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[豊橋海軍航空基地]②老津送信所豊橋海軍航空基地は、大崎町の遠浅の海にあった大津島・欠島・平島付近を埋め立て造成「八角形に成型した人工島=大崎島」に造られた。海軍かつ国内唯一の海上航空基地(飛行場)だった。着港:昭和14年(1939年)竣工:昭和18年(1943年)4月に完成設備:1,500m×100mの滑走路3本、1,000m×30mの滑走路1本、800m×30mの滑走路1本,計5本(全てコンクリート敷設)配備:第11航空艦隊豊橋海軍航空隊、陸上攻撃機60機(→翌年2月に航空
昨日紹介した防府北基地の南側に航空自衛隊防府南基地が置かれていますが、この基地の前身は防府海軍通信学校でした。戦後米軍が撮影した空中写真で見るとこのような配置となっています。(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスUSA-M122-23を加工して掲載)なお、施設の名称については「甲飛防通会名簿」を参考にしています。それでは簡単に説明していきます。=============================昭和5年(1930年)、無線通信術を教育する海軍通信学校が横須賀
龍ノ崎(たつのざき)高角砲台は、対馬警備隊に編成された2つの高角砲台のうちの1つで、対馬南東部の龍ノ崎を見下ろす標高313mの高地に設置されました。対馬全域図は【警備隊概略】にてご覧いただくとして、高角砲台周辺を拡大した地図を掲載します。左上にあるのが高角砲台ですが、右側には陸軍の対馬要塞龍ノ崎砲塔砲台が2基設置されています。そして高角砲台の置かれた313mピークから南側の宮ノ岳(標高325m)に向けての尾根上には、侵入防止杭と陸軍軍用地境界標石が並んでおり、宮ノ岳のピークに対馬要塞
上蒲刈島(かみかまがりじま)照聴所(聴測照射所の略、特設見張所、探照灯台とも)は、呉市上蒲刈島の東側に置かれました。配備要図で場所を確認します。呉海軍警備隊の概略はこちら→→→「上蒲刈島」は前回紹介した鹿島照聴所と同様に大東亜戦争中に設けられた照聴所です。開戦2ヶ月が経った昭和17年(1942年)2月の『呉海軍警備隊戦時日誌』を見ると、調査中の照聴所建設予定地13ヵ所の中に「上蒲刈島」の名前が挙がっています。建設工事は同年後半から開始され、昭和19年(1944年)3月に完成しました
室蘭臨時要塞小橋内砲台および観測所<米軍撮影>室蘭臨時要塞は、室蘭港周辺にある工場群と港湾の防衛と津軽要塞の背面防御を目的として、1945年(昭和20)に建設工事が開始された。絵鞆半島にある小橋内砲台は敵艦を迎撃するため、96式15センチ加農砲×1門と92式10センチ加農砲×1門の計2門据え付けて防備につく予定で、同年6月に第1砲座、翌月7月に第2砲座を完成させる。<掩体を擬装するための土を取り除いたまま>室蘭市近郊には噴火湾一帯の砂鉄、虻田(現在の洞爺湖町)の鉱山
[北大東島守備隊]陸軍本部壕沖縄県北大東村中野北大東島の北西、黄金山(長幕岩壁)の丘陵の西側にある。強固な岩壁(粘土質堆積物)を切通のような掘削道(幅5m×長さ100m)をつくり、その両側に地下壕を掘削している。ここに歩兵第36連隊第2大隊の本部壕(のちに複廓陣地の戦闘指揮所)が設営された。出典:沖縄県の戦争遺跡(平成27年3月)、抜粋・加工人工的につくられた切通をズンズン進む。地下壕の壕口を過ぎてどん詰まりに、円形の砲座のような観測所のようなものがある。出入口
今回は島根県出雲市に置かれた日御碕(ひのみさき)探信所をレポートします。前回も説明した通り、呉海軍警備隊は呉軍港と徳山要港の周辺のみならず、北と南の広範囲に亘って見張所を設けていました。呉警の広域配置図です。探信所は対空警戒用の電波探信儀(電探、レーダー)を用いて敵機を発見・追尾する見張所です。電探は大東亜戦争開戦後に実戦配備が始まりましたが、日御碕探信所もその一つでした。以下、呉海軍警備隊の『戦時日誌』と『引渡目録』にて日御碕の記述を辿って行きます。**********
