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父が帰ったあと、妻と子どもたちはテレビを見て過し、九時過ぎに就寝した。夕食もそれぞれ食べられるものを食べた。妻も雑炊などを食べていた。妻は、今日痛み止めを使っていないが、体調が良いようで台所の洗い物等をこなした。長女は熱が引いてきたが、長男は40℃になったので、解熱剤を入れる。この2人の症状は風邪なのだろうか。妻のガンがわかってから、心配性になっている。わからないけど、私と妻の悲観する様子を見て、体調を崩したとか…明日は日曜で医者があいていないが、明後日まで熱が続けば別の医者に連
病院で来週の入院について話した後、長男を連れて帰宅する。私が夕食を作る。炊き込みご飯、けんちん汁、餃子、大根サラダ久しぶりに豊富なメニューになった。妻もよく食べた。長女は風邪を引いたようで、アイスと梨を食べた。私も自分の分を食べた。食後は、大学の先輩、妻の職場の人から励ましを受けた。たくさん泣く妻とても嬉しそうだった。先輩は、地元の神社に護摩木を出してくれた。先輩のお爺さんが病気で危なかった時、ここにお参りして治ったそうだ。嬉しかった。午後9時頃に子どもたちを寝かせて
昨日妻のスマホを解約した。辛い手続き…何だか変な個人確認のアナウンス電話も留守電に入っているし…もしかしたら何か滞納してるのかなぁ❓️とにかく解約しました…でもWi-Fiで繋がっているからね。それと携帯ショップの役所みたいな柔軟性に欠ける対応はやめて欲しい。実は一昨日解約の手続きに行ったのだが,死亡確認の書類として「法定相続情報一覧」のコピーを持って行ったんだけどコピーじゃダメだと言われた。HP見て「法定相続情報一覧の写し」って明記されているんだけど。。さらに発行して半年以上経っ
今朝書いたブログのつづき。結局紹介された気管系の病院でも分からなかった。。今思えば、来年1月に予約している大学病院を生真面目に1月まで待ってないでさっさと行けば良かった。。それだけ私には妻の病気に対しまだ何とかなると思っていたのかも。。結局はALSと診断されれば、早いも遅いもないのだが。容態はさらに咳込が激しく、言葉も筆談となってしまった。今度は妻の勤めていた病院に、ほかの気管支系の大学病院を紹介してもらった。今までの経緯を説明した。先生曰く、気管をカメラで確認したし、おそらく気管
こんにちはご覧いただきありがとうございます今朝は5:00起床体調変わりないです今日は休日。次男いつもは聞かないのに「かーかーはきょうずーっとおうち?」と何かを察して聞いてきます心苦しいですが、「かーかーお仕事だよ」と小さなうそをごめんよ、次男お天気もよく3回転の洗濯にメルカリ出品、そうじに今から外回りの用事をお散歩がてらしてお昼からはゆっくりしたいなぁなんて思ってます次男いるとこうはいかないので木曜日は薬局はお休みでも家の用事でのお仕事し
退院してからは自宅療養で闘病生活が始まる。今年の1月中旬だと記憶している。その頃妻はまだ在職中で、1月で正社員を退職し2月は在宅でパート勤務、その後完全退職の予定である。少し前に妻の仕事に触れましたが、病院勤務で主に給与計算、労務管理を一人で切り盛りしていて、妻が働いていた病院もそんな簡単に後任が見つからないので、上記のように2月まで在宅でパート勤務となった。この段階の妻の容態は嚥下障害と、ほぼ喋れなく筆談以外は、日常の生活が出来ていたし、正直奇跡が起きて治るんじゃないか?それとも
今日は日曜日なので動物病院は休みです胸水のことが気になってスタッフにもヤムチャが息が苦しそうじゃないかと確認をしてもらう1日でした病院が休みだと1日が長く感じますもしも呼吸困難になったら夜中になったらと良くないことばかり考えてしまいヤムチャが頑張っているのに駄目なママですそんなヤムチャはというと私が手を出すとゴロゴロ言って甘えてくれました母親孝行のヤムチャくんです
妻が退院してすぐに妻からこのクリニックの再生医療を受診したいと言って来た(もちろん筆談だが)。調べたら都内某所。自宅から車で1時間ぐらいなのでそんなに遠くはない。妻からLINEで予約した。今更思うんだが、すでに妻は事前にこういった所を調べていたんだなと。。私はただ悲しんでいただけ。。難しい説明はできないが、再生医療とは元気な細胞を患者に戻してあげて、侵されている細胞を再生し進行を抑制する可能性があるとのこと。もちろん自由診療。もしかして効き目があれば妻も元気になれるかもって、少し気が
