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埼玉県川越市のびん沼自然公園にきましたよ!前回横浜のたちばなの丘公園で旧浅野カーリット保土ヶ谷工場跡を探検した際に、『日本カーリット(浅野カーリット)保土ヶ谷工場跡』横浜市保土ヶ谷区のたちばなの丘公園にきましたよここのそばに陣ヶ下渓谷公園というのがあって、グレが幼い頃からしばしばお散歩にきてましたが、『初夏の陣ヶ下渓谷』…ameblo.jpグレが関越道の川越近辺でも同じ匂いがするとこがあるんだというので、グレの嗅覚を頼りにやってきましたよ。グレにとっては歩きやすい、平坦な整備されたい
対馬要塞(昭和期)豊砲台④:権現山観測所起工:昭和4年(1929年)5月10日竣工:昭和9年(1934年)3月31日備砲:45口径40糎加農砲(砲塔)1基2門設置:標高45.4m豊砲台は対馬北端の豊崎半島(上対馬町鰐浦)に構築された。釜山の鎮海湾要塞と共に朝鮮海峡(対馬海峡)の制海権死守を任務とする。観測所は、上対馬町大浦の山(現在の海上自衛隊上対馬警備所)と上県町棹崎、西泊の権現山にあり、また砲撃指令は空中・地下・海底の三方方式で伝達されていた。「西泊に観測所があ
[かねやす百貨店]防空監視哨福岡市北九州市小倉北区魚町3-1-10小倉の商業地に大正9年創業の「かねやす百貨店」があった。魚町の一角にあり、小倉を代表する百貨店のひとつであり、昭和11年11月には新たに鉄筋7階建で耐火造の新館が完成させている。この新館は小倉市街地で最も高い建物だった。出典:国土地理院1948/04/07(昭23)USAM895-1-6、抜粋・加工近くに小倉陸軍造兵廠があったことから、かねやす百貨店「新館ビル」の屋上に防空監視哨が設置された。当
小巻沢林道橋(九九式重構桁鉄道橋)北海道夕張市鹿島地区日本陸軍が戦地における架橋のために設計した軍用組み立て式のトラス橋「九九式重構桁鉄道橋」。これが現存している話を聞いて行ってみた。小巻沢林道橋は北炭夕張炭鉱地域、下夕張森林鉄道夕張岳線(鉄道)の第五号橋梁。戦後、木材を搬出する貨物専用鉄道を敷設するが、極端な物資不足の中で注目されたのが、国内で放置されていた九九式重構桁鉄道橋(JKT)だった。*※重構桁鉄道橋(JKT):Jは重い、Kは構桁(Truss)、Tは鉄道。
鵜来島防備衛所は島の北部、標高116m周辺に置かれました。場所はこの辺です。防備衛所は昭和16年(1941年)12月の開戦時は工事中でしたが、昭和17年2月17日に完成して運用が開始されたようです。敵潜水艦の哨戒を任務とする(乙)タイプの防備衛所として、九七式水中聴音機を7基有していました。施設配置図を書きましたので掲載します。図の上が西側、右が北側となります。山頂の砲台から北に道なき道を下っていると、建物跡が現れました。建物跡は2つ並んでいるようですが、『佐伯防備
[勇払平野/苫小牧]①静川綱木トーチカ道道129号線沿いにあるトーチカ。道路整備時に発掘されたそうだ。静川綱木トーチカの備砲は1式機動47mm砲。なお、静川トーチカ(備砲は1式機動47mm砲)は行くのを忘れ、共和トーチカ(備砲は94式山砲)は工場?の敷地から行くようなので断念。*静川綱木トーチカ横から砲眼(左)、出入口(右)出入口側出入口は下部にあり(みえない)出入口では中へ入る土砂流入があるが入れる。入室してか
下松市の笠戸島には船艇壕と思しき穴がたくさん残っています。戦時中、笠戸島にいたと思われる部隊は、海軍の笠戸嵐部隊と陸軍の暁部隊です。海軍の嵐部隊は回天、震洋、海龍などの水上特攻兵器を用いて攻撃する部隊の通称で突撃隊とも呼ばれています。アジ歴を検索すると「笠戸嵐部隊」の保管品目録が残っており、兵器として海龍7隻を保有していたようですが、部隊の所属地は笠戸島ではなく海を挟んだ西側の徳山市大島(大島半島のことか?)と書かれています。大和ミュージアムに展示されている海龍です。
広島湾要塞の概略については2年前に書きましたが、説明に肉付けをして書き直すことにしました。また、砲台の探訪記も必要に応じて修正していきます。===========================明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、広島湾ならびに呉軍港の防御を担うべく立案されたのが「広島湾要塞」でした。広島湾は瀬戸内海北西部の
