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🏢🏢🐻🏢🏢🏢🏢🏢🏢🏢🏢🐻①遺跡のようなSEIYU、もんじゃみぽぽ今回から新しいシリーズをはじめるが、このシリーズは少し前に連載した「しもふり銀座」から滝野川を経て王子駅まで、続いて王子駅を降りて滝野川全域を散策して板橋駅まで……という一連の流れの続編である。今までの散策は旧中山道をメインにして、その周辺を巡ってきたわけだが、国道17号線から旧中山道が分岐している部分の「中程」を散策したつまり、旧中山道の最初の部分と最後の部分
おはよう☀ございます昨日、足を止めた「垂井駅」からスタートです🚶駅ロータリーに、鎮座する「竹中半兵衛」に、見送られて、駅前の道を真っ直ぐ🚶行きます😀突き当り左手から来る道が「中山道」右手が「垂井宿東の見付」で、右手の橋を渡ります🥹右手歩道の橋に入って行くと、橋桁に、西国シール橋を渡り右に行き、右手に入って直ぐの左側ガードレールに、西国シール(曲がる前に、欲しいシール)また橋を渡り🚶ここを左折「旧中山道」です🥹右手に「中山道追分」があります、右手の道は「美濃街道?」です?
戸田公園駅~戸田市こどもの国~戸田渡船場跡~新曽南の桜並木~石仏群~新曽氷川神社~金剛院~妙顕寺~戸田駅まで歩程約7㎞。旧中山道案内板ウコン桜が満開です。3代目戸田橋の親柱戸田市指定有形文化財(建造物)3代目戸田橋は、長さ545メートル、幅11メートル、当時の橋梁技術の粋を集めた近代的な鉄製トラス橋で、完成当時は日本一斬新な美しい橋として話題を呼びました。戸田橋親水公園に移設された3代目戸田橋の親柱2基とこれに伴う欄干部
上画像は、太田橋。太田宿は中山道51番目の宿場町。太田川(木曽川)の右岸に位置する、渡津集落でした。秋里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)によれば、太田川驛の東にあり。舟わたしなり。木曽川の下流にて、早瀬なり。ただ、水谷敬「段丘上の渡津集落美濃加茂市」によれば、河川状態の変化に伴って船乗り場が上流に移っていった。天明以前は祐泉寺の下流から対岸の渡集落であったものが、太田橋のやや下流から対岸の今渡へ渡河することとなり、この船着き場の移動に
(前回「中山道:御嵩から伏見宿へ」より続く)上画像は、御嵩町伏見の「一本松公園」。秋里籬島『木曽路名所圖會』によれば、伏見御嶽まで一里五町。これより西は多く平地なり。往還の左右に列樹の松あり。東海道の如し。是より東には列樹の松なし。山里なればなり。また、同図会によれば、次の太田宿までは二里の道のりです。上画像は、松屋山田家住宅(国登録有形文化財)。左(東)のモルタル塗は旧郵便局。それに対して主体部は1897年の建築。「宿場の名残を伝える近代
先日、旧中山道を、御嵩から鵜沼まで歩いてみました。新可児駅で御嵩行に乗り換え、終点「御嵩駅」で下車。同駅は一面一線で、木造平屋建ての無人駅、1952年の開業です。上画像は、駅前の「御嵩町観光案内図」。可児郡御嵩町の中央を流れているのは可児川で、旧中山道は、同川の右岸を右左折しながら通っていきます。実は、御嵩駅前も旧中山道。上画像は、秋里籬島『木曽路名所圖會』の挿圖「御嶽驛可児薬師」。木曽路(中山道)
郵便局🏣の先、最初の路地に右折して、最初の交差点を左に(やっと西国の道に)てくてく🚶道なり真っ直ぐ、突き当りに、「←旧中山道」の看板国道を横断して、突き当りを右に、真っ直ぐてくてく🚶左手に、中山道表示この先で国道と合流するが、左側の歩道を行きます😀国道と二俣に分かれますが、左側を、真っ直ぐ行きますと、すく右手に、お気軽にお使い下さい🚺🚹が、あります😀なんで?あるの?と思いますが、先に行くとわかります😀なんかいままでと違う道と思っていたら宿場町並みが無い「関ヶ原宿跡」関ヶ