退院後初めての定期検診で大学病院へ行った。予約していても時間通りに受診されたことはない。早くても30分以上待たされる。1時間待ちが普通かな。。1月下旬のこの頃は、車いすも使っていなかったし普通にとは言わないが、ゆっくり私の腕を掴みながら、歩いて移動は出来た。長い時間待っている間、元気なことからやっていたLINEゲームのポコポコを暇つぶしにやっていた。ようやく呼ばれて診察室に。主治医のお決まりのトーク「いかがですか?」当然のことながら妻は右手を横に振る。いかがも何もない、調子は良くな
6月8日に大学病院へ妻の定期健診があった。交通手段は、自家用車だが車いすからの移乗が大変。。玄関からスロープを設置し車へ移乗。車のシートへ移すが、妻の身体はほとんど自由が利かないので、私の力でやっと移す感じだ。。なんとか車へ移乗は出来たが、自家用車ではこれが最後であった。次回からは介護タクシーを頼んだ。大学病院へ到着。相変わらず待合室は混みあっていた。車いすで長時間の待ちはキツイ。。妻がモゾモゾしだす。。体勢を整えてあげて、肩、首回りをマッサージしてあげたり、背中を掻いてあ
今年1月に退院した直後は、細かくしたおかずを何とか食べていたが、それから徐々に嚥下能力も落ちていき3月ぐらいからレトルトの介護食が主だった。私が出社しているときは必ずLINEで、これ食べたよと写真を添えて送ってくれた。今日はこんなに食べてくれたんだと安堵しながらLINEを見ていた記憶がある。時々むせこみながら、必死に食べていた。妻が言っていたことを思い出す、「食べるのも命がけ」って。何度か誤嚥して苦しんだことあったな。。私は背中をさすることしかできなかったな。。そんな時は、空腹でも食事を
どうしても頭から離れない思い…何度も何度も思えば消え、思えば消え…それは妻がいよいよ歩けなくなって、トイレ、シャワーの介助を毎晩私が行っていた頃,腰も限界になりこのままだと共倒れになりかねないと思い,不本意ながら妻を施設に預けることになった。妻も私の体調を気にかけ,左指でOKサインをしてくれた。妻だってずっと家に居たかったろうに申し訳なくて…預けた夜にはLINEで「早く迎えに来て」「何時帰れるの」「我慢してるよ」など…私は「ゴメンな」「金曜日には帰れる」としか返事のしようがなかった…施設
ヤムチャ闘病生活6日目なんか目力が出てきたような病院には嫌がらずキャリーにはいるのでママとしては心苦しくないです点滴が終わりいつものように夕方お食事タイムご機嫌さんで残っていたいなばの焼きささみを食べておりますさぁ!それじゃあカロリーが足りないからママちゃん特性ロイ&カロリー食べよー!2本食べたらイヤイヤと言わんばかりにケージの上の段に逃げるヤムチャ逃げる元
胃ろうのため入院し、退院までの間に胃ろうのレクチャーを受けることとなった。予定では10日入院しているのでその間3日間私はレクチャーを受け退院後訪問看護師が来て,今度は母親へレクチャーって感じです。初日は正直看護師に教えられるがままやった感じで,1回じゃ絶対覚えられないなって思った。で,看護師にマニュアルみたいなもの無いんですかと聞いたところ,無いんですよ~だって…2日目,今度は看護師に教えられながらじゃなく、先ず自分からやってみた。だけど予想通り途中で分からなくなってしまった…なので写
妻が入院中にLINEが来た。内容は看護師に怒られたって内容でした。おそらく妻がナースコールを頻繁に呼ぶからなのかなと思った。私は何気なく返信に「しょうがないよ」って返信をしてしまった。。たぶんその時の私の心境は、なんだかんだ医療従事者はALSの対応はまだまだ不十分で、他の患者もいるし、対応できないから何か言われたんだと思った。なので、「しょうがない」と安易に返信をしてしまった。。で、このことは退院して結び付いたのですが、妻のバックの中に病院に対してのアンケートが入っていて、書いてあ
