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[大島守備隊]国道特15号とホノホシ砲台?鹿児島県大島郡瀬戸内町蘇刈(ホノホシ園地)奄美大島側の大島海峡の東口、皆津崎には陸軍の皆津崎砲台(奄美大島要塞)と複廓陣地(大島守備隊)、海軍の望楼などがあり、これらは瀬戸内町篠川(大島郡西方村)から蘇刈(大島郡東方村)まで国道特15号(=県道79号と県道626号)でつながっている。国道特14号(=県道627号)は瀬戸内町久慈(大島郡西方村久慈)〜奄美大島西端の西古見(西方村西古見)で西古見砲台などがある。昭和17年1月24日に特14号が延
[奄美大島要塞]西古見砲台③第2観測所鹿児島県大島郡瀬戸内町西古見※後日、加筆します西古見(にしこみ)第1砲台起工:大正10年9月6日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:15センチ速射加農砲×4門(*立案のみ)→23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→7年式30センチ長榴弾砲×4(*立案のみ)→28センチ榴弾砲×4門(昭和15年8月設置決定)標高:10.5
用事がないけど出かけたい時は伊豆。伊豆箱根鉄道駿豆線の伊豆仁田駅(にったえき)多分大正時代のままの駅舎、外壁の板と屋根は新そう。この駅から一番近いパン屋「ベーカリーラパン」のパンが値段の割にものすごくうまいんじゃあ〜。建物外観は金物屋みたいなポンコツですが内部はかわいい。お隣「原木駅」(ばらきえき)箱根・・十国峠?ずっと山並みがみえる、あの山峰をたどれば熱海に行く。パンを買って到着したのは西伊豆スカイライン風早峠。TVCMでも使われますねーCMのって上空から
[奄美大島要塞]西古見第1砲台③砲座など鹿児島県大島郡瀬戸内町西古見※後日、加筆します西古見(にしこみ)第1砲台起工:大正10年9月6日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:15センチ速射加農砲×4門(*立案のみ)→23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→7年式30センチ長榴弾砲×4(*立案のみ)→28センチ榴弾砲×4門(昭和15年8月設置決定)標高:10.
[奄美大島要塞]西古見第1砲台②弾薬支庫など鹿児島県大島郡瀬戸内町西古見※後日、加筆します西古見(にしこみ)第1砲台起工:大正10年9月6日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:15センチ速射加農砲×4門(*立案のみ)→23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→7年式30センチ長榴弾砲×4(*立案のみ)→28センチ榴弾砲×4門(昭和15年8月設置決定)標高:1
[奄美大島要塞]西古見第1砲台①兵舎など鹿児島県大島郡瀬戸内町西古見※後日、加筆します西古見(にしこみ)第1砲台起工:大正10年9月6日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:15センチ速射加農砲×4門(*立案のみ)→23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→7年式30センチ長榴弾砲×4(*立案のみ)→28センチ榴弾砲×4門(昭和15年8月設置決定)標高:10.
🕊️✨平和を芸術で繋ごうという自身の活動、戦争遺跡である亀島山の歌が出来た経緯についてインタヴュー頂きました。戦争が無かったら、うちのハイカラなおばあちゃんは海外飛び回っていたんじゃないかなぁと思います。戦争という時代を生き抜いてきた祖父母に育てられ、平和であるという事の感謝、ありがたみを感じてきました✨今、こうして文章を書いているこの瞬間さえ、なんと落ち着いた時間を頂いているか、ありがたく感じずにはいられません✨インタヴューに際し、事前に丁寧にお話頂き、また深く話に耳を傾けて下さる制作
