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大河ドラマどうする家康第42回「天下分け目」2023.11.5放送NHK総合BSプレミアムこんばんは~やっと大河ドラマ記事です。前々回の回を書いていきます。鳥居元忠(音尾琢真さん)と伏見城で涙の盃を交わした後、松潤・家康は、上杉討伐のため出兵しました。その間に、石田三成(中村七之助さん)らは挙兵。家康がその報を受け取ったのは、下野・小山の陣でした。いわゆる「小山評定」が前半の見どころ。小山評定については、実際にはなかった説を聞いたことがありますが。この大河では、ある説
どうする家康第42回は天下分け目。小山評定↓『どうする家康小山評定・豊臣恩顧の将を味方に成功』どうする家康第42回は天下分け目。下野國小山の徳川家康の陣所に、石田三成挙兵の知らせが届いた。*石田三成は、家康の背後を襲う狙い日本中を徳川方と石田方に分か…ameblo.jp真田親子の犬伏の別れ↓『どうする家康真田親子の犬伏の別れシーン無し』どうする家康第42回は天下分け目。下野國小山で評定が開かれた。一人の漢の姿が評定の場に無かった。その漢の行き先は、上野國沼田城。沼田城は真田
こんにちわ。私のこんな拙いブログをご覧いただき、ありがとうございます。今回も前回に続きまして、日本史にハマっている私の旅記録です。夏の終わり、友人と2泊3日で長野へ出かけました。真田家ゆかりの地を訪ねたい!から計画した旅でしたが、その他にも見どころ満載の地でした。1日目、まずは北斎と栗の街、小布施へ。・岩松院NTT東日本のCM『私が初めて北斎の絵を見たのは8歳の時。大きな波の絵に心を奪われた。~途中略~遠い町のお寺にあるという鳳凰図、いつか見れる日がく
http://franoma.jugem.jp/?eid=2違憲立法で格差の固定=国家の私物化|人類全員に人格権を参考文献:『放射線被曝の理科・社会』を批判する—ICRPを信奉する著者らの考え方と人格権—http://blog.acsir.org/?eid=40「財産権」と対比しての「人格権」の概念なしに原発事故被害者を出すことが「人道上の罪」だというfranoma.jugem.jp2006年シンクロ現象2006年に発症された…https://ameblo.jp/10mako2
どうする家康第42回は天下分け目。下野國小山の徳川家康の陣所に、石田三成挙兵の知らせが届いた。*石田三成は、家康の背後を襲う狙い日本中を徳川方と石田方に分かれた。白は徳川方、黒は石田方。畿内から西は豊臣系が多い。山城國伏見城を守る鳥居元忠は、取り囲まれ絶体絶命のピンチに。大阪城には、毛利輝元が入城。阿茶局は北政所により難を逃れた。北政所は事前に徳川家康と通じていたとも。策士本多正信が、豊臣恩顧の将の一人を調略すると進言。*小山に帯同しているのは豊臣系の大名真田信幸が徳川
関ヶ原近くに腰を据える徳川家康と石田三成。どちらも小早川秀秋がどちらにつくのかという読み合いに終始しており、秀秋が裏切らないことも想定する家康に必ず裏切らないと断言した三成だった関ヶ原の合戦は一番槍を目指す本多忠勝と井伊直政の出陣から始まります。戦の一番槍は勇猛の証とされ、恩賞の証とされたうえに褒賞も出るそうです。事前の作戦では福島正則が一番槍を務め、先陣を切るとなっていましたが忠勝と直政が意表をついた感じですねなぜ福島が一番槍と決まっていたのか。関ヶ原の前に岐阜城を攻めた際、軍功を
日本を東西に分けての大戦、関ヶ原の戦いを語るのに外せない出来事があります。その出来事とは、小山評定。会津の上杉景勝が軍事力増強・謀反の兆しありと、徳川家康が諸大名を率いて下野國小山で会津征伐に向かう途中、大阪で石田三成が挙兵の知らせが届く。家康は、諸大名に敵味方になっても構わない。大阪に帰り人質となった妻子を助けて良いと言う。家康は、豊臣恩顧の将を事前に取り込むことに成功していた。その男の名は、福島正則。朝鮮出兵で石田三成と対立。大阪に帰るか、このまま会津に向かうか決断を迫られた諸
[どうする家康感想]大河ドラマ、どうする家康、第42回「天下分け目」の感想の続きです。会津征伐へ向かう途中の下野・小山にて諸将を集め、軍議を開く。世に名高い小山評定である。神君のもとには、福島正則、黒田長政、藤堂高虎ら、ほかの諸将が集まった。神君は三成の挙兵に対し、諸将らの考えをうかがう。三成などが天下を治めることはできない。「できるのは、内府殿(神君)だけじゃ!」みなの考えは一致している。そこへ、山内一豊が進み出て、
関ヶ原の戦い時に家康は小山評定を開き、挙兵した上方に向かいます。石田三成を討伐する機運が高まり、上杉討伐を急遽取りやめ、福島正則、加藤清正ら豊臣家中の猛将を引き連れて上方に向かったのです。徳川旗本3万軍を率いた家康の後継者秀忠。中仙道を通り、上方に向かう道中で上田城の真田の策略にはまりくぎ付けにされます。世に言う、上田合戦です。関ヶ原の戦いはわずか1日で終結。天下分け目の大戦に秀忠は間に合わなかったばかりか供回りの部下だけで大急ぎで向かい、さらに家康から𠮟責を受けます。