3月も下旬に差し掛かり妻の歩行がだいぶ弱々しくなってきた。このころリハビリと称していた散歩も出来なくなり、外出は車椅子を使っていた。家ではなんとか壁伝いで移動は出来ていた。そんな状態だが頑張って鍼治療は通っていた。当日は首から下半身からの鍼治療。診療室へ入った妻からしばらくして、うーんうーんと訴えてるような声が聞こえた。待合室で待っていた私に、助手の人が奥さんが呼んでますって言ってきた。治療を受けていた妻へ声をかけると、メモパッドに「心臓がバクバクするから止めたい」とパッドを差し出した。エ
胃ろうの手術も終わり、自宅へ戻り、在宅介護が始まりました。5月に入り妻の身体も大分動かなくなってきました。。ただし、何とかシャワー、トイレは自分で出来ていました。。部屋には介護ベット、福祉器具(手すり、トイレのひじ掛け、バスチェア等々…)を揃えました。胃ろうのやり方は、私は病院でレクチャーを受けていましたので、良いのですが同居の母親も当然覚えてほしいのですが、胃ろうの空気を入れるポンプが結構力が要ります。81歳の母親には結構キツイと思っています。しかも高齢なんで1回や2回じゃ覚えて
再生医療を終えた後,今度は中国鍼灸も受けた。都内某所にあり,ホームページにALSにも効果があると書いてあった。当然どこまで効くか分からないが藁をも掴む思いであった。ここも妻が探してきた。「たく、ここ調べて」私は直ぐに電話した。予約は思いのほか簡単に取れ3月中旬に受診。都内まで車で都心と言うこともあり駐車場料金がバカ高い最大料金が設定されてて2時間停めても3000円位取られる…仕方ないか…受診し先生から発症してから2年くらい?って言われたけど,まだ1年経ってませんて答えた。妻の現状は私の腕を
2024.1/18スプリセル(再)20mg119日目今日は病院着くなり、いつものように看護師さんが様子を聞きに来てくれて、相変わらずの1週間だったって話すと…「そっかぁ、つらいね…。実際経験しないと本当のつらさはきっと分からないよね…。教科書で習うようなことだけで、全部分かってあげられなくてごめんね…」そう言われて、泣きそうになった。半年前、ずっと目標にしてた職場復帰が現実から遠ざかってメンタル崩壊してた時に話を聞いてくれた看護師さんだった。「仕事はあれからどうなったの?」「自動
胃ろうの手術が終わり、高齢の母親にも初めのころは自宅で胃ろうをやってもらっていた。ただし、やはり母親ではポンプの押し込みが力がないので苦労をしていて、これは無理だなと思い、訪問看護師さんに平日の朝昼お願いすることにした。私は、仕事が終わってから毎晩の胃ろう、土日の三食をすべて私が行った。だんだんとボディーブローのように効いてきたのが、マッサージ。。手が腱鞘炎になって来た。。妻の身体がALSによって気持ち悪くなってきて、頻繁にマッサージを要求してくる。この前、当時の妻のLINEを見
前日はほとんど寝れなかった。。妻もそうだろう。。これからどうなっちゃうんだ。。不安しかない。。車を運転しながら、そんなことばかり考えながら、病院の駐車場へ。平静を装いながら、妻の待つ病室へ行った。なんて声をかけたかは覚えてない。荷物をまとめていたところ、担当の看護士がやってきて難病の手続き等、今後の対応を説明された。心の中では、難病の手続きってことはALS確定ってことかよ!と思いながら、ほとんど看護士の説明なんて聞いちゃいない。その資料読むから、さっさか出て行ってくれないかなと思いな
来る5月18・19日は、米村豊先生による2回目の手術から2年目にあたる定期精密検査である。1回目の手術後に余命1年と宣告されながら、なんとか2年半生き延びたことになる。5年生存率が20%といわれている病気ではあるが、今のところ死ぬ感じはしない。これも米村豊医師のおかげである。このブログで【2.奇病発覚⁉️】の記事を書いてからずいぶんと時間がたってしまったが、再発の可能性が高いというこの時期まで生き延びたのを一つの区切りに、余命1年と宣告された後の行動をここに記録し、同じ腹膜偽粘液腫に侵さ
皆様のブログを読まさせて頂いて,たまにパートナーの匂いがするとか気配を感じる様な不思議な出来事があったというブログを幾つか読んだことがある。私も実は妻が旅立って不思議な出来事を経験したことが度々あった。妻が健在だった頃は全くなかっただけに…いちばん初めは妻が亡くなって数日後,帰宅した時手洗いの所に置いてあるセンサー式の水石鹸が,勝手に動いたり…「あっ,妻が手を洗えって言ってるんだ」とか思ってしまった。亡くなって間もない頃,見もしないテレビをつけていてリビングのソファーで塞ぎ込んでいたら,勝手