[奄美大島要塞]実久砲台③砲台など鹿児島県大島郡瀬戸内町実久※後日、加筆します実久(さねく)砲台起工:大正10年8月11日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:7.5速射加農砲×4→7年式15センチ加農×4→45式15センチ加農砲×4→克式15センチ加農×2門(昭和15年8月設置決定)標高:102.2〜110.2メートル任務:大島海峡西口海面より峡内に侵入せんとする敵艦艇の動作を妨害す備考:昭和2年度
[奄美大島要塞]実久砲台②砲台など鹿児島県大島郡瀬戸内町実久※後日、加筆します実久(さねく)砲台起工:大正10年8月11日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:7.5速射加農砲×4→7年式15センチ加農×4→45式15センチ加農砲×4→克式15センチ加農×2門(昭和15年8月設置決定)標高:102.2〜110.2メートル任務:大島海峡西口海面より峡内に侵入せんとする敵艦艇の動作を妨害す備考:昭和2年度
[奄美大島要塞]実久砲台①監守衛舎など鹿児島県大島郡瀬戸内町実久※後日、加筆します実久(さねく)砲台起工:大正10年8月11日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:7.5速射加農砲×4→7年式15センチ加農×4→45式15センチ加農砲×4→克式15センチ加農×2門(昭和15年8月設置決定)標高:102.2〜110.2メートル任務:大島海峡西口海面より峡内に侵入せんとする敵艦艇の動作を妨害す備考:昭和2
観音崎の砲台群は明治維新以降に進められた海防政策により築かれたもので、このうち第一・第二砲台は日本で最初に建設された大変貴重な西洋式砲台跡。日本遺産にも認定されています。11時から小一時間のレクチャーで砲台の歴史を学んでから、実際の砲台を見学するという観音崎砲台を知り尽くすことができるツアーです。参加費無料です。普段は閉鎖されている、約140年前の第二砲台の地下弾薬庫も見学できます。下記により、パークセンターまで、窓口・電話・FAX・HPお問い合わせフォームにて、お申し込み下さい。先
[奄美大島要塞]安脚場砲台②鹿児島県大島郡瀬戸内町大字渡連(安脚場戦跡公園)加計呂麻島の大島海峡の東口につくられた陸軍の砲台出典:国土地理院1947/05/13(昭22)USA-M1001-125、抜粋・加筆安脚場(あんきゃば)砲台起工:大正10年7月1日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:7年式15センチ加農砲(または15速加)×4門←実際の配備は無し?標高:(右2門)102メートル、(左2門)
[奄美大島要塞]安脚場砲台②鹿児島県大島郡瀬戸内町大字渡連(安脚場戦跡公園)※後日、加筆予定加計呂麻島の大島海峡の東口につくられた陸軍の砲台昭和15年頃、敷地の大部分が海軍に移管された。海軍の防備衛所や平射砲台がつくられ、海軍の主要な防禦基地になった。出典:国土地理院1947/05/13(昭22)USA-M1001-125、抜粋・加筆安脚場(あんきゃば)砲台起工:大正10年7月1日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出
2023年11月、沖縄に行って参りました。いつものことですが沖縄で観光なんぞする気は全くなく、那覇市内からは一歩も外へでません。沖縄県庁を基準と考えると一番遠くまで逝った場所は首里城公園、なので沖縄と言うより那覇と考えてください。なので沖縄観光の参考にしようと考えてる方には、オイラの記事はお勧めしませんのでご了承ください。08.Nov-03首里城公園と戦争遺跡首里城公園の東のアザナ、首里城で一番高い場所にあり、市内を一望できます。では下へ降りて那覇市街地へ
母の日が近いからキルフェボンのフルーツタルト。昨日の続き、宇刈四連隧道です。正式名か分かりませんが、大日隧道と言われる事もあるらしいです。この辺りを宇刈大日地区なんで、そう呼ばれてるでしょうね。ちょっと不気味な山道を進んで行きます。道が濡れてて靴が汚れました。じゅるいなぁ~(遠州弁)軽自動車やバイク、ロードのタイヤ痕がありますね。カーブを曲がると。西から二つ目の隧道です。「森の月」惑星エンドアみたいな風景。
