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白髭団地近くにある榎本武揚。幕末から明治に活躍した榎本武揚は73歳で亡くなるまでの3年間を向島の別荘で過ごしたそうです。中学の時は坂本龍馬と高杉晋作が好きでした。
ストーリーイベント「愛玩をやめないでPart1」4月25日で終了でした。お疲れ様でした。今もうPaer2やってますね!斎藤さん、榎本さん、木戸さん、勝さんから選べました。ワタクシ勝さん推しなので勝さんを選択しましたよ!愛玩って言うと、ちょっと人を可愛がるというイメージがあまりなかったので、どんなもんかと思ったのですが、愛玩してたのは出てきた猫だったんですかね?ヒロインを愛玩はしてなかった気がします。いたって普通だった気がします。普通ってなんだ(笑)
”入室伹清風”この言葉を聞いたことがありますか?”にゅうしつしょせいふう”と読みます。この言葉は、榎本武揚が新鮮組副長・土方歳三のことを表現した言葉と言われています。意味は、”部屋に入るなり、涼やかな風が吹いた”彼にはそれだけの”存在感”があったのでしょう。土方歳三、さすがとしか言いようがない!格好良すぎる!僕は、いろいろなお宅・お部屋を訪問していますが土方歳三のように涼やかな風が吹くような立ち居振る舞いをいつも行えるよう心掛けたいで
北海道小樽【竜宮神社】2024年4月13日2024年4月13日土曜日に北海道小樽観光で行った際に立寄って御朱印を頂きました。北海道にある神社等は歴史は浅く、龍宮神社は旧幕府軍の総大将の榎本武揚公が建立された神社です。「龍宮神社」と書いてドラゴン神社というようです。御朱印巡りTwitter御朱印巡りInstagram
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたもので〇す。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●ある時一士人が居士を訪れ、先生について禅を行ってみたく思いますという。居士はあなたは何の目的で禅をやろうと思いますかと聞かれた。士人拙者は洒々落々円転滑脱の境涯を得たく思いますという。居士は予の禅は士人が行えば士道となり、商人が行えば商法となる。
(★)以前紹介したこの書の後継、あるいは番外編といえるか。最後の函館の市街戦で傷病者の治療、保護に当たった函館病院の存在が印象深かった。その病院の頭取をしていた医師が本書の主人公である高松凌雲だ。文藝春秋から連載小説の執筆依頼を受けた吉村さんは、以前からある北方史研究家から凌雲について書くことを薦められていたこともあり、すぐにその研究家から資料を取り寄せたという。前半1/4ほどは、1860年代に渡仏、医学を学ぶ機会を得たことに費やされる。大坂で緒方洪庵の適々斎塾に入門、オランダ語を身に
淀の河津桜並木沿い。長円寺。戊辰之役東軍戦死者之碑。榎本武揚の書鳥羽伏見の戦い幕府軍野戦病院の地。新撰組一番隊組長沖田総司え〜法事檀家さんしか入れない。。。しょうがないです。写真だけ。(ネットでいただきました)閻魔さんがおられて、写真もOKだって〜。残念。動物供養。幕軍、新撰組ファンにはたまらんやろうなぁ。しょうがない、退散します。『令和6.3.9.淀の河津桜』淀駅前。河津桜咲いてます淀と言えば、淀城京都競馬場いえいえ、河津桜です淀駅から数分あるいて
先日も書きましたが私は学生時代、『幕末』を取り扱った『年末時代劇』にド嵌りして、『白虎隊』『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『勝海舟』を何度も何度もリピートして見ていた時期が御座いました。月日は流れ・・・その記憶は朧げになりながらも、要所要所、印象的なシーンは今でも心の中に残っております。でも正直、『五稜郭』で主役だった筈の・・・、榎本さんの記憶ってあんまり残ってないんですよねぇ・・・(-_-;)むしろ土方さんの方が印象深い・・・。薄れた記憶を辿ってみ