今回は、函館山展望台のある御殿山第一砲台跡地から南に約1.1㎞の七面山(通称千畳敷)に置かれた千畳敷砲台を訪れます。砲台の履歴です。◆起工:明治31年(1898年)9月15日◆竣工:明治34年(1901年)1月29日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門、十五糎臼砲4門◆備砲完了時期:(28榴)明治35年11月、(15臼)明治34年7月◆設置標高:(28榴)297.5m、(15臼)296m◆改編:大正期の要塞整理で臼砲撤去、二十八糎榴弾砲2門減の4門編成に改める◆特記:日露戦争(
北海道戦争遺跡トーチカ探訪⑦:『網走トーチカ』『網走港トーチカ』在所:北海道網走市南8条東7丁目9番の裏山中腹探訪日:2011年(H23年)5月17日(矢印→にトーチカ)情報がないと貯水槽に見間違えそうです。在所:矢印の辺りにあります。トーチカ内部の様子※トーチカとは…語源はロシア語。コンクリート製などで造られた堅固な小型要塞です。内部に兵士が隠れて小窓(銃眼)より機関銃などを用いて敵を狙います。今回紹介するトーチカは
昨日紹介した防府北基地の南側に航空自衛隊防府南基地が置かれていますが、この基地の前身は防府海軍通信学校でした。戦後米軍が撮影した空中写真で見るとこのような配置となっています。(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスUSA-M122-23を加工して掲載)なお、施設の名称については「甲飛防通会名簿」を参考にしています。それでは簡単に説明していきます。=============================昭和5年(1930年)、無線通信術を教育する海軍通信学校が横須賀
昨日「第132震洋隊」による検索での訪問があったので、その水上特攻部隊について日付順に記します。昭和20年5/15、第21突撃隊傘下部隊の編成の通知高知県宿毛市に本部を置く海軍第21突撃隊に特戦法令第三号によって、傘下の各隊の配属が定められた。越(こえ)、古満目、泊浦、柏島、麦ケ浦、日振島の各派遣隊である。それぞれの派遣隊とも全て、回天(各12基)と震洋(各30~55艇)が配備されるとともに、二箇所、海龍の配備もある。宿毛本部基地には24基の蛟龍の配備も記されているが、これ
陸軍築城本部が大東亜戦争時に編纂した『現代本邦築城史』を読むと、由良要塞の補助建設物履歴の中に「深山方面交通路火薬庫~高森山頂」と書かれており、地図にはその道がマークされています。某書籍には高森山堡塁が築城されたことになっていますので、本当にあるのかどうかを確かめるべく歩いてきました。赤線がその道となります。火薬本庫前から少し歩くと、道路から分岐する道があります。ちなみにこのアスファルト道路も軍道で、佐瀬川堡塁や西ノ庄堡塁方面に向かって伸びています。ちなみに数時間後にこの道に合
元ブルー飛行班長のSUITさんが空自をお辞めになって和菓子屋さんを営むそうで、地元民ではちょっと盛り上がってます。ポン菓子と言えばポン菓子、そうじゃないと言えばそうじゃないそうです。個人事業主として菓子製造業との事です。昨年のエアフェスタ浜松の時にちょっと噂になってましたね。場所は天竜区の山間部(天竜区は山間部がほとんど)まだ屋号の「杏庵ぽんや」しか発表されてませんが、今年の夏ころオープンの予定。オープンしたらSUITさんファンで大渋滞の予感(笑)もちろん僕も行きたいです。「杏
[松島海軍航空基地]防空壕昭和13年(1938年)から矢本飛行場の基地の工事が始まり、昭和17年(1942年)に第1滑走路・第2滑走路が完成。後、2本の滑走路が追加された。昭和17年10月21日、館山海軍航空隊松島派遣隊(対潜哨戒)が開隊。昭和18年、霞ヶ浦海軍航空隊松島分遣隊(戦闘機搭乗員教育)が開隊。昭和19年8月1日、横須賀鎮守府隷下松島海軍航空隊(中攻搭乗員実機教育)が開隊。宮崎海軍航空隊が当地に移動してからの開隊だった。昭和年20年4月1日より出水海軍航空基地より
今夏に訪れた函館要塞探訪記の最後のエントリーとなりますが、まずは函館要塞司令部について説明を加えます。*******************全国の防備すべき海岸要地の一つに選ばれた函館では、日清戦争終結後の明治28年(1895年)に「函館港防御計画要領」が策定され、要塞の築城工事が明治31年(1898年)から開始されました。その後明治36年(1903年)までに5つの堡塁/砲台と補助建築物が建設されましたが、「函館要塞司令部」は建設期間中の明治33年(1900年)5月23日に開庁しました
用事がないけど出かけたい時は伊豆。伊豆箱根鉄道駿豆線の伊豆仁田駅(にったえき)多分大正時代のままの駅舎、外壁の板と屋根は新そう。この駅から一番近いパン屋「ベーカリーラパン」のパンが値段の割にものすごくうまいんじゃあ〜。建物外観は金物屋みたいなポンコツですが内部はかわいい。お隣「原木駅」(ばらきえき)箱根・・十国峠?ずっと山並みがみえる、あの山峰をたどれば熱海に行く。パンを買って到着したのは西伊豆スカイライン風早峠。TVCMでも使われますねーCMのって上空から
玉島(高島)防空高角砲台②砲台岡山県倉敷市玉島乙島竣工:昭和20年(1945年)5月頃備砲:98式10糎連装高角砲×2門玉島砲台の東側(水溜公会堂)に砲台の説明板があり、火の見櫓の左横の小道(両側は墓地)を上っていくと三宝荒神宮に至る。社殿の左横の小道を登る(途中に井戸あり)と稜線の小道に合流する。右に行くと電探施設(電波探信儀)跡地、左に行くと高山山頂(標高59m)にある砲台、中央の谷を下り左折すると弾薬庫に出る。*砲台鉄塔を挟んで砲座①と砲座②があるが、
[奄美大島要塞]西古見第1砲台②弾薬支庫など鹿児島県大島郡瀬戸内町西古見※後日、加筆します西古見(にしこみ)第1砲台起工:大正10年9月6日中止:大正11年3月31日→(当初の建築は中止も逐次、災害復蓄費や修繕費等から費用捻出して増強す)備砲:15センチ速射加農砲×4門(*立案のみ)→23口径30センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→45式24センチ榴弾砲×4(*立案のみ)→7年式30センチ長榴弾砲×4(*立案のみ)→28センチ榴弾砲×4門(昭和15年8月設置決定)標高:1
ヒキウス電探所の電磁台(電波探知塔)北海道根室市の東、双沖一帯にある海軍の電探基地。その東のヒキウス岬には電磁台の基礎が残っている。直径は上部3.6メートル、下部2.3メートル、高さ2.4メートル内径は1.3メートル当然と言えば当然だが、中には何も無い。で昇降用の足掛けが設けられているのみ。電探台からの景色サクッと退散する。コンクリート製建屋の基礎っぽいものは散見するが、何が何だか不明すぎ。*根室市双沖地区には兵舎などが
[旧平良村慰霊碑]40口径安式15糎砲の砲身大正13年1月10日、平良村在郷軍人分会が呉鎮守府から、無償下付廃兵器「45口径41式15糎砲の砲身、番号室8、砲架番号呉20号」1門、「36糎魚型水雷頭部共」1箇を下付される訓示を得た。この砲身は番号から日本海軍の戦艦「周防」の副砲のようだ。周防は、元々はロシア海軍の艦船で旅順艦隊に所属、当時の船名は「前弩級戦艦:Победа(ポベーダ号)」だった。明治35年(1902年)7月31日に就役、日露戦争に参加する、明治37年4月13日に旅
今日は美保海軍航空基地の遺構を探索するため鳥取県を訪れます。場所はこちら。***************************************美保海軍航空基地の建設が開始されたのは昭和14年(1939)10月でした。島根県と接する鳥取県西部の弓ヶ浜半島の広大な桑畑地帯に設けられることになり、昭和17年(1943)10月に飛行場機能が創設されました。飛行場建設は拡張工事を始めとして昭和20年(1945)代まで行われましたが、昭和18年(1943)10月には予科練の教育を行
昨日紹介した護国神社のある麻郷(おごう)地区には、昭和16年(1941)から昭和20年(1945)の大東亜戦争戦時中に軍需品の集積所が置かれていました。正式名称は「大阪陸軍航空補給廠福岡支廠田布施出張所」で、主に大刀洗陸軍飛行場用の航空燃料を詰めたドラム缶が貯蔵されていたようです。戦後すぐの空中写真には30棟以上の倉庫が写っていますので痕跡を辿るために現地を歩いてみましたが、現存する倉庫・遺構は確認することができませんでした。と言うことで記事にするかどうか悩みましたが、とりあえず「
[由良要塞](由良/淡路)成山第1砲台兵庫県洲本市由良町由良出典:「現代本邦築城史」第二部第四巻由良要塞築城史(陸軍築城部)(赤は廃止/青は終戦時現役/黒は設置予定)由良地区の由良の対岸、南北(約6.4キロ/砂州は約3キロ)に延びる成ヶ島。北の成山(標高52m)と南の高崎(標高23m)はもともと陸繋島であり、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり、砂州の中間付近が湾口だった。北の成山と由良を新川口、南の高崎と由良を今川口と呼ばれている。成ヶ島は中世から近
私が剣山に出かけて留守にしていた三日間に、「第128震洋隊」での検索による訪問が12件、「震洋」による検索訪問が18件あったので、改めて128震洋隊についての記事を投稿することにしました。昭和20年8月16日、誤報による出撃準備中、住吉海岸に並べていた水上特攻艇・震洋の全てが爆発し、隊員111名が爆死し、部隊が全滅したことは去年の8/15に投稿したので、今回は隊のあらましを紹介しましょう。《海軍第23突撃隊配属第128震洋隊の概要》部隊編成日=昭和20年5月5日、長崎県川棚基地にて
今日は陸軍元帥で総理大臣も務めた寺内正毅(てらうちまさたけ)の誕生地を訪問します。まずは山口市の遺跡地図で場所を確認します。山口市平井の県道から脇道に入ると案内板が見えてきます。案内板から細い道を200mほど進むと到着です。以前は草むらだったと記憶していますが、舗装されて綺麗になっています。「元帥伯爵寺内正毅君誕生地」です。説明書きです。では寺内正毅さんについてもう少し詳しく書いていきます。嘉永5年(1852年)、長州藩士宇多田正輔の三男として旧平井村(の
軍艦防波堤(響灘沈艦護岸)駆逐艦柳福岡県北九州市若松区響町1丁目日本海軍の駆逐艦「柳」は桃型駆逐艦の4番艦で、大正5年(1916年)10月21日、佐世保海軍工廠で起工、大正6年年5月5日竣工した。大正6〜8年は地中海の海上護衛に従事した(第一次世界大戦時)昭和7年は第一次上海事変において揚子江水域の作戦に参加。昭和15年4月1日、除籍。除籍後は佐世保海兵団の練習船として使用されたが、戦後解体された。福岡県北九州市若松区若松港の防波堤の一部(長さ770mの防波堤のうち約4
[陸軍燃料廠]横島貯蔵所広島県福山市内海町大浜2220(シーパーク大浜)昭和14年(1939年)12月20日、アメリカ政府は日本向けの航空機用ガソリン製造装置の輸出を禁止した。戦争を遂行するためには、戦闘機用燃料(高オクタン価揮発油)の製造は陸海軍にとって解決必須の課題になった。昭和15年7月に発足した陸軍燃料廠。航空揮発油製造のための第一製造所(製油所)を山口県麻里布町(現・岩国市和気町)、貯蔵所を広島県横島村(福山市内海町)に定め、用地買収を行う。貯蔵所の建設は昭和16
これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地図を掲載します。今回紹介するのは「大嶺炭田(海軍煉炭製造所採炭部)」ですので、山口県全域の地図で場所を確認します。では簡単に概略を書いていきます。大嶺炭田は、現在の美祢市西部の大嶺町から豊田前町に至る東西10㎞、南北12㎞に及ぶ広大な炭田で、明治10年(1877年)ごろに発見されたと言われています。(諸説あり)大嶺炭田で採掘される石炭は燃焼時に煙や臭いがほとんど出ない炭化が
龍ノ崎(たつのざき)高角砲台は、対馬警備隊に編成された2つの高角砲台のうちの1つで、対馬南東部の龍ノ崎を見下ろす標高313mの高地に設置されました。対馬全域図は【警備隊概略】にてご覧いただくとして、高角砲台周辺を拡大した地図を掲載します。左上にあるのが高角砲台ですが、右側には陸軍の対馬要塞龍ノ崎砲塔砲台が2基設置されています。そして高角砲台の置かれた313mピークから南側の宮ノ岳(標高325m)に向けての尾根上には、侵入防止杭と陸軍軍用地境界標石が並んでおり、宮ノ岳のピークに対馬要塞