[奄美大島要塞]手安弾薬本庫出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2017年3月)「瀬戸内町内の遺跡2」、P.33手安弾(てあん)薬本庫起工:昭和6年頃(大正11年用地買収終了)竣工:昭和12年9月頃備考:・昭和9年度に清涼火薬庫1を国有財産に受入・昭和10年度に薬莢庫1,未塡弾薬庫1,乾燥火薬庫1,器材庫1,火薬試験所1,臨時衛舎1を国有財産に受入。修繕費・新営費にて逐次改築す・昭和10年4月、清涼火薬庫と乾燥火薬庫の改築工事。同年7月に新営工事に着手。・昭和12年
元ブルー飛行班長のSUITさんが空自をお辞めになって和菓子屋さんを営むそうで、地元民ではちょっと盛り上がってます。ポン菓子と言えばポン菓子、そうじゃないと言えばそうじゃないそうです。個人事業主として菓子製造業との事です。昨年のエアフェスタ浜松の時にちょっと噂になってましたね。場所は天竜区の山間部(天竜区は山間部がほとんど)まだ屋号の「杏庵ぽんや」しか発表されてませんが、今年の夏ころオープンの予定。オープンしたらSUITさんファンで大渋滞の予感(笑)もちろん僕も行きたいです。「杏
[奄美大島要塞]要塞司令部/塞重砲兵連隊本部庁舎鹿児島県大島郡瀬戸内町古仁屋399-1(県立古仁屋高等学校)*後日、加筆予定大正8年5月の要塞整理要領と同年12月の防備要領で、日本近海の奄美大島と父島、台湾の澎湖島を第一線要塞として策定された。奄美大島では大正9年8月に陸軍築城部奄美大島支部が新設され、翌年7月に奄美大島要塞の建設が着工された。ワシントン海軍軍縮会議(大正11年2月)で決定した太平洋防備制限が開始されると、奄美大島要塞の砲台と付属施設の建設は全て中止になった。
[佐鎮/佐世保海面防備隊]曽津高崎防備衛所(乙B)鹿児島県大島郡瀬戸内町(曽津高埼)奄美大島西端の曽津高崎(そっこうざき)に、台湾航路用の灯台として陸軍省の軍事費により建設された曽津高崎灯台がある。明治28年12月着工/明治29年11月1日竣工、昭和63年に現在の灯台に建て替えられ、通称、西古見灯台。出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2017年3月)「瀬戸内町内の遺跡2」、P.46抜粋明治36年頃、曽津高崎灯台の隣に、日露戦争に備えた曽津高崎仮設望楼が建てられている(着
[佐鎮/佐世保海面防備隊]カネンテ(金子手)防備衛所(甲B)※後日、加筆します陸軍の奄美大島要塞安脚場砲台敷地内の金子手(かねんて)崎。昭和15年、ここに海軍の防備衛所の建設が開始され、昭和16年に竣工したようだ。以後、安脚場砲台地域には海軍の海面砲台(40口径安式15センチIII型砲×4)や機銃陣地もあったことから、カネンテ砲台と呼ばれていたようだ。出典:防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書沖縄方面海軍作戦』P.25より抜粋昭和17年1月15日の佐鎮海面防備部隊命令31号。大
旧陸軍輜重兵二等卒池田一郎之碑~広島市安佐北区狩留家2021.8.23スマホからYouTubeへ投稿。動画を観てね!旧陸軍輜重兵二等卒池田一郎之碑~広島市安佐北区狩留家2021.8.23広島市安佐北区狩留家3232にある「従軍碑」「慰霊碑」です。北清事変に地域(狩留家村)から従軍した兵士の碑です。戦死したとなつています。狩留家駅の近くではなく、狩小川小学校から北へ200mほどです。輜重兵を、しちょうへいとよめなかったころ、しじゅうへいと読んでいました。武器や食糧などを運搬する兵隊です。
[佐世保鎮守府/加計呂麻島]海軍艦船給水ダム鹿児島県大島郡瀬戸内町三浦海軍艦船給水ダムは昭和13年夏頃、佐世保鎮守府により建設された。嘉入山から三浦(海岸)側へ流れる川を堰き止めて艦船用給水ダムに貯水した。ダム〜導水管の完成は諸説あるが昭和16年頃との説もある。出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2017年3月)「瀬戸内町内の遺跡2」、P.59ダム堤高は10m、ダム天端(上部)最大幅は約50mを数える。総貯水量は約3,000トン。約5キロ離れた軍桟橋(通称サキバル)まて