🌸北海道に国をつくろうとした榎本武揚⛳榎本武揚、裏切り者と呼ばれる☆鳥羽・伏見の戦いに始まる旧幕府軍と新政府軍との一連の争い☆激戦のひとつが、箱館の五稜郭を舞台に繰り広げられた「箱館戦争」*首謀者は幕府海軍の司令官だった榎本武揚だ*榎本は長崎の海軍伝習所で学んだあとオランダに留学☆榎本は、オランダから購入した開陽丸を指揮し帰国した*幕府の権威は失墜し、日本の情勢は一変していた☆幕府は日本最高水準の海軍を備えている自負があった榎本*あくまで抗戦派で、新政府軍を
「五稜郭」から戻ってきた後、「土方歳三」が弁天台場に向かったと知らせを受けたので、朝餉も取らずそちらへ向かいます。北の大地遠征三日目(最終日)(今年もお世話になります、国土地理院ウェブサイトにあるGSIを使ってマッピング)注)廻った順番に脚色があります。「弁天台場」、市電「箱館どっく前」近くに碑のみ立つここに「土方歳三」はいませんでした。屯所に向かいます。「新撰組屯所跡地(旧称名寺)」ここにもいません。こちらは現「称名寺」、「土方歳三」の供養碑
北海道旅行①からの続き小樽駅の横の三角市場って所で、海鮮丼を食べました。観光客が訪れる市場だから、観光客価格でしたが美味しく頂きました。今はどこの観光地も海外の方が多いですね。そして、他の家族は行かないと言うので、そそくさと食べて、1人で歩いてすぐの龍宮神社へここには、北海道開拓に尽力した榎本武揚さんの銅像があります。御朱印も貰って、私の持ってる御朱印の中の最北端の御朱印となりました。続く
5/21~22に函館方面に行ってました。2022年のことですけどね。上ノ国でてっくい丼を食べた後にここに寄ってたみたい。えさし海の駅~開陽丸の数々を写真でどーぞ♪こんな遠くまでよく行ったねーあんまり覚えてないんで、暖かくなったらまた行きまーす。ここの詳細はこちらをえさし海の駅|海の駅海の駅のご紹介です。各種マリンイベントの開催、朝市による海産物等の販売、地元漁船等を活用した漁業体験など、地域の特性を活かした取り組みが実施されています。www.umi-eki.jp
明治時代に関する歴史、文学、思想関係書を少しまとめて入荷しました。下記の商品はホンの一部です。『資料榎本武揚』(加茂儀一編集解説)昭和44年、新人物往来社刊売価4,400円『明治時代の歴史学界―三上参次懐旧談―』(三上参次)平成3年、吉川弘文館刊売価2,000円『明治の士族―福島県における士族の動向―』(高橋哲夫)昭和55年、歴史春秋社刊売価2,000円『熊本回想』(ジェーンズ原著、田中啓介編訳)平成3年、熊本日日新聞社刊、改
ストーリーイベント「彼との絆に誘われて」2月4日23時終了です。もうすぐ終わり!榎本さん、木戸さん、勝さん、桐野さんから選べます。勝さんがいたら勝さんを選択しますよ!もうすぐ西郷さんの本編が配信されるらしいので、西郷さん絡みです。西郷さんに誘われて、勝さんとふたりでさつまいも掘りに出かけて、勝さんがヤキモチ妬くお話ですよ!『こいばく』の勝さんはヒロインへの執着がやや病的なので(外ではそこまで出しては来ませんけれども)、
11月21日、函館の弁天台場を訪問。台場とは、お台場に代表される江戸時代末期に海に向けて砲台を設置した場所。八幡坂などを散歩した後、函館市電の末広町駅へ戻り、終点へ。終点の函館どつく駅から真北へ1分半。そうそう、函館どつくって何かと思っていました。どつく=関西弁で叩く、ぶつという意味。なぜ函館で関西弁で叩かなきゃならないのか?車内アナウンスでようやく判明。「はこだてドック」と言ってた。ここには「函館どつく(株)」という造船会社があります。その社名を市電
