ブログ記事1,237件
藤枝梅安の住居が近くにあった、という設定の神社にお参りする。徳川家光が雉子狩りの折、立ち寄った由緒正しき神社。世界中の人の幸せ願って。大切な人の病気の回復願って。WewillvisitashrinesetinthevicinityoftheresidenceofUmeyasuFujieda.TokugawaIemitsustoppedbythishistoricshrinewhenhewashuntingforpheasants.Wishin
家光は江戸幕府の礎を幕府機構の確立は将軍を頂点とする幕府組織の基盤を作ったとして評価されています。それまであいまいだった職務や職権を規定したことで幕府内の職制を整備しました。また、参勤交代の制度化など大名支配の強化を行なったことでまだ不安定だった幕府による全国支配を盤石なものにして約260年続く江戸幕府の基礎を築いたのです。鎖国政策とキリスト教禁止政策は日本が植民地化されることへの予防や独自の文化の確立という点では貢献したと言えるかもしれません。しかし
家光は鎖国政策とキリスト教の禁止徳川家光は鎖国政策を強化しましたが鎖国政策とキリスト教の禁止には深い関係がありました。鎖国した理由は2つと言われています。ひとつは、スペインやポルトガルが領土的野心をもっていたこと。この当時スペインやポルトガルは世界各地に植民地を持っていました。貿易を足掛かりに植民地にされてはいけないと考えたからです。もうひとつがキリスト教の禁止です。キリスト教は神の前では平等という考えなので主従関係を基盤として身分的階層制がある幕府の封
家光は幕府機構を制度化徳川家光は江戸幕府による全国支配を盤石なものとするため大名支配の強化を行ないました。大名支配の強化は徳川家康・徳川秀忠のときから行なっていましたが徳川家光はそれをさらに強化・発展させたのです。まず肥後の「加藤忠広」を改易。加藤家は、加藤忠広の父「加藤清正」がカリスマ的な存在感で藩内をまとめていましたがその弊害として藩内の政治機構が不整備のままでした。そのため加藤清正が亡くなると藩内がまとまらなくなり2回も幕府の裁定を受けることになるのです。
まるで美術館の日光大猷院1(仁王門から二天門編)の続きです。二天門を抜けて階段を上ると夜叉門が現れます。左端がドドンの鼓楼、右端がゴーンの鐘楼(*1)。夜叉門の上から鐘楼と鼓楼を撮り直し。大法要で鳴らされる巨大な釣鐘と太鼓が納められてます。それにしてもデカすぎ。夜叉門では四体の夜叉(鬼神)が東西南北を固め、徳川家光の霊廟を守護します。左側は南の方角を守護する毘陀羅(びだら)。右側は北を守護する阿跋摩羅(あばつまら)。天井も凝った装飾です。
家光は幕府機構の確立1623年(元和9年)徳川家光は父・徳川秀忠にしたがって上洛し征夷大将軍の辞令を受け、3代将軍に就任しました。しかし将軍になったあとも実権は父・徳川秀忠が持ち続け江戸城本丸の徳川家光側の年寄と西の丸の徳川秀忠側の年寄による合議政治体制が採られていました。祖父・徳川家康と父・徳川秀忠の関係がそうであったように将軍である徳川家光よりも隠居して大御所である秀忠の方が影響力や発言力などすべての点で上でした。そのため徳川秀忠が死去するまでは徳川家光
ご縁を頂いている方より、川越市小仙波町にある喜多院(きたいん)のお写真をお送り頂きました。こちらには、三代将軍徳川家光公さまの「誕生の間」、乳母である春日局さまの「化粧の間」が、江戸城から移築されていて、拝観することが出来ます。日枝神社、仙波東照宮も鎮座しています。※素敵な御写真をお送りくださり有難うございました。心より感謝申し上げます。※お知らせ12/1~2/3までの期間、通常の鑑定料金を3分の2の金額にさせて頂いております。(HPの修正が間に合っておりません。ご容赦くださいませ
徳川家光は、1604年(慶長9年)2代将軍「徳川秀忠」の次男として江戸城・西の丸で誕生しました。母は「浅井長政」の娘「江」(ごう)さんです。徳川秀忠には、長男「長丸」がいましたがすでに早世し徳川家光は最初から嫡男として育てられました。徳川家光の幼名は「竹千代」です。生まれてすぐに両親ではなく乳母「福」(春日局)によって育てられました。徳川家光は両親からの愛情を感じることがなく両親と距離を取るようになり話をするときも遠慮しながら話すようになりました。家