福島正則陣跡案内板…3台くらい?止められる駐車スペースがあります関ヶ原古戦場に行きました!パート🔟関ヶ原古戦場サイクリング⑩福島正則陣地跡続きです福島左衛門大夫正則陣地跡福島正則は、尾張清須24万石の大名で、関ヶ原では6,000人を率いて、倍以上の宇喜多隊と互角に戦いました。市松と呼ばれた幼少の頃より、従兄(正則の母は、秀吉の母なかの妹)秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは、七本槍のひとりとして活躍しました。豊臣家臣団最強の猛将であり
https://ameblo.jp/m67878374/entry-12827670406.html『私たちは目覚めなければならない。』この様な帰還までクラウドフアンデイングとは日本は終わりだ。国立科学博物館のクラファンに9億円超。国の予算のあり方に一石を投じる結果に。館長が会見で述べた…ameblo.jp皆さまも、お大事に。
「どうする家康」第42話「天下分け目」を見ました。1600年7月11日・石田三成・大谷吉継挙兵7月16日・毛利輝元、大坂城に入る。7月17日・三奉行(増田長盛、前田玄以、長束正家)が「内府ちがひの条々」を各大名に送る。7月19日・島津義弘、小早川秀秋ら、石田三成に味方する者で京都伏見城を攻撃開始。7月21日・徳川家康、会津に向けて江戸から出陣。7月24日・徳川家康、石田三成挙兵を知る。7月25日・小山評定7月26日・福島正則ら西上。7月26日・前田利長が徳川に味方する。
【幻の福岡城】昨日、福岡城跡に行ってみた。以下は、「知略を駆使した九州最大級の城郭福岡城」からの一部抜粋。https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro_returns/02/福岡城には天守はないが、大きな天守台が現存する。およそ東西25メートル、南北22メートル、高さ10メートルの大規模なもので、天守が実際に存在した場合、五層はあったのではと推測される。しかし、これまで天守があったという確かな記録が残
今年もやってきました「関ヶ原の戦い」の陣跡を巡る「関ケ原陣跡制覇ウォーキング2023」。参陣武将の千社札欲しさに毎年制覇コース(16km)に参加しています。今年の開催日は9月24日でした。約1.5か月後のブログ、今年もあちこち攻めまっくているからなぁ。しかし、今年の大河ドラマ「どうする家康」でも「関ヶ原の戦い」が始まります。いいタイミングです。X(旧ツイッター)では毎年西軍勝利を宣言している戦国武将がいますが、今年はどうでしょう?この時攻めた陣跡と城(昨年の使
黒田長政の兜は、10領の甲冑・兜の中で一番重い。福島正則や…本田忠勝の甲冑・兜より重いと甲冑マイスターの方々が言っていた。この10領の甲冑と兜は、小山市の財産だ。16年ほど前からずっとある。あの有名な大谷選手が被る兜と同じ制作担当の会社で作ったらしい。だからこそ存在感のあるどっしりとした重厚感のある甲冑・兜なのである。もともとは、小山評定展の展示のために制作されたらしく…甲冑・兜を着けて舞台をやる予定では無かったと話しに聞いたことがあった。そんなことを思い出した。私は、今回の舞台ではナ
小西行長陣地跡案内板…関ヶ原開戦地の奥に進むとあります関ヶ原古戦場に行きました!パート2️⃣関ヶ原古戦場サイクリング①開戦地続きですルートマップとおりに行けばスムーズだったのに、とりあえず開戦地へ行こか!ってことになり、開戦地へ行きました🚲宇喜多陣地跡で説明するのが筋ですが、宇喜多本陣は開戦地後方にあり、おそらく魚鱗の陣形で楕円形に展開しており、小西の陣の隣に宇喜多家臣明石全登が布陣していました。宇喜多軍明石隊に井伊・松平隊が鉄砲を撃
1600年10月15日(旧暦)に起きた、天下分け目の東西決戦の場所・関ヶ原。当時の陣形図・・とても広い所です。最後の天下人になろうとした家康は「関ヶ原の戦い」前の50日間で、確認されるだけでも82名の外様大名に手紙を出し、その数は160通以上。家臣の代筆に頼らず、自分の味方をすればどんな良いことがあるのかなど具体的なことを書いた。一方、三成も多くの手紙を出していますが、秀吉とのしがらみを重視し、自分の感情のままを羅列した長文の手紙ばかり。手紙を受け取った武将らは、やはり具体的な内容を重
本田忠勝・福島正則・黒田長政・加藤嘉明池田輝政・細川忠興・山内一豊井伊直政、徳川家康。関ヶ原への道。こうして、石田三成を討つことが決まった。
福島正則と藤堂高虎。加藤嘉明と池田輝政、黒田長政。細川忠興。
福島正則。黒田長政。池田輝政。