武士道を主として幕末史を調べていると、江戸無血開城を行った恭順派の勝海舟や箱館戦争まで戦い抜いた徹底抗戦派の榎本武揚の批評をたびたび目する。両者は戊辰戦争では真逆の立場をとったが、共に幕臣として徳川宗家の録を食み、維新後は明治新政府に出仕して功績を成した人物だ。旧幕臣のなかには、「二君に仕えた者」と批判することも少なくない。明治期の武士階級解体政策(秩禄処分・断髪廃刀令)などによって没落を余儀なくされた幕臣たちにとって、かつての敵たる明治政府(薩長藩閥政治)に仕え、立身出世する勝と榎本が憎まれ
上陸した官軍を追って、江差へ進軍します。そこには旧幕府軍の「開陽丸」が停泊しており、「土方歳三」「榎本武揚」らに面会を求めます。因みに「開陽」と未来への大きな希望と成功を祈念を意味します。また、おおぐま座の恒星の漢名でもあります。途中「慶喜(けいき)トンネル」を抜けます明らかに「よしのぶ」を意識しています。のちに調べたら五厘沢町には「徳川慶喜」より拝領した松が植えられていたことから同温泉が慶喜温泉と呼ばれており、それに因む命名とのことです(wikimapiaよ
本日は上野寛永寺です!明治維新の戊辰戦争に江戸で抗戦した佐幕派の隊。鳥羽・伏見の戦に敗れた徳川慶喜は江戸へ帰り,上野寛永寺に謹慎して恭順の意を示したが,慶喜側近の旧幕臣らを中心とする強硬派約800人は官軍に対して徹底抗戦を唱え,尊王恭順有志会に集まり,やがて1868年3月16日,彰義隊を結成した彼らは,頭取に慶喜側近の旧幕臣渋沢成一郎,副頭取に天野八郎をえらび,浅草本願寺を屯所とし,慶喜護衛を唱えて江戸市中巡邏(じゆんら)に当たった旗本や諸藩浪士の隊中に投ずる者が多く,
12月20日、いよいよ五稜郭へ入城。完全にフラットな土地に造られています。箱館戦争(戊辰戦争のうち、特に箱館での戦いのことを箱館戦争とも言います)の立役者、新政府軍の黒田了介と、旧幕府軍の榎本武揚。図の右下が五稜郭タワーそのそばの現在地から半月堡の前を通って城内へ。一の橋を渡る。半月堡周囲の堀結氷してます。半月堡の周囲は石塁で囲まれている。半月堡と石塁の間には空堀がある。半月堡によじ登れないよう、はね返しと呼ばれるせり出しがあります。(
「物事をいいかげんにすると時間を無駄にする」by榎本武揚コミック版日本の歴史幕末・維新人物伝榎本武揚Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}かまさん榎本武揚と箱館共和国(祥伝社文庫)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}現代語訳榎本武揚シベリア日記(平凡社ライブラリー697)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}
12月20日、志海苔バス停から函館駅方面へ戻る途中、五稜郭公園前バス停で途中下車。そこは函館市内で一番の繁華街。ビルが立ち並び、五稜郭タワーは見えない。10分歩いたところで、突如目の前に現れた。五稜郭タワーhttps://www.goryokaku-tower.co.jp/1階にはお約束の売店。全国のタワーいくつ登りましたか?自分は五稜郭タワーで7つめ。チケット購入切符切り(切符パンチ)を打ってエレベーターへ。どこを切ったかわかりますか。右