1605年(慶長10年)には徳川家康から将軍職を譲られる形で江戸幕府2代将軍となり朝廷からも征夷大将軍に任命されました。ここから、徳川秀忠の将軍生活がスタートします。こうした二頭体制による政権運営は「大坂冬の陣・夏の陣」が開戦する1614年(慶長19年)まで続くことになります。1614年(慶長19年)「大坂冬の陣」1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」に勝利したことで豊臣家は滅亡し政権の運営に集中できるようになるのです。。1616年(元和2年)一代で江戸幕府を成立
東京都新宿区にある「高田馬場」はJR山手線の駅名や手塚治虫の仕事場があった場所、また代表作である「鉄腕アトム」の「アトム生誕の地」としても知られている。馬場のあった場所もともと広い芝野であったが、1636年(寛永13年)、三代将軍徳川家光の命でこの地に馬場(馬術の訓練場)が築かれた。「高田」の由来はこの辺りが高台にあったという説や、徳川家康の側室であり、六男松平忠輝の生母である高田の君(茶阿局ちゃあのつぼね)が、この辺りを遊覧したことに由来するという説がある。JR山手線の発車ベル
逢いたかったこんにちは私はこんな人です💗私もあなたも💗み~んな幸せ💗ちこフィール「ありがとう」ご縁を繋ぎましょう泰叡山護國院瀧泉寺目黒不動尊は通称です。境内は日本最古の縄文時代の土板(どばん儀礼や祈りなど神聖な場で使われたと考えられている)が発掘されている古くからの霊域なんですって。天台座主第三祖慈覚大師圓仁が開いた関東最古の不動霊場だそうです。しかも、目黒という地名が、瀧泉寺の通称「目黒不動尊」に由来する説があるとか寺の通称は不動尊像の目が黒かったこ
当記事はこちらの記事の複製です。グーグル検索にヒットしないため再掲します。☆日光二荒山神社(拝殿編、神苑編、紅葉編)を後にして、すぐ近くの大猷院(たいゆういん)にやって来ました(*1)。大猷院は、日光山輪王寺の境内の仏教寺院。一番奥には徳川家光の廟所(墓所)があり、そこに至るまでは家光をまつる絢爛豪華な建物や装飾が次々と現れます。受付の先に仁王門が見えてきました。「ごらぁ、この不信心者め。よくもぬけぬけと来れたものだ」「ははぁ、申し訳ありません」口を開け
日光二荒山神社(拝殿編、神苑編、紅葉編)を後にして、すぐ近くの大猷院(たいゆういん)にやって来ました(*1)。大猷院は、日光山輪王寺の境内の仏教寺院。一番奥には徳川家光の廟所(墓所)があり、そこに至るまでは家光をまつる絢爛豪華な建物や装飾が次々と現れます。受付の先に仁王門が見えてきました。「ごらぁ、この不信心者め。よくもぬけぬけと来れたものだ」「ははぁ、申し訳ありません」口を開けているのが阿形の那羅延金剛(ならえんこんごう)。口を閉じているいるのが、吽形の
江戸城:東京都千代田区江戸幕府が存続した約260年の間徳川家の居城として威厳を示したのが江戸城です。1457年(長録元年)築城名人と呼ばれた武将「太田道灌」により築城されました。1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に本拠を移した際、江戸城は入り口に数枚の板が並べられているだけのみすぼらしい城に成り果てていたのです。徳川家康が天下平定をしたのち時の権力者にふさわしい城に改修するため1590年(天正18年)年に徳川家康が入府し、居城としました。本格的な工事が
1567年毛利元就の三男、小早川隆景が大島と小島を繋ぎ埋め立てた城です。城の中には本丸、二の丸、三の丸や32の櫓と14の城門がある大きな城でした。天主台には広島城の天守閣が6つも入る大きさでした。満潮時に城が海に浮かぶように見えたことから「浮城」とも呼ばれています。小早川隆景は1550年に高山城に入城し、その後1552年新高山城を本城としています。1555年の厳島の戦いでは水軍を率いて毛利勢の勝利に貢献し、その後三原湾に浮かぶ小島や中州を繋いで砦を築いて水軍の拠点とし三原城の原型となりました。
大善寺三原市承応元年(1652)徳川幕府三代将軍徳川家光の落胤とされる月姫が三原浅野家三代浅野忠真の側室となったことにより、本寺は月姫の祈願所となった。この事で徳川幕府から5,000石の御化粧料を下賜され、将軍家菩提寺である増上寺の寺号を賜り増上山大善寺とされ、三つ葉葵の家紋の使用が許された。徳川家光の落胤とされる月姫が、将軍家との血縁はあるとはいえ外様大名の浅野家のそのまた家老職であった浅野忠真の側室となったのは異例中の異例であった。浅野忠真には既に正室がいたが子供はお
伏見城:京都府京都市伏見区伏見城は1603年(慶長8年)徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けた城として知られています。その後も、徳川秀忠や徳川家光の将軍宣下式も伏見城で執り行いました。また1605年(慶長10年)には、朝鮮使節と伏見城で会見。文禄の役・慶長の役で関係が悪化していた朝鮮との和議を成立するなど伏見城では、様々な行事が続けられました。伏見城は1592年(文禄元年)に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月に築城したのがはじまりです。しかし159
富士見櫓跡から、再び住宅街を歩くこの辺りは、既に旧川越城は城内、天神曲輪になります公園に参道らしきものが先に朱色の社殿だろうか脇の看板に、三芳野神社とある石畳の歩を進めると石鳥居がそして、手水舎の木立に佇む、境内社の蛭子神社と稲荷神社対する広場に、境内社の大国主神社三芳野神社は、川越市郭町にある神社川越城築城以前の大同年間に大宮氷川神社を勧請して創建その後北野天神社を勧請したとも伝えられ・・・太田道真・道灌父子が河越城築城の際に、当社
う、産まれる。もう、すぐに。中世肥前の雄『有馬』の地、現南島原市に。『馬が有る・有馬』の名と誇りを復活する者が。み、見える。その者、龍の力を借りて、火の鳥のように、地球一の麺を作る男なり。誕生は、もう、|諫早神う、産まれる。もう、すぐに。中世肥前の雄『有馬』の地、現南島原市に。『馬が有る・有馬』の名と誇りを復活する者が。み、見える。その者、龍の力を借りて、火の鳥のように、地球一の麺を作る男なり。誕生は、もう、目の前じゃ。あの戦で今もさまよう者共よ。もう、安ぜよ。|諫早神note.comおい
「どうする家康」とうとう最終回を迎えましたね。正直に言うと途中見るのを辞めようかと思う程つまらない回もありましたが、何となく最後まで見てしまいました。ただ、今回の「どうする家康」は最新の学説、知見を取り入れている点は感心しましたね。それから、最終回で竹千代(後の家光)が家康を描いたという兎の絵が出てきて(39分過ぎ位)家光タッチの絵が再現されていて笑っちゃいました。これ、あんまり話題になっていないですよね。黒く塗りつぶされた目が家光タッチの絵の特徴をよく表しています。
いやはや【どうする家康】最終回ですね。そういえば「日光東照宮編」も陽明門の手前まで綴ってから先に進んでいなくて申し訳ない。必ずや家康墓所まで完遂するのでしばらくお待ちを・・・てなわけで、【どうする家康】、松本潤より直々のオファーにより小栗旬が南光坊天海を演じます。天海と言えば、歴史好きの方であればもうお分かりですよね。天台宗の僧ですよ。卓越した知識と教養を持ち、家康の参謀となり、遺言を託された一人なのです。天海僧正慈眼大師と号する。陸奥国(福島県)、会津高田(会津美里町)に生
最終回は思い出の鯉先ほど見ました、「どうする家康」の第48回(最終回)「神の君へ」。1615年(慶長20年(元和元年))~1616年(元和2年)、家康は満72~73歳になる年のお話です。ここからはネタバレになりますので、まだ見ていない方はご注意ください。番組紹介|大河ドラマ「どうする家康」-NHKなお、私は歴史ドラマは「ドラマとして面白ければいい」と考えています。歴史にあまり興味がない人が興味を持つきっかけになることが一つの重要な効果だと思います。なので、通説や異説と
