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天海(190)「数千之頭実験有而諸卒人馬被休息佐和山へ御人数よせられ内府公其夜山中大谷刑部少居陣之小屋に御陣を居させられ井伊兵部大輔御先手今州に陣とらせ御馬廻前後左右段々に御陣取候也佐和山には石田隠岐守宇田下野守石田木工頭息右近盾籠難抱見及上﨟子共呼双是にて腹を可伐也。」(「内府公軍記」)9月16日、家康は近江に入ると、秀秋・直政・田中吉政に佐和山城を攻めるように命じた。佐和山城は三成の父・正継、兄・正澄らが2千800人で守っていた。城兵は鉄
天海(188)松尾山の小早川隊は困惑していた。鬨の声が上がり、鉄砲の音は鳴り響いていたが、福島隊の位置が当初の打ち合わせと違っていたのである。山麓は霧が深く、これでは敵味方の区別が全くつかない。すると家康本陣から奥平貞治が訪れ、参陣を強く促したのであった。やがて山麓も霧が晴れ、青空が見えた。小早川隊は満を持して松尾山を下りたのである。今か今かと、待ち構えていた脇坂隊らも、一斉に大谷隊に向かって、突撃したのであった。「脇坂もようやく動いたか。心配させやがる。これであい
天海(187)「内府公者赤坂不暁に立せられ野加みと関か原之間に御旗本之御人数被備御馬廻魚鱗鶴翼之陣取其朝霧深く降て雨もそぼ降物之色目も見えわかず漸巳刻計に空も晴けに見え渡る時に沢井左衛門尉、祖父江法斎、森勘解由、奥平藤兵衛物見に罷出御敵も出合寄相かしらに相戦心はせ之高名有。」(「内府公軍記」太田和泉守著)太田和泉守とは「信長公記」の著者太田牛一のことである。牛一によると、霧が晴れて沢井、祖父江、森、奥平の4人が物見に出たところ、敵と遭遇し出合い頭に戦闘になった、と書
天海(186)家康は桃配山の中腹に布陣した。周囲は雲海に包まれ、山々の頂が見えるばかりである。霧雨の中、天海は頭巾をかぶり具足をつけ、家康の陣幕にいた。僧侶でありながらも、戦場となればどうしても血が騒ぐ。それでも、天海は余所者であるから、なるべく出しゃばらないよう気を遣うのである。ところが家康はお構いなしであった。話し相手に丁度良いのであろう。周囲も高齢な天海に敬意を払ってくれたようだ。家康本軍は、派手さはないが、実務的で堅実な布陣であった。また、これから徳川家
さて、『【信長の野望20XX噺】第9回総選挙・祝賀の宴(1)』さて、総選挙なんだが……これは……。まあ良いか。とりあえず見ていこう。大量なので、数回に分割。先ずは星5覇道者織田信長さん吟味済み『【信長の野望20XX噺】覇…ameblo.jp『【信長の野望20XX噺】第9回総選挙・祝賀の宴(2)』さて、昨日『【信長の野望20XX噺】第9回総選挙・祝賀の宴(1)』さて、総選挙なんだが……これは……。まあ良いか。とりあえず見ていこう。大量なので、数回に分割…ameblo.jp『【信長の野望20X
天海(185)「敵は今日に至り、赤坂何之行もこれなく、延々と居陣、ものを待つ様にしかとこれある軆に候。不審なりと各申候事。」(「増田長盛宛石田三成書状」9月12日)どうやら三成たちは家康の西上を知らなかったようである。赤坂在陣の諸将が一向に攻めようとせず、何かを待っているかのようで不審である、と書いている。家康が3万の兵を引き連れて、赤坂に現れた時の驚きは、如何ほどであったことだろう。家康は大垣城を捨て置き、このまま上洛するのではないかという疑念が西軍にはあった
天海(184)下図は有名な関ケ原の布陣図である。これを見ると東軍が魚鱗の陣(縦隊)、西軍が鶴翼の陣(横隊)であることが良く分かる。戦形を見ると高台に陣を布いた西軍が有利というのも理解できるのだ。しかし、実際の戦闘では、右翼の小早川隊は、既に東軍に内応していることが露見していて、三成らは、敵であると認識していた。そうすると戦いの経緯は自ずと異なるものになる。さて、大垣城にいた西軍は約3万人、南宮山に2万5千人といわれている。これに対して赤坂に布陣している東軍は7万