函館市内のマンホール、蓋の多くには星型の五稜郭。五稜郭と言えば、榎本武揚、新選組、そして土方歳三。函館に出発する前、GoogleMapを見ていたら、函館駅から10分ほどの場所に発見。土方歳三最期の地碑MAPの右上にあります。函館朝市はMAPの左下。特に土方さんのファンではないけど・・・同じくMAP左下のラッキーピエロから歩いてみよう。12月19日、午後の出来事。ラッキーピエロから酒気帯び運転、ではなく、酒気帯び徒歩で10分ちょい。函館市総合福祉センターの
新年、おめでとうございます。本年も、よろしくお願い申し上げます。令和6年1月1日旅は風まかせ!横浜のタカです【小樽龍宮神社、令和5年例大祭、御朱印】【一部記事転載】小樽龍宮神社建立から2026年で150年目になる機会を捉え、世界中で勃発している一神教の弊害としての「戦争」を考察する上で、「戊辰戦争以降の神仏混淆廃絶」の真価をあらためて問う魁として、令和6年6月20日午後1時より【土方歳三慰霊祭】(主催者:日本製普及会代表水間政憲)を執り行うことになりました。【水間条項国益最
今年の名言を検索していたら、あるサイトを見つけました。「名言グランプリ」は、この1年間にテレビ、ラジオ、新聞、SNSなどで発信されたコトバの中から、聞いた人が「前向きになる名言No.1」を決定するアワードです。その中で、この名言が気になって読んでみました。歴史好きの乱会さんのコトバ。学生時代、友人と旅行をした際に恋バナをする流れになり、まわりが順番に恋愛エピソードを披露する中、場をわかせるネタをもっていなかった乱会さんは、戊辰戦争における黒田清隆と榎本武揚の友情話で場をつないだそう。
榎本武揚(えのもとたけあき)です。砲台がありました。砲台とシナモンロールです。10:00開店のお店へ入ります。抹茶ラテと箱館奉行所もなかです。
*12月10日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日がシリーズ最終回、庄内藩始末のおはなしです。あんみつ「しらたま先生、九月八日に改元が成され、慶応四年(1868)は明治元年になりました。仙台、米沢に続いて九月二十三日、会津藩降伏。これを受けて二十五日に庄内藩も停戦します。奥羽越列藩同盟の戊辰戦争は終結しました」しらたま「幕臣の抗戦は、
今朝の空。雲が、赤く、照らされていました。藤井海岸から、空を見る。何となく、奇妙な感じですよね。気象について、科学的な知識の無い、昔の人なら、このような空を、どう見るのでしょう。さて、この「気象」というもの。人が生活をして行く上で、とても、重要なものなので、恐らく、人間が文明社会を築いてから、延々と、研究は、されていたのだろうと想像します。しかし、この「気象」の研究の歴史というのは、目にした記憶がない。今でも、気象予報というものは、必ずしも、当たるものではない訳で
激甘官能ストーリーセット「密やかな月夜の遊戯」販売中です。1月4日まで。『こいばく』、すごいの出してきましたねえ!(笑)榎本さん、木戸さん、土方さん、西郷さんの4人が対象です。全員セットと、ちゃんとひとりずつのとが出ております。やっぱりちょっと高いんですけども。この中だと…木戸さんか、土方さんか…欲を言えば勝さんが良かったんだけどなー彼目線がついているのもいいですね!まだ悩み中!(高くて…)
「「幕末開陽丸」安倍龍太郎著角川文庫」勝てば官軍、負ければ賊軍。この小説は、賊軍となった幕府軍の物語です。開陽丸は、排水トン数二千五百九十トン。補助エンジンとして四百馬力の蒸気機関を搭載し、最大速力十二ノット(時速約二十二キロ)を記録し(p.145)、装備されているクルップ砲は、砲身に螺旋状の溝をつけ、先の尖った砲弾を回転させながら飛ばすので、最大射程は三千九百八十メートル(p.181)に及ぶという当時最新鋭の軍艦でした。しかし、それほどの軍艦が、その実力をほとんど発揮することな