◆起工:大正13年(1926年)9月22日◆竣工:昭和4年(1929年)3月31日◆備砲:五十口径三十糎加農砲2門(砲塔1基)◆設置標高:100m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→「龍ノ崎第一砲台」は、昭和期における第3次築城期の最初に構築された砲台です。対馬南東岸に設置され、壱岐要塞の砲台と協力して対馬海峡東水道を防御し、味方艦船の安全な航行を図ることを任務としていました。対馬の地図で場所を確認します。第一砲台には連装砲塔である5
97式中戦車(チハ車)若獅子神社静岡県富士宮市上井出字東山2317-1陸軍戦車兵学校跡地に若獅子神社がある。1965年(昭和40年)に慰霊塔が建てられ、1975年(昭和50年)にサイパン島より帰還した97式中戦車(チハ車)が置かれ、1984年(昭和54年)に神社を創建したようだ。日本に現存する97式中戦車は3両しかない。うち2両は「サイパン島の戦い」で奇跡的に生き残った戦車兵の下田四郎氏(当時伍長)が戦後、私財を投じてサイパン島から日本に帰還させ
陸軍まのひ(青戸)飛行場の監視壕(トーチカ)鹿児島県南九州市頴娃町上別府(え!?と息をのむ案内板)旧穎娃町上別府青戸にある「まのひ飛行場」。「まのひ」は、陸軍の暗号名。計画当初は枕崎に建設する予定だったため、まクラザキのひコウジョウ、「まのひ」とされた。地名を取って青戸飛行場または上別府飛行場ともよばれている。陸軍知覧飛行場(暗号名:ちのひ)は気象条件次第では離着陸が出来ないことから、枕崎に飛行場建設計画があがったが、青戸の方が飛行場に適したので青戸に建設された
[陸軍第73師団](本土決戦)抵抗拠点陣地日本陸軍は昭和19年7月、第3師団を再編成して第73師団(怒師団)を編成。浜名湖〜渥美半島地域の防衛を目的とし、本土決戦用の防御陣地の構築を行っている。出典:伊藤厚史「愛知・名古屋の戦争遺跡」p.101昭和20年2月に新設された第13方面軍に編入(師団司令部は名古屋から豊橋に移転)。防衛担当区域を浜名湖〜豊橋南方区域に縮小。6月には演習も行うも連合軍の上陸は無く終戦。愛知県(豊橋市)との県境に位置する静岡県湖西市は、第73師団(怒
水戸藩の安神車水戸東照宮水戸藩第9代藩主の徳川斉昭が自らが設計した(と伝えられる)、日本最古の「戦車」といわれる安神車が、水戸八幡宮(茨城県水戸市)の境内にある。安神車は2基が現存。開国圧力が強まっていた幕末、水戸藩領土の太平洋沿岸にも外国船が頻繁に出没していた。そこで水戸藩主の斉昭は、海防を中心とした軍備増強策を進めていく。軍制改革の中で、斉昭は自ら設計した武器の開発製造に携わり、その一つがこの安神車だった。たぶん陸戦用。周囲を鉄板で覆った釣り鐘のよう
1年ぶりの「北九州の防空」カテゴリーです。今回は北九州市小倉南区曽根の沖合に浮かぶ間島(ましま)の照空陣地を探索します。地図で場所を確認します。「北九州の防空」の概略はこちらのリンクにて→→→*************************************大東亜戦争末期における北九州・関門地区の防空は陸軍の高射第4師団(北九州高射砲隊)が担っていました。八幡製鉄所や小倉の陸軍施設、関門海峡や響灘周辺に高射砲隊、その外周に照空灯(サーチライト)を有する照空隊を配置し
大砲を奉納する春日山神社新潟県上越市大豆1743春日山神社の境内には、日露戦役(日露戦争:1904年2月8日〜1905年9月5日)でのロシア軍大砲の鹵獲品が奉納されている。解説板はない。出典:佐山二郎「日本陸軍の火砲野砲山砲」p.92どうやらロシア軍の87ミリ野砲(87-ммполеваялёгкаяпушкаобразца1877года)と思われる。87-ммполеваялёгкаяпушкаобразца1877года出典:
深山火薬本庫は、深山地区の砲台や重砲兵聯隊屯営地の後方谷筋に置かれました。火薬本庫の履歴と見取図を掲載します。◆起工:明治33年(1900年)9月1日◆竣工:明治35年(1902年)11月30日◆建造物:火薬庫と火具庫各2棟◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→史料と照らし合わせると、今回探索したのは2棟あった火薬本庫の1棟、第一火薬本庫周辺かと思われます。火薬庫の建物は瓦礫と化していますが、後方に境界壁とレンガ造りの橋梁が残っています。この日の探索は
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて、陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、紀淡海峡を閉塞して大阪湾への敵艦の侵入を防ぐべく立案されたのが「由良要塞」でした。地図で場所を示します。紀淡海峡は、和歌山県北西部の田倉崎と淡路島の生石鼻の間の海峡で、その幅は約11㎞です。海峡内には友ヶ島4島(沖ノ島、虎島、神島、地ノ島)が浮かんでいますが、ほぼ中央に浮かぶ沖ノ島~淡路島
対馬南端の豆酘崎(つつさき)砲台については前回取り上げましたが、今回は砲台後方の尾崎山(標高131m)に残る旧軍遺構を紹介します。◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期)」はこちら→→→豆酘崎周辺図を掲載します。今回紹介するのは、尾崎山山頂にある「観測所」と、交通壕(配管もしくはケーブル埋設跡かも)を下った北東側の麓にある「給水施設?」となります。なお遺構が観測所であると推論した理由ですが、現地で確認したところ、他地域に残る八八式海岸射撃具を配備した観測所の造り
地図を見ていたら近場に興味を引くエリアがあったのでやってきましたよ!横浜市泉区に、コンパスで書いたみたいに正確な真ん丸の広大な緑地を見つけました!なんだこれ!?というわけで巨大な円の中心に来てみましたよ!おおっ、なんかいきなりメイレイくちょうですね?アメリカンな路面のバンプの奥には有刺鉄線が巡らされたゲート跡があり、立入禁止の看板と注意書きが貼られています!旧深谷通信所だって?なるほどそれで周囲に電波障害物がないようにこんな円形の更地になっていたのか!ここがその通信所の施設跡の入口
[佐世保要塞]馬川演習砲台②88式海岸射撃具観測所長崎県佐世保市俵ヶ浦町出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」、抜粋・加筆*88式海岸射撃具観測所88式海岸射撃具観測所の仕様書・1〜2層の鉄筋コンクリート造。・上部掩蓋(天井)は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ溝形鋼、観測具室は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ鋼板を菅笠のように加工、を周壁にのせる。・上部掩蓋(天井)の上にアスファルト等の防水を施し、その上にコンクリートを打設
愛勝布防空高角砲台北海道厚岸郡厚岸町愛冠竣工:1944年(昭和19年)6月以降備砲:40口径3年式8糎高角砲(8センチ高角砲)×2門砲座②:8センチ高角砲の砲座(手前)と地下弾薬庫(奥)*厚岸町が「愛とロマンの愛冠岬」とキャッチを付けた(*_*)愛とロマンの愛冠岬|観光十景|観光されるみなさまへ|北海道厚岸町厚岸の代表的な名所である愛冠(あいかっぷ)岬は、『できそうもない困難を乗り越え愛の栄冠を得る』との思いで名づけられました。原名はアイヌ語でア
陸軍築城本部が大東亜戦争時に編纂した『現代本邦築城史』を読むと、由良要塞の補助建設物履歴の中に「深山方面交通路火薬庫~高森山頂」と書かれており、地図にはその道がマークされています。某書籍には高森山堡塁が築城されたことになっていますので、本当にあるのかどうかを確かめるべく歩いてきました。赤線がその道となります。火薬本庫前から少し歩くと、道路から分岐する道があります。ちなみにこのアスファルト道路も軍道で、佐瀬川堡塁や西ノ庄堡塁方面に向かって伸びています。ちなみに数時間後にこの道に合