2023年4月13日、横行結腸癌の診断が下りました肝臓転移、骨転移、肺転移(癌性リンパ管症)があり、ステージ4と手術ができない状態です抗がん剤だけが頼りです5年生存率は20%余命宣告はされてないけど、残された命はいかほどか…2年前には父(超ヘビースモーカー)を肺癌で亡くしています。父も診断が下りた時はステージ4で、半年で亡くなってしまいました。国がん東病院発抗がん剤・放射線治療をしている人のための食事[後藤功一]楽天市場1,870円その経験があったこともあり、診断
妻が歩けなくなり,介助が今まで以上,大変になってきた。介護ベッドから車椅子に移乗させ,周りの椅子やらをどかしてトイレに行く。その辺の導線確保が大変…毎日来る訪問看護師さんは何人か代わる代わる来るから,解りやすいように手順書を作った。当時,なるべく私が介助してたが毎日一人では無理。訪問看護師さんに共有してねって責任者の方に渡したけど,よく理解してくれないのか,自己流の方もいたり。そもそも身体がちっちゃい看護師さんは妻を移乗する力がなく妻の手とか足を壁にぶつけてアザが出来てしまったこともあった
考えたところでどうにもならないが,なぜ妻はALSになってしまったんだろう…私と一緒じゃなかったら,なっていなかったのか?妻の寿命,運命,天命は最初から54歳だったのか?闘病のときなんでもっとやってやれなかったのか…介護でイライラしてしまって妻に強く当たってしまった事を悔やむ…今,車の点検に来ているけど,隣にいつも居た妻は居ない…寂しい…昨日、妻の高校時代の親友がお線香をあげに来てくれた。色々闘病中の話やらを話した後、「ご主人に言ってましたよ,迷惑かけて申し訳ないと、感謝しているって」
直近での妻とのツーショット写真なんて、撮ってなかった。まさかこんなに早くお別れなんて夢にも思ってなかったんで。。家には葬儀に使った遺影を仏壇のところと部屋に置いてある。ツーショット写真を置きたいな。。探したら去年の3月に車を買い替えた時に旧車と新車の間でのツーショットを思い出した。これを少し加工して引き延ばした写真をプリントした。この写真、ALS発症する約3か月前。。普通に過ごしていたのに。。まさか1年半後に旅立ってしまうとは。。まさか1年半後にボッチ人生になってし
2回目の中国鍼灸。流行ってると思う。待合室一杯だし。ただ診療ベッドを出きるだけ多く入れるため、ベッドとベッドの空間がない…仕切りは一応あるけど…ギッチギチていう感じ。前回同様、頭と下半身だいたい1時間半くらいかけてやる。今日から電気を少し強めにして鍼治療。妻から聞いたんだけど結構電気強くすると痛いって。そう言えば泣いている子供もいたな…効いてる証拠か?治療が終わり、次回の予約を間3日ぐらい空けて取ろうとしたら、週3日は来ないと寝たきりになるよって言われた…正直多くて週2回ぐらいかと勝
2018年秋くらいから、所属していた店舗の閉店作業で精神的に負担が増える。それ以前にものすごいストレス職+不規則な勤務時間で体を壊しがちになる。4月から希望と真逆の家から遠い店舗に異動になり、また業務内容も全く違ったりこれまた希望と真逆の業務でストレスでまた体を壊す。5月ごろから食事をすると吐くようになり、また尋常じゃない胃の痛みが続いて病院に行くもストレス性の機能性ディスペプシアと診断されて胃薬だけを飲み続ける。(その前からずっとストレス性の胃炎があった)6月末、深夜眠れないほどの右の
歩けなくなって、妻の進行の速さと私の腰がほぼ、ぎっくり腰状態になった。なのでコルセットをあの頃はしていた…毎日会社から帰宅後、トイレとシャワーの介助は私の腰が限界を既に越えていたかも知れない。土日は訪問看護師さん来ないので1日中介助はキツかった…でも妻のために必死だった…訪問看護師さんに毎日シャワーをさせていると話したら、毎日はすごいと言われた。毎日させるでしょ…6月の蒸し暑い時期に…かわいそうだよ…この腰が動くまでそう思った…ただしバスチェアに座ってのシャワーだから満足じゃなかっ