[どうする家康感想]大河ドラマ、どうする家康、第40回「天下人、家康」の感想の続きです。本多忠勝、本多正信、阿茶局は神君の周りに集まり、朝鮮出兵の戦の後始末をどうするか、などを話し合う。「天下は力ある者の持ち回り。」と言って、今こそ、天下を取ってしまおう、とする、本多忠勝!(相変わらずの忠勝節!)それに対して、本多正信の方は、「逃げられるなら逃げておいた方がよい。今は息をひそめることでござる。」(と相変わらずの正信節!)(田楽を食いながらの正信
2023年10月25日--------------------------------------------武士の情け。人の情け、、、時には必要ですよね。2022年10月25日--------------------------------------------島流しになった宇喜多秀家。優しい性格なのですね福島正則。武士の情けですね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
開始から±0㎏目標体重まであと-11.8㎏昨日+0.3㎏でした。ここから減らしてこうと思っていたけど食欲増進中…振り出しに戻ってしまいましたーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「どうする家康」40話を見ました。以下ネタバレありです。星の話で意気投合していた家康(松潤)と石田三成(中村七之助さん)が決裂してしまった回でした。仲が良かった2人だけに悲しい。うまくやってくことはできなかったのかな。朝鮮出兵の現地で戦をしていた加藤清正や福島正則らを敵に回してしまう石田三成と
秋の小布施栗🌰栗・・・を食す旅に行ってきましたほっこりした街並みがお気に入り時々訪れるのですが・・人人人de賑わっていましたいつも予約するのを忘れ食べ損ねていた小布施堂栗の点心朱雀や〜っと賞味することができました
来島城レポに第5弾です。その4のレポ『21.11.03来島城[村上の姓を捨てた来島氏の本拠]その4』来島城レポに第4弾です。その3のレポ『21.11.03来島城[村上の姓を捨てた来島氏の本拠]その3』来島城レポに第3弾です。その2のレポ『21.…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)
前記事のつづきです高井鴻山記念館や北斎館などへ行った後は、クルマでちょっと移動して北斎最期の巨大作品八方睨み鳳凰図を見るため北斎や俳人・小林一茶、戦国武将・福島正則ゆかりの古寺岩松院へ伺った時(9月)は本堂の外壁工事中でした北斎が88歳の時に描いた本堂の天井に描かれている八方睨み鳳凰図※撮影NGなので、画像は岩松院のHPから拝借北斎は、83歳から5
※こちらの記事は、令和元年8月22日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は司馬遼太郎(しばりょうたろう)『関ヶ原(せきがはら)』下のブックレビューです。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。上巻、中巻についての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:『関ヶ原』上『関ヶ原』中というわけで、『上』のレビューの時も『中』のレビューの時もまともに本の感想を述べていないのですが、今回こそは何とかブックレビューらしい内容に仕上げようと思います笑まず、司
本当は小布施の竹風堂に行く予定だったんどけど、朝飯食い過ぎたために腹ごなしの為に岩松院へいつ来てもここは長閑で癒やされるここでは、葛飾北斎の天井絵大鳳凰図と福島正則のお墓が堂内撮影禁止なので買った岩松院の目録から実際、天井いっぱいの大鳳凰図は迫力満点で、葛飾北斎が年老いた時代の絵とは思えない迫力の力強い絵幕府から広島の領地を取り上げられ、流刑地の岩松院で亡くなった福島正則前回来たときよりお墓の道が整備されてたこんな所で亡くなった福島正則って幕府を恨んたりしてなかったのかと、ふと考え
広島城天守閣を登城し、少し歩きました。天守台石垣東小天守跡への階段東小天守跡からの天守閣天守台石垣引きの写真北東にある崩された石垣これです。福島正則は、台風によって被害を受けた本丸や石垣などを1619年(元和5)幕府に無断で修理したため、武家諸法度違反で改易。刻印を見ることができました。裏御門跡裏御門跡裏御門跡このあと、広島県護国神社に行きました。
7月23日には、徳川家康が、最上義光に対して、石田三成と大谷吉継が、各地に書状を触れ回しているとの「雑説」があるので、会津侵入は、「御無用」とする指示が出された。7月26日は、関東に参陣していた、畿内及び、西国の東軍側諸大名が、西進を開始する。徳川家康は、「即刻上洛」の意思を示したのである。当初の東軍の戦略目標は、石田三成の居城、佐和山城であった。7月27日、榊原康政は、秋田実季に、石田三成と大谷吉継が、謀反を起こしたので、徳川家康に対して、淀君及び、豊臣三奉行、前田利長等の上