[佐世保海軍施設部/加計呂麻島]地下壕鹿児島県大島郡瀬戸内町三浦昭和15〜16年頃、加計呂麻島の三浦に佐世保海軍建築局の分局が配備された。昭和16年8月時点では、一般施設にかわる土木・建築だったが、昭和18年8月時点では砲台や陣地構築など築城施設の業務を加え、各地の海軍建築局は「海軍施設部」と改名した。昭和16年6月の総動員法による微用令により、民間企業より土木・建築技術者の徴用充員を行っている。奄美群島内では隷下の設営隊の徴用工(=軍属工員)の募集は、各町村長を通じて役場の
2024年4月30日のブログで、高尾山歴史探訪登山の様子について紹介しました。その際、確認できた戦争遺跡は数々ありました。最初に出会ったのは、西側のレーダー施設基礎跡【写真①】です。登山道から少し離れているため、その場所はわかりにくいです。現在、周囲は樹木に覆われており遠くを見渡すことはできません。当時は、レーダー監視方向の西側には樹木がなかったのではと思われます。次に出会ったは、登山道脇に設置された防空壕跡【写真②】でした。レーダー施設を攻撃された際の避難場所で、
[第18震洋隊/加計呂麻島]格納壕群鹿児島県大島郡瀬戸内町押角(島尾敏雄文学碑公園)加計呂麻島中央部・大島海峡側に位置する呑之浦湾は、湾口より湾奥まで約1キロの入り江。ここに第18震洋隊基地が置かれた(奄美大島および加計呂麻島には3つの震洋隊が配備されている)。戦死者は戦争マラリアや他の病、空襲によるもの。第44震洋隊(奄美大島久慈):昭和20年1月25日〜55隻、178名(13名戦死)第17震洋隊(加計呂麻島三浦):昭和19年10月15日〜53隻、185名(4名戦死)第18震洋
[佐世保海軍軍需部/奄美大島]大島支庫(水溜)明治24年、奄美群島初の軍事施設(石炭庫と諸倉庫)が久慈湾に置かれた。当時は海軍省官有資産で大正12年3月に佐世保海軍軍需部の付属施設になった。明治28年に(現存する)赤煉瓦構造の水溜(標高2.9m)が桟橋とともに建設された。当時、久慈湾は石炭補給基地の基地として、また台湾航路を維持する上で重要な地域だった、とのこと。鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2022年3月)「瀬戸内町内の遺跡3」P.49抜粋:『取水口と濾水池、そ
[逓信省/奄美大島]赤尾木無線送受信所鹿児島県大島郡龍郷町赤尾木昭和13年11月に開設された赤尾木無線送受信所の無線塔。昭和18年頃、長雲峠に陸軍通信隊が設置されこの無線塔は軍事用としても使われた。奄美郷土研究会報第40号によれば、赤尾木無線送受信所は南に送信所、1キロ離れた北に受信所が設置されていた。往時は受信用無線棟が5基・送信用無線棟が5基あった。塔の高さは30メートル(送信)と25メートル(受信)。塔の高さが違うのは立地問題(標高差)か?*赤尾木無線送受信所黄
[陸軍高松飛行場]由良山格納庫壕群香川県高松市由良町1050(清水神社)旧高松空港跡地の碑(平成6年3月林地区開発協議会)【要約】ここは昭和の後半から平成の初めまで香川県の空の玄関であった旧高松空港の跡地であるが、旧高松空港の成り立ちは地元との関わりを抜きにしては語ることができない。太平洋戦争の戦局が厳しくなる中、昭和19年1月23日(香川県木田郡)林村に陸軍省から「林村を中心に周辺三町村にまたがる約270ヘクタールに飛行場を建設する」との連絡が入った。5日後の28日、林小学校
[紀伊防備隊]伊島防備衛所(乙)徳島県阿南市伊島町紀伊防備隊の任務は紀淡海峡(紀伊水道)の海上防備、哨戒、海上交通の保護。管轄下に5ヶ所の防備衛所(聴音所等)を持つ。太平洋戦争前から設置されていたのは友ヶ島・伊島(徳島県阿南市)・日御碕(和歌山県美浜町)。戦時中に瀬戸崎(和歌山県白浜町)・阿波大島(徳島県牟岐町)にも設置された。友ヶ島は紀淡海峡(航路幅11km)〜大阪湾に出入りする最終チェックポイントであるため、防備衛所(甲)となり、管制機雷を装備した唯一の防備衛所でもあった。伊島
[紀伊防備隊]蒲生田特設見張所(辛)徳島県阿南市椿町蒲生田紀淡海峡、四国側の最東端の蒲生田岬の沖合に伊島があり、ここに対潜見張を主目的とする海軍の防備衛所がつくられた。出典:アジア歴史センター(C08011210100)昭和20年8月31日兵器軍需品施設目録第22嵐部隊出典:アジア歴史センター(C08011206800)紀伊防備隊(3)引渡目録防衛省戦史資料室「電探関係配備一覧表」によれば、蒲生田特設見張所(辛)として新設されたが、着工/竣工など具体的な年月日は不明(昭和2