(前回「旧中山道:加納から新加納へ(後)」より続く)新加納を出て、中山道を鵜沼宿に向かいます。貞享二年の貝原益軒『岐蘇路の記』*に、各務野ひろさ三里四方有と云。但東西は三里ばかり。南北一里半程に見ゆ。此野に田畠なし。たゞ青草のみ生ず。享和二年の大田南畝『壬戌紀行』**に、此あたりより鵜沼までの間を各務野といふ。三里四面ありといふ。また、『木曽路名所圖會』(1805年)に、各務野新加納より東の方にあり。廣き野なり。此邊を三野の其一各務野と
(前回「旧中山道:加納宿から新加納へ(前)」より続く)木曾路(中山道)は、蔵前で左折します。細畑の一里塚からは1.7km、この日の目的地鵜沼宿までは13.2kmの道のりです。境川に架かる高田橋を渡ると、上流方向に名鉄各務原線。東海北陸自動車道の高架下を抜けると、濃川橋の西詰に、「中山道間の宿新加納」という石標が見えてきました。江戸時代の道中記、例えば、等々力豊田家「伊勢参宮日記」*(天保六年)に、新加納村中食六十四文梅
旧中山道の表示先に、中山道と書かれた石碑に、「←梓柏原宿→」道なり真っ直ぐてくてく🚶行くと、石柱が、正面は「→中山道」横裏を見ると、なんとなく裏の路が旧中山道と思って、入って行く😀久しぶりの土道獣除けのゲート開いてたどなたか?閉め忘れかと思い閉めました(絶えず閉め忘れがあると、通れ無くなると思い)しばらく歩くと、車道と合流(西国地図では、脇道入らず車道真っ直ぐでした)合流点に、右側から出て来ます。天の川源流菖蒲池跡?なんだ天の川?この辺りから「中山道」の表示が
こんにちは昨日に続いて今日もお花見に行って来ました🌸今日の相棒はチャピィ花曇りですが一回りへ旧日本陸軍の火薬工廠で今は日本化薬高崎工場敷地内の桜旧中山道・新町宿と倉賀野宿の間に有った烏川の「柳瀬の渡し」跡付近埼玉県に入り本庄第一高校前の備前渠の桜並木晴れていれば…😥群馬と埼玉の県境を流れる利根川ですがここ右岸の島村は飛び地になり住所は群馬県ですハンドルの奥が旧島村の渡しです反時計回りに利根川周辺を走って来ました(^^)vー
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼final廃業してしまった片流れの不動産屋国道17号線(首都高速中央環状線)のところで「きつね塚通り商店街」は終わっていたきつね塚の通りは当然、その先まで続いているが、常々僕が唱えている「広い道路は町を分断して結果として滅ばす」のとおり、その先には老舗っぽい酒屋が1軒残るだけで住宅街になってしまうあとは板橋駅まで行って、どこかで夕食を摂って帰りは高円寺にでも立ち寄って古着屋を回ろう…
2021年10月9日の旧中山道妻籠宿・馬籠宿・落合宿・中津川宿レポの続き。旧中山道妻籠宿「本陣跡」「吾妻村道路元標」「妻籠郵便局」と見学した後は、「妻籠宿枡形跡」に向かいました。妻籠宿本陣跡・吾妻村道路元標・妻籠郵便局のレポ『妻籠宿本陣跡と吾妻村道路元標と妻籠郵便局と~旧中山道妻籠宿~長野県木曽郡南木曽町の史跡・街並』2021年10月9日の旧中山道妻籠宿・馬籠宿・落合宿・中津川宿レポの続き。旧中山道妻籠宿の「脇本陣奥谷・林家住宅・南木曽町博物館」を見学した
⛪⛪🐺⛪⛪⛪⛪⛪⛪⛪⛪🐺⑤きつね塚通り商店街の消えた町並み前回の記事の冒頭にも記したが、今回の散策のルートを簡単に説明すると王子駅を降りて北東方面にすすみ「八幡通り商店街」→「宮元商店街」→「御代の台仲通り商店街」→「旧中山道」→「滝野川市場通り商店街」ときて、登録有形文化財の銭湯「稲荷湯」も見たので再び「旧中山道」に戻るというのが現在いる場所であるこの場所には基本的に東から西の方向にすすむが、真っ直ぐではなく南北
🏡🏡🐢🏡🏡🏡🏡🏡🏡🏡🏡🐢①亀の子束子西尾商店の洋館と看板建築もうお気づきとは思うが今回からサブタイトルを《滝野川・旧中山道の町並み》に変えたというのは、今まで散策してきた滝野川二丁目、六丁目は文字通り「迷宮」のように入り組んだ細い路地が錯綜していたが、今回から旧中山道沿いの町並みを散策するため、ほとんどの場所はわかりやすい街道と横の路地だからだしたがって「迷宮」という単語は、いささかミスマッチになるので変えたわけだ。暗