OTOHereComesTheSun(Remastered2009)ProvidedtoYouTubebyUniversalMusicGroupHereComesTheSun(Remastered2009)·TheBeatlesAbbeyRoad℗2009CalderstoneProductionsLimited(adivisionof...youtu.beトレンドランキング22:42時点1錣山親方6,709件のポスト2新ビジュ
天台宗寺院の喜多院は、星野山無量寿寺と号し喜多院は、天長7年(830年)円仁(慈覚大師)が淳和天皇の命により無量寿寺と称して創建されましたその後、平将門の乱や比企の乱により無量寿寺は衰退永仁4年(1296年)尊海が慈恵大師を勧請して寺を再興北院・中院・南院となる各房が建てられ、「星野山」の勅額も賜るしかし戦国時代の後北条氏と扇谷上杉氏との間の河越夜戦をはじめとする約10年に及ぶ合戦において1537年(天文6年)に炎上し、寺は衰退天海(慈眼大師)が天正16年(1588
久能山東照宮は48年ぶり日本平ロープウェイに乗って久能山に向かいます。久能山東照宮は48年ぶりです。楼門から中にはいります。鼓楼です。さらに階段をのぼって拝殿に向かいます。以前来た時は海側から1159段の階段を上がりました。今回はロープウェイを利用したので老人向けのコースだといえます。(撮影:2023.10.17)
今日はなんの日(^o^)/~~気になる日がありました(*^^)v1645年の今日!江戸時代前期の禅僧、沢庵宗彰が亡くなった日なんだそうです。誰???(笑)江戸ー品川の東海道を開き・・・俳諧や詩歌などでも知られる沢庵和尚!!後世に名を残したのは!!たくあん漬けの発案者とされる事です(`ー´)ノこの沢庵和尚が創建した東海寺を徳川家光が訪れたそうです。家光に漬物を出したところ、家光が大層気に入り、まだ名前がなかったために・・・沢庵和尚の名前から!!沢庵と名づけたらしい・・・その他にも所説ありますが・
子育てと教育の寄り添いびと佐藤みふゆ(グランマみーこ)です。ご訪問ありがとうございます。母親に虐待されて自分の人生を生きられなかったのでアラフィフから自分の人生を取り戻してきました。負の世代間連鎖を断ち切り、我が子二人は伸びやかに成長して巣立ち、孫にも恵まれました。「人生100年時代の大学。遅すぎる学びはない。」62歳にして早稲田大学LRC(LifeRedesignCollege)に入学。学び直しと人生の棚卸しをして残りの人生を「子育てと教育の支援」に
皇居東御苑へ行ってきました。70%くらいは外国人。スマホでガイタンスを聞くことが出来ます。大手門から入りましたが、番所が三重にもあり厳重に警備する構造です。入ると坂があり重い甲冑を纏った敵を苦しめるように設計されています。今、江戸城には天守閣がありません。1657年の明暦の大火で焼失しています。1658年に天守台は作られましたが、徳川家光の異母兄弟である、保科正之により天守閣に造る資金を江戸町人のために使えとの命令により建築されませんでした。保科正之は初代会津藩主で、徳川家光の弟で
識子さんのブログを拝読して、不動明王様ラブな私は、こちらの不動明王様にお会いしたくなって行って来ました🚃以前、成田山川越別院に連れて来て頂いた事はあるのですが、その時は、こちらは来なかったのです。(こんなに近くとは。。)川越別院も凄く良かった!川越駅に着いて、巡回バスとやらがあるみたいなので、乗ろうと思ったら、一時間に一本🚌💦タイミングが悪かったので、テクテク徒歩🚶で。。(方向音痴なのに大丈夫かな?)心配したのですが、キョロキョロしながら、15分程で、無事に到着👏とても良いお天気で
徳川家の菩提寺、大樹寺徳川家・松平家の菩提寺、大樹寺にやってきました。この山門は、1641年に徳川家光が建立したものです。中に入ると、すぐ右に鐘楼が見えます。正面の本堂に向かいます。1475年に松平親忠が創建しました。その後、火災で焼失したため、1857年に徳川家定が再建したものです。多宝塔は1535年、松平清康が建立しました。本堂の中を拝観しました。徳川家康の座右の銘とされる「厭離穢土、欣求浄土」の8文字がいろいろなところで見られました。その後、大樹寺をあとにし