天海(183)高次自身も槍傷を受け、城内にも厭戦気分が漂っていた。それでも高次は徹底抗戦をやめなかったのである。総大将の毛利元康は高野山の高僧・木食応其上人を派遣し、降伏を勧めたが、高次は応じない。しかし、どうしても高次を救いたい立花宗茂が矢文を放った。高次は宗茂の厚情に触れ、ようやく心を開いたのであった。9月14日、高次は北政所の使者・孝蔵主を招き入れ、ついに降伏した。振り返ると、美しかった大津城は見る影もなかった。多くの家臣が死んだのだ。高次は園城寺に入ると剃髪し、
天海(181)9月10日、家康が尾張に入ったと聞いて、利景は光親と共に清州城を訪れた。(「小里家譜」)清州城には既に忠勝や直政ら重臣も出迎えに来ていたのである。利景らは清洲に到着したばかりの家康と面談し、居並ぶ重臣の前で東美濃諸城の奪還を報告した。「このように東美濃の大半を制し、我らは今、岩村城・神篦城を包囲しております。」というと、家康は満足そうに頷き、「岩村城は天下に隠れなき名城ゆえ、あまり無理をするな。東濃の諸将には旧本領を安堵するつもりなので、皆に励むように伝
岡山県の観光スポットのお話🏯岡山市の観光スポット、国の特別名勝、岡山後楽園。🔶後楽園のお話🌳『後楽園』岡山県の観光スポットのお話岡山県岡山市北区にある岡山後楽園へ行ってきました岡山へは何度も訪れたことがあるのですが、岡山城🏯と後楽園にはなかなか行くことが出来て…ameblo.jp日本三名園の1つ、後楽園を散策。後楽園の向こう側にお城🏯が見えます岡山城🏯です。後楽園と岡山城🏯は旭川を挟んで隣どうしにあります。岡山城🏯があるのは鳥城公園⛲せっかくなので岡山城🏯の方にも行ってみまし
戦)徳川家康:天下泰平の志戦)石田三成:至忠随一の奉覇)井伊直虎:紅粉の領主武)甲斐姫:東国無双の麗武)上杉謙信:越後の龍武)武田勝頼:虎臥擡頭覇)足利義輝:雪の恋人戦)小早川秀秋:聖夜の提灯武)北条氏康:巍然たる克薬)宇佐美定満:越後流監督術©コーエーテクモゲームス
今年のGWはエスパルスのアウェイ@岡山戦観戦の前日に岡山周辺観光、試合翌日に滋賀県で陶芸体験と近江牛グルメを堪能しました旅行の思い出を噛みしめながら自身の足取りを振り返る記事を備忘録を兼ねてシリーズ化してアップしますので宜しくお願いします片道約500㎞、車で6時間強、岡山遠かった【GWシリーズ】ワケあって和気町藤公園に岡山後楽園と岡山城を見学←NEW!!!初めて瀬戸大橋を渡ったよ倉敷駅近の美観地区を散策たぬき村で陶芸教室に参加近江牛をお洒落に堪能した和気町
2024,5,4(土祝)昨夜はぐっすり眠れました赤岳鉱泉の朝食は焼魚ほかほかのご飯が美味い並々のおかわりしました食事を終えて下山開始計画した時間どうりに下山しビーナスライトのスズラン峠へ移動駐車場は満杯路肩も車でいっぱいでも、ここで降りるのは2人残る3人は北八ヶ岳ロープウェイへ登山口の道は平坦なんですが岩がゴロゴロした急登に変わりますおっちら、おっちら後続に抜かれながら2時間登りつめるとやっと終わりが見えてきたこれを登り終えるとガレ場のトラバース右側が切れ落ち
天海(166)「慶長五年七月十九日、徳川秀忠、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、下野宇都宮ニ陣ス。徳川家康、増田長盛ノ変報ニ接シ、之ヲ先発ノ諸将ニ告ゲシム。是ヨリ先、徳川家康、石田三成挙兵ニ備へ、越前府中ニ帰国セシム。」(「史料綜覧」)伏見城への総攻撃が始まったころ、先発の秀忠は宇都宮に進出し、家康はまだ江戸にいた。そこに続々と大坂異変の報が入ってきたのである。「慶長五年七月廿一日、徳川家康、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、武蔵鳩谷ニ泊ス。徳川家康、武蔵岩槻ニ泊ス、是ヨ
天海(165)近江から久尻村の庄兵衛の屋敷に着くと重大な知らせが入っていた。「勘右衛門殿、良く戻られた。これをご覧あれ。」と差し出された書状を見ると、「庄兵衛さま」と書かれた女文字の文であった。「これは、お福殿か。」と慌てて書状を読むと、驚くべきことに「小早川家は徳川方に内応することに決した。」というのである。「お福殿が申すには家老の稲葉、平岡の両名が秀秋公を説得したとのことで、近々内府様に密書が届くというのだ。この事いち早く内府様にお伝え願いたい。我らの大きな