今回のたびも旅行会社のツアーに参加(^^)。今回の行程では大井宿まで向かう予定だ。バスに乗り、前回たびを終えたところまでやってきた。ここから、旧中山道のたびをスタート(^^)。大井宿へ向かう。丁字路を右折して歩く。少し歩くと交差点に出た。ここから交差点を直進し、坂道を登るようだ。坂道の途中で十三峠入口の看板があった。ツアーガイドさんによると、ここから十三と余りの坂を越えていくそうだ。また、どうやらこのあたりまでが大湫宿だったようだ。大湫宿を後にし
南半分が武蔵野台地、北半分が荒川低地になっている。荒川低地は、暴れ川であった荒川が武蔵野台地を削ってできたもの。この間は、崖地になっている。志村一里塚(中山道)・都営三田線志村坂上駅近隣の国道17号線沿い国道拡幅時に土砂が流出しないように石積みで囲んだとのこと反対側。街道沿いで両側とも残っているところはあまりない。清水坂(旧中山道)・国道17号線を埼玉方面に向い左に分岐したあたり・武蔵野台地から荒川低地への崖を下る坂坂の途中の左。都営三田線が地上に出てくる
(前回「旧中山道:揖斐川から美江寺宿へ」より続く)美江寺宿を出て、旧中山道を河渡宿に向かいます。秋里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)によれば、美江寺河渡まで一里六町。驛中左右相對して巷をなす。艅は散在す。ということで、河渡宿までは一里六町。上画像は「本田代官所跡」。大田南畝『壬戌紀行』(1802年)*によれば、ぼんでん村をへて板橋を渡る川をいつぬき川といふにや。『木曽路名所圖會』(1805年)によれば、糸貫川本
(前回「中山道:赤坂宿から揖斐川へ」より続く)鷲田橋で揖斐川を渡り、旧中山道を、美江寺宿に向かいます。犀川を渡ると、左手に1833(天保四)年の創建という千手観音堂があり、「美江寺宿名所・遺跡図」。「右大垣赤坂ニ至ル」という道標の角を、逆に左折すると、右手に「美江寺宿本跡跡」があり、正面に美江神社が見えてきました。ここはかつての枡形で、高札場。美江神社の境内には、こ高札場が復元されてい
(前回「中山道赤坂宿(続)」より続く)上画像は、大垣市枝郷の「中山道一里塚跡」。ここは、江戸から110里の地。現地に立つ案内板によれば、往時の一里塚はここから西30mほどの地にあり、明治時代の土地改修で取り壊されたようです。さて、中山道を東に進むと、養老鉄道の踏切と神戸町の案内看板。踏切から北方向を見ると、東赤坂駅がありました。興福地町からは右左折を繰り返すようになり、上画像は「中仙道七曲半」碑。続けては「中仙道
風が強くて冷たい庭先園芸は休みます☆昨日は本庄早稲田の杜ミュージアムへ行って来ました。展示中の縄文時代〜の遺跡から発掘された出土品展を見ながら縄文時代の竪穴住居弥生時代の人々の生活と文化などを紹介しています。3月24日(日)まで入館料無料ですそれから旧中山道の煉瓦倉庫へここでは☆皇女和宮降嫁への本庄宿宿泊に関する記録のパネル展示されてます3月25日(月)まで明日の予定は神社参拝とその後に日帰り温泉♨️の予定ですが🚗はその時の気の向く方向へ走ります。
く鳥居の中から分け入ってたら、右手に、西国シール枯れ葉で見え隠れする石段を慎重に、滑らないように、一段一段えっちらおっちら登り坂🤣おっここまで「桑実寺」の寺領なんだ(入山料取るなら、枯れ葉整備お願いします)🥹窓が開けて、最後の登り坂をえっちらおっちら行くと、四国では、お大師さんの背中だけど、◯◯仏と書いてあった西国三十三32番観音正寺とうちゃこ❗お寺から駐車場の方に出て、そこから下ります😀結神社の表示に従って、下る降る石段は滑らないように、雨はあがって来た😀こんなに登った