先日、4年ぶりに小呂島を再訪しましたので砲台の記事を書き直します。小呂島(おろのしま)は玄界灘に浮かぶ福岡県西区に属する島で、姪浜渡船場から北西約40㎞の位置にあります。150人ほどが住む有人島ですが、戦時中この島には陸軍の砲台と海軍の防備衛所が置かれていました。壱岐要塞の砲台位置図で場所を確認します。島に渡るには福岡市の姪浜渡船場から市営渡船に乗船して65分の船旅となります。日帰りできるのは火、木、土、日で、往路は姪浜・午前9時発、復路は小呂島・午後1時20分発の一便のみです
埼玉県川越市のびん沼自然公園にきましたよ!前回横浜のたちばなの丘公園で旧浅野カーリット保土ヶ谷工場跡を探検した際に、『日本カーリット(浅野カーリット)保土ヶ谷工場跡』横浜市保土ヶ谷区のたちばなの丘公園にきましたよここのそばに陣ヶ下渓谷公園というのがあって、グレが幼い頃からしばしばお散歩にきてましたが、『初夏の陣ヶ下渓谷』…ameblo.jpグレが関越道の川越近辺でも同じ匂いがするとこがあるんだというので、グレの嗅覚を頼りにやってきましたよ。グレにとっては歩きやすい、平坦な整備されたい
[沖縄方面根拠地隊大東島派遣隊]海軍本部壕群沖縄県南大東村池之沢234(大東神社)『沖縄県の戦争遺跡』という本に、「大東神社の社殿がある標高約30mの独立した小さな丘陵の周囲に構築された7基の人工の壕群である。海軍の沖縄方面根拠地隊大東島派遣隊の本部壕であったとされる。東方には多くの池が見られ、その約1kmには当時の海軍飛行場が位置する」と書いていたので行ってみた。大東神社(大神宮)明治33年(1900年)1月、八丈島の豪商だった玉置半右衛門が組織した八丈島民23
[北大東島守備隊]見晴海岸の水際陣地沖縄県北大東村中野北大東島の北港の北東の見晴海岸(本田中隊の担当地区)。ここに3ヶ所の水際陣地がある。みつけられたのは1ヶ所(T_T)*ススキの藪に埋もれている出入口これでも剪定したのよおおおおお!室内に2基の銃眼があり、北と東方面の上陸する敵に向かって射撃するような構造。重機関銃をおいたと思われる銃座では外からみてみますか!脱出(・ω・)ノ向かって左側の
大本営陸軍部の地下壕東京・市ケ谷の防衛省(市ヶ谷台)のA棟庁舎玄関前の儀仗場。ここに面する雑木林(かつては日本庭園)の地下に掘られたのが大本営陸軍部地下壕。現在の防衛省図:大本営陸軍部は建屋は縮小改悪され「記念館」として移設され、跡地には庁舎A棟が建つ。大本営陸軍部の地下壕は、建設開始は真珠湾攻撃(太平洋戦争の開戦)の4カ月前の1941年(昭和16年)8月。翌年12月に完成した。この地下壕の造られた理由、掘削方法もはっきりは分かっていない。<地下壕が3本並列に掘ら
ヒキウス電探所の電磁台(電波探知塔)北海道根室市の東、双沖一帯にある海軍の電探基地。その東のヒキウス岬には電磁台の基礎が残っている。直径は上部3.6メートル、下部2.3メートル、高さ2.4メートル内径は1.3メートル当然と言えば当然だが、中には何も無い。で昇降用の足掛けが設けられているのみ。電探台からの景色サクッと退散する。コンクリート製建屋の基礎っぽいものは散見するが、何が何だか不明すぎ。*根室市双沖地区には兵舎などが
皆津崎(かいつざき)第一砲台が築城されたのは奄美大島南端の皆津崎付近でした。以下、簡単な履歴です。*************************************◆起工:大正10年(1921年)11月21日◆工事中止:大正11年(1922年)3月31日◆配備予定火砲:四五年式二十四糎榴弾砲4門◆実際の配備:備砲されず(大東亜戦時、野砲をもって陣地構築)◆砲座標高:7.5m◆任務:大島海峡東口の防御◆特記:同じ敷地内に第二砲台(配備予定火砲“十一年式七糎加農4門”
[沖縄戦]浦添城〜前田高地沖縄戦最大の組織的な激戦地浦添城文化遺産オンライン「浦添城」より浦添城は、舜天王の居城ともいい、また、英祖王統や察度王統がいずれも浦添の出といわれているところから、英祖王統や察度王統時代に築かれたともいうが、確証はない。しかし、この三王統のうちいずれかの時代に築かれたものであろう。15世紀頃の首里遷都とともに、城跡は荒廃していくが、尚真王の長子尚維衡が父の不興をかって