2016年4月28日(8年前)☆☆☆☆Internet時代は、驚かせられることが起きますね!!☆☆☆☆皆さん、おはようございます。今朝の上田は、予報通り雨が降っています。また、昨日のBlogアクセス解析で分かったのですが、2014年10月にアップしたこのページに1100人以上のアクセス者があり、Totalで2500ほどのアクセスがありました。通常、水曜日が一番アクセスが少ないはずですが、これもNHK大河ドラマ「真田丸」効果、影響ですかね!!また、この機会に、下記の湯浅五助に付いてのスト
4/20(土)に、大阪の城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。「竹中氏陣屋櫓門」からは、「関ヶ原古戦場」内を突っ走り、車で約20分位で「戦国ロード」沿いの「松尾山城登城口」に着きました。「松尾山城」の歴史と城主については、「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということは良く知られていますが、陣城として活用される前の城主は、「主郭」に詳細が記載された案内板に記載がありました。そ
<速報>昨日(4/20)、城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。どちらのお城も以前から登城したい山城で、「菩提山城」は昨年に「竹中氏陣屋」に行った際に、後方に見えた菩提山頂にあるお城は「羽柴秀吉」の軍師であった「竹中重治(半兵衛)」が居住していたお城とのこと、「松尾山城」は「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということで、いずれも興味津々の山城でした。「米原」でカーシェアによる車で
倉敷ふつかめの朝朝は6時半くらいに目覚めたけどあたしはベッドでだらだら前日撮ったスマホの写真を整理したりSNSのチェックとか結局9時過ぎまでゴロゴロしちゃいましたちなみにSちゃんはその間にコーヒーを淹れて朝食のパンを2個食べて大浴場へ♨前日遅くまで飲んだり食べたりした日はあたしは朝は食べれないのでホテルの朝食はつけずにSちゃんにはパンを買っておいてもらったよ10時半くらいにはホテルを出発しよう〜と決めていたのでやっと9時半にベッドを出たあたしSちゃんが淹れてくれた
高松から岡山市中心部へ戻ってきました。岡山城の住所が岡山県岡山市北区丸の内。備中高松城の住所が岡山県岡山市北区高松。実は二城とも岡山市北区なんですよ。前回はJR移動してまして岡山から高松まで5駅で、確かに20分ほどで到着した記憶。距離にして約15kmだそうです。こんなに近いんだけど令制国時代の岡山城は備前国、高松城は備中国。二城とこ国境に近い位置だったのが非常に興味深い。さて…ホテルへ戻りまして少し早いけど今日はもう部屋で駄目人間なろうかと思ったが…まだ日も落ち
天海(137)大坂の稲葉邸はなかなか立派な屋敷であった。小早川家付け家老の正成は、見るからに野心家であり、油断のならないギラギラとした目をしていたのである。庄兵衛は久方ぶりにあったお福の変貌ぶりに驚きを隠せなかった。庄兵衛が庇護していた子供たちの中でも、お福と与平次は、幼いころから気にかかる存在であったのだ。お福は子供の頃から顔立ちがはっきりしていて、稲葉家では武道を、三条西家では有職故実や礼儀作法を学んでいた利発な子であった。謀叛人の子として生まれ、親がいなく
天海(136)「京都大坂は今きな臭いので、できれば行きたくないのだが、内府様のご命令となれば致し方あるまい。」と庄兵衛は小声で言う。為信は大きく頷き、「私もそのお福という方に是非ともお目に掛りたいです。」と言った。為信は背が高く痩せ気味で、相貌は若い頃の庄兵衛によく似ていた。実はこの為信の娘こそが、後世、大奥を差配した三沢局である。二人が伏見の遠山邸に入ると、利景と天海が出迎えてくれた。「呼び出して済まなかった。伏見もようやく小康を保ったところなので一安心だ
残念な武将日本の歴史についての本やTVを見るのが好きです。私が注目するのは女の武将とあまり注目されない武将なのです歴史上、色々な戦いで活躍した武将が沢山います。歴史は勝者の都合の良いように物語が描かれます。そのため勝者はまるで正義のように描かれ、敗者は悪者、裏切り者のように描かれています。勝者、敗者であっても、忘れ去られてしまう武将がいるのです。勝者、敗者、忘れ武将さられたと分ける事ができると思います。敗者でも子孫がいれば敗者復活ができ、語り継がれていくのです。また時代と共
平均視聴率21.2%を記録!妻夫木聡主演作!直江兼続の愛と誇りと勇気の生涯を描いた「大河ドラマ天地人」を全国無料放送‼|BS松竹東急4月4日(木)スタート毎週木曜夜6時15分~2話連続放送時代劇コラムニストペリー荻野が語る「天地人」の見どころ『戦国乱世に”愛”。大いにアリです!』BS松竹東...t.co小早川さんを演じた雄ちゃん歴史を大きく動かしてほどなくして若くして世を去った武将小
かつての竹中氏の城、菩提山城跡を後にし、垂井駅への道中に寄り道です。カフェ・フランドルさんコーヒーもチーズケーキも美味しかったです。しかし、高速バスで早朝の岐阜駅に着き、そのまま電車に乗り、垂井駅から菩提山城跡へ行って来た私めは、お昼ご飯をちゃんと食べたい‼️フランドルさんには食べるものがチーズケーキしかないので、すぐに出立。垂井の泉を目指してGoogleマップのサポートを受け、垂井城跡へ到着。この石碑以外は全く何もありません。城跡としては見所なし!しかし、平塚為広と大谷吉継の
天海(124)「ところで、私は与右衛門と天海、勘右衛門に近江衆の懐柔を頼みたいのだ。近江は三成の根拠地で地理的にも重要である。ここを三成に抑え込まれると東国との連絡が断たれ、秀忠上洛の妨げにもなる。」と家康は言うのである。近江は秀吉の知行地だったこともあり、蔵入地(23万石)が多かった。大名としては北近江佐和山に石田三成(19万4千石)、南近江大津城に京極高次(6万石)、甲賀郡水口に長束正家(5万石)、坂田郡等に新庄直忠(1万5千石)、朽木谷には朽木元綱(9千石)等がい
例の脚に真剣ブッ刺し事件だがとある記事を見て…初めに加害者の教員を擁護するつもりは全く無いと言っておく。この事件に対してコメンテーターらしき男が「居合道家は何故か知らないけど真剣を使いたがる」と発言。なんでわざわざ危険な日本刀を使うの?なんで居合刀を使わないの?という事。剣術家にとっての日本刀は職人の道具と同義。職人は自分の使う道具に強いこだわりを持つ。同様に剣術家は自分が扱う日本刀に強いこだわり持つ。もっと分かり易く言えば野球選手が自分好みのバットをオーダーする。これと同じこ
大阪からの帰路で、岡山に立ち寄りました。津山城。入園料310円です。無料駐車場あります。あと10日もすれば桜の名所でもある津山城を見ることができたのですが・・・城郭も、石高から考えると相当な大きさで、天守閣もかなり大きかったのが想像できます。森忠政(槍の名手、森可成の子供で、叔父は信長とともに殉死した森蘭丸)が建設に着手。忠政は、江戸城や駿府城の普請でと当時の城作りのノウハウを吸収したと言われ、この名城が1616年に完成したと言われています。建造物も本丸に31・二の丸12・三の丸17もあっ
バレンタイン時期購入の自分チョコまだまだ楽しんでおります。これはまぁいつでもカルディにあるけど💦な、オレンジピールダークチョコレート🍊思った通りの美味しさで🧡やっぱりダークチョコとピールの取り合わせ好きだわぁ。先週関ヶ原の古戦場記念館に行った時の息子へのお土産👇旦那さんがサイダー、私がスナック菓子と夫婦して小早川秀秋の「うらぎり」商品を選んで大笑い今の息子の年齢で、あの戦場にいたかと思うと、秀秋、そりゃ迷うわよねぇーー今まではなんだかへっぴり腰のどっちつかずだと