2月9日に訪れた群馬県高崎市の古墳、続きです。↑旧中山道沿いにある安楽寺。こちらの境内に安楽寺古墳があります。↑ちゃんと看板も出ています↑安楽寺古墳、南西側より木立の中が安楽寺古墳。↑境内にある安楽寺古墳の解説板直径20メートル、高さ4メートル、7世紀末築造の円墳。主体部は横口式石槨。石室内部の壁面には鎌倉時代の製作と推定される仏像が7体掘られており(安楽寺の本尊)、12年に一度、巳年に開帳。↑お寺の方に声をかけて古墳へ
今回の行程も、旅行会社のツアーに参加(^^)。バスに揺られて前回たびを終えたところまでやってきた。ここから、また旧中山道のたびをスタート(^^)。2~3分歩いたところで、道を逸れて直進方向に進む。直進方向に進むとすぐに左折していた。左折すると先ほど逸れた道とまた合流し右折。桝形のようになっていた。右折して少し歩くとまた道が分岐していた。ここは道なりにまっすぐに進むようで、ツアーご参加者の方に従い歩く(^^;。5分ほど歩いたところで、馬頭観音があった。
中山道・木曽路妻籠宿から旧中山道馬籠峠から馬籠宿🐎</span>ブログ&動画https://ek0901.hatenablog.com/entry/2024/03/16/063000
先日、岐阜街道を一宮駅まで歩いてみました。この日のスタートはJR岐阜駅。駅前から加納栄町通りを南下し、まずは、中山道に入ります。大田南畝『壬戌紀行』(1802年)*に、やうやう加納の驛につく。城下長くして人家多し穐里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)にも、加納鵜沼まで四里八町。當城主永井侯三萬二千石を領せらる。町長し。又商人多し。岐阜へ一里。町續なり。と書かれるように、加納は城下町であるとともに、中山道の宿駅
西武ウォーキング「旧中山道板橋宿を訪ねる!」>西武鉄道のウォーキング&ハイキング企画「旧中山道板橋宿を訪ねる!」に参加してきました。池袋駅から立教大学近くの谷端川緑道を経由して板橋宿へ。昨年の桜の時期に王子駅から石神井川、板橋を散策しましたが、それからもう一年、さすがにまだ桜は開花していませんでした。↓旧中山道の仲宿↓これが板橋区の元となった板橋久しぶりの西武ウォーキング、約7kmでしたが、風も強く結構寒い。そのためかじんわりした腰痛も…。結構疲れました。
ミシンと手縫いどっちが得意?▼本日限定!ブログスタンプミシンは小学校の時から使ってないです裁縫はボタン付けくらいしかできない(´;ω;`)ウゥゥおはようございますドナですひな祭りも終わって桜旅の準備中ですが今年も全国各地の桜が一斉に咲いてしまいそうで東北にしても4月上旬には満開向かえそうでどうしましょう・・・・だいぶ前に歩いた中山道の記事書いています情報が相当古いのでお気を付けください地蔵通り商店街を行くと都電荒川線の踏切を渡ります東京都で唯一残って
前回のブログに書いたとおり、ここから細久手宿、大湫宿、大井宿までは公共交通機関の駅が遠く離れており、途中宿泊施設も1軒しかないことから、旅行会社のツアーに参加することにした(^^)。このブログは、自らのたびの記録を残すために書いているが、同時に五街道を歩かれる方のお役に立てばという思いもあった。しかしながら、ツアーに参加するとほとんどお役に立たないのかもしれない(TT)、とそこは残念に思いながらツアーのバスに乗って前回たびを終えたところまでやってきた。前回たびを終えたところを道路反対
岩魚があれほど美味くなければ、長瀬停留所から12時51分発のバスに乗り、木曽平沢駅13時29分発の松本駅行きで帰ろうと考えていたが、あまりの極上に、つい日本酒を頼んでしまった。もっともそうなったらプランBに切り替えるつもりだった。(写真/贄川駅に向かって歩く。ちょうど国道を交差する橋を、乗車するはずだった下りの列車が通過していく)国道の橋の上から、蛇行していく奈良井川の流れに見入る。土手の日陰にはまだ雪が残るものの陽気は暖かい。今は無機質で色彩がない景色だが、変化が生じるのはそう遠くない