴嘆願僕は本当にこれまで一生懸命に生きてきた。不調が基調となり今現在仕事を休んでいるがだらけた日々を送っている訳ではない。社会のルールの中で生きている。資金面は障害年金で何とか食いつないでいる。僕は芸術にしろ、学問にしろ、一生懸命考えた。だからその価値はあると思う。でも今の僕は不遇の時代を過ごしている。このブログも1000記事を達成したのから本来なら自分に祝辞を述べたい程である。また今日は精神科に行った。主治医に僕の現状を端的にまとめたスマホメモを彼に見せた。八面玲瓏の、鷹揚な医師はいつも
統合失調症であろうとなかろうと他人との比較は辞める事だ。隣の芝は青く見えるのが常時の真理である。僕は同じ病気の人で輝いている人をたくさん知っている。彼らと僕を比べて一喜一憂するのはナンセンスだ。しかしたまに比較してしまう。これは悪癖だ、さっさと直さないと。赤川君は赤川君のペースで生きていって良いと作業所の職員は言っていた。それが本心であろうとそうでなかろうと、非常に救いになる言葉である。僕は少なくとも表面的には元気に見えるかも知れないが統合失調症を罹患している、統合失調症でなくても同じような構
こんにちはお散歩で今朝は月の赤川河川敷の桜を見て来ましたさて…鶴岡市赤川河川敷の桜と風景です遊歩道になっています枝垂れ桜もありましたこれは高等学校の桜です今が見頃の桜たちですこれからの時間も健やかに…Haveagoodtime
今日は桜巡り桜は満開になってました馬渡の桜から櫛引の赤川桜並木松ヶ岡の桜と名所を巡ってきました鶴岡公園はあまりの人出に諦めました馬渡の桜並木青空に桜がきれいでしたここも有名になり人だらけ桜の巨木残雪の山並みと桜松ヶ岡の桜旧養蚕場桜並木の通り抜け
僕の紡ぐ言葉は雑駁としている。それは統合失調症だからなのか。投薬治療も長きに渡って続いている。しかし歳を重ねるに従い、僕の頭はボケてきた。もう学生のような勉強をする事も出来ない。僕はそもそも勉強に苦手意識を持っている。就労移行支援でもプログラミングをして、天才だと褒められたりしたが、今はもう遠い昔の話である。僕は誰かに悩みを話したいが話したところで良くなるかどうかは不明である。暗中模索の僕の人生。僕はどうしても過去を忘却する事は出来ない。昔のような熱量の多い、滾るような発信は出来なくなった。同
僕は人生における戦いに負けた。何度も何度も環境を変えてきた。それでも統合失調症は治らず、僕は今は仕事をしていない、無職だ。僕の発信なんて誰も見てくれない。ノーウェアマンとはこの事か。僕に吉報があれば良いと思う。森羅万象、吉凶禍福、愛は与えただけ帰ってくる。僕が与えたものはあっただろうか。僕は絶えず呻吟し、苦悩してきた。それだけだ、周りの事を考える余裕など微塵もなかった。不意に僕は傷つく、過去の記憶を思い出し。しかし過去なんかに隷属するのもやるせない。どうすれば良いのか分からない。外に出るか?い
僕は自分のブログの閲覧数は見ない。友好的なコメントが来るのは嬉しいし、受け入れるが、どうせこのブログの閲覧数は、800を超える分量の記事があるにせよ、やはり怖い。これも自尊心が高いからだろうか、臆病だからだろうか。畢竟僕の言葉は僕の血肉の温度の高さと比例しているように思える。まあそういう訳で僕はうまい具合にネット文化に関わっていく。自殺を考えた時期も繁多にあるのだが、数限りもない霹靂のような喜びだってあると僕は信じたい。幾重にも錯雑した妄想、しかしその妄想は甚だ僕にとっては低俗なものが多い。低
僕の人生には固定観念が根差していてそれにより心理的に勝手に僕は不利益を被っている。欣喜雀躍する場合もあれば阻喪する場合もある。それに加えて世間の既成概念もある。僕の固定観念と既成概念はサンバを踊るかの如く戯れている。無論それは暗喩であるが。僕の人生は素晴らしい。これは反語ではない。僕の人生は時折素晴らしいものに感じる事、屈託なく、爛漫とそう感じる瞬間が多い。どうすればこの神経の世界から離れる事が出来るだろう。そう考えた時に開口一番に名前が挙がるのが酒である。僕の最大版図は酒の助力により一際光り
僕は貪婪な人間だった。全ての富貴を得たいと思った。心に壮大な夢を抱いた。それは自尊心が高かったからなのだろうか。しかしその末路として僕は統合失調症になり、少しの間狼狽した。高校生活は順調だった、最初の内は。僕の容貌は秀麗であったらしく女子生徒からの人気も高かった。しかし僕はそれに喜悦を感じられずにいた。高専での虐待や暴行に近い思い出を葬り去る事が出来ずにいた。僕は走れメロスの暴君ディオニスのように人が信じられなかった。僕の心の傷を慰撫する役割を果たすものはなかった。本には走ったが統合失調症の錯
僕はこれまで満身創痍になる時が多くあった。今も苦痛から身を遠ざけて療養生活を送っている。同じ病気の人でも何年も人や外が怖くて休んでいる人もいる。僕だけではない、辛酸の極みを持っている僕は。それでも僕と関わってくれる友達がたった一人いる。その人は今忙しそうであるが僕の懊悩に親身に寄り添ってくれた。僕を肯定してくれた。しかし真に肯定し、自分の心を慰撫する、愛撫するのは自分自身である事を忘れてはならない。不貞腐れた様子では僕は生きたくない。しかし現実はどう見られているか分からない。飲酒は週一にしてい
僕は大学二年の健康診断の際に、非常に憂鬱になり、不安になり、精神病院に入院する次第となった。たとえ他人から見ればどうってことのないイベントでもそれに絶望する事もあるのだ。遮二無二僕は大学生活を頑張っていた。しかし統合失調症の症状の重篤さからか、学業成績は芳しくなかった。それでも知見を、知識を得ようと図書館に入り浸るのが常であった。僕は自分が当時小柄な体躯しか持っていない事に引け目を感じていた。一生懸命受けてテストを受けた試験でも単位不可で当惑した時もあった。僕は大学初期の頃バイトもしていた。ス
僕は週に一度飲酒をしている。それにより恍惚感に包まれ、そんな僕を俯瞰し、悦に入っているのだが、それが果たして良い事なのか分かりかねる。今の僕はしばらく仕事を休むつもりでいている。しかしこのままズルズルと辞めていくのは作業所の職員も危惧しているようである。僕はとにかくしんどい時、叫喚に満ちた日を過ごしているのだから好きに過ごせば良い。食事量はめっきり減ったが、一時期よりは、でも僕の生命力はそれに反して迸っている。僕と一緒に読者も楽しんでくれれば良いな。そうなれば御の字。僕は玲瓏な男ではない。医学
本当に脳髄が錯乱し、心が正常に機能していない場合にやった僕の行動は非常に慙愧に堪えないものだ。世の中に悲憤慷慨したり、目上の人に阿諛追従したり、友人と不和軋轢が生まれたり、生きていれば色々な感情の爆発があり、結末がある。そんな中でも統合失調症を持つ人間は更に負荷が付け足される。健常者が経験する種々雑多なものに頭のおかしい瞬間が訪れるのだ。それは視点を変えれば荒唐無稽で茶化される恐れのある事である。実際文学上では統合失調症をエンタメに昇華したり、舞台装置として何の淀みもなく乱用される場合も多い。
仕事を休んでいても昼夜逆転しないように朝に僕は起きている、懶惰の気持ちもあるが、とにかく僕は起きている。しかし仕事に行く前の8時前後は非常に起きにくい、倦怠と疲労、多分病気の症状なのだろう。統合失調症以外に病気を併発しているのかも知れない。まあ素人目線の弁舌であるから自己判断には語弊があるのは必然の事である。そういえば僕はよくプロレスラーみたいだと言われる。長身で、ガタイがデカくて、筋骨隆々で。恵まれた体格だと。これはおよそ日本の風土にあった風采ではないが僕はこの井出達を気に入っている。唯一無
魂の散文手記などに広大に用いられる文章は散文の場合が支配的である。その中でこまごました作者独自の凄み、語彙、豪華にして気鋭な修辞で作家の文章の印象は形作られる。大勢の読者を先導させ、魅了するには何が必要だろうか。僕は統合失調症である、これだけで怪奇幻想ぶり、奇想天外な展開とは無縁ではない。僕を率いる統合失調症の一隊が威風堂々にこの時代を更新していく、その前途には未曽有の奇跡があったり、傑作の台頭があったり、人々のメンタル疾患に対するパラダイムシフトがあったりする事が多いに期待出来ると思う。その
僕のブログの記事数が800記事以上もある事を僕は確認した。ここまでの道のり長かった。悲喜こもごも、難渋に横溢した瞬間もありながらよくぞここまで書きぬいたものだ。僕は笑顔を意識するようになったからそれがポジティブな変化となっているのかも知れない。無論主観的なものなので僕自身が客観的に、俯瞰的に見て変化したかどうかは分からない。しかし前回の訪問看護の際に看護師に前よりも表情が柔らかくなった、口角も上がっていると言われた。これはかなり良い兆候と言えるのではないだろうか。勿論気分の浮き沈みは激しいし、
僕は自分の赤川凌我のユーチューブチャンネルに投稿した自分の曲の音源を聞いた。やはりアバンギャルドで、これらが群衆から人気を博す事などは今の時点では想像出来なかった。でも、いつか理解され、評価されたい。まあそれはともかく今回は芸術のジャンル、野獣派に触れて自分の思うところを述べていきたいと思う。野獣派の野獣とは某ホモビデオの男優の事ではない。原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチを見た批評家ルイ・ボークセル(仏:LouisVauxcelles、英:LouisVauxcelles)が「あ
今僕は例外はあれど仕事に勤しんだ後の疲労感に包まれている。健常者のみならず労働者全般のご多分に漏れず、僕もまた金曜になると非常に開放感を感じる。この世には統合失調症当事者が多く、彼らの試みも非常に注目や感心を抱かせる程の値千金のものだ。しかし現在ではアウトサイダーとか差別意識とかで十分に彼らの功績が評価されていない。僕が無名でなければ僕は彼らをもっと有名にさせたかった。彼らはまるで僕と見紛うばかりのパーソナリティーを持っている場合もあれば、僕よりも非常に閉塞的で寂寞感を長きに渡って感じている場
エッセイは文学の一ジャンルであるという。底で僕は意を決して文学活動に邁進しているのである。この仕事で必要なのは笑顔だ。生命の証左たる笑顔だ。汐路をかいくぐり、狂気の轍を尻目に僕は活動を行っている。深潭とした記事は力不足で書けないかも知れない。それどころか無自覚に人を中傷したり、それによって激昂されたりする事もあるかも知れない。自分に非があると分かれば謝り、笑顔で過ごす。僕は特に超自然的な存在の恩寵をシャーマンのように得ている訳ではない。僕はただ無我夢中で言葉を記し、そして偉大な書物を自分のペー
人体が小宇宙だと捉える文化は主に西洋で勃興したものだ、今はどうか知らないが。僕が愛を具して生きていく中でやはり水脈然とした僕の内的自然から蒸発され、実体化する飛沫。僕もまた生きている一人の男なのだ。詩的過ぎて理解不能だろうか。僕も何を言っているのか自分でも理解不能である。文筆活動を5年以上も継続していると否応なしに自分の実生活に対し敏感になる。統合失調症で更に敏感になる事で、僕の感性はたちどころに狂気の領域へと至る。まあ文筆活動などはなくてもHSPや発達障害などであればやはり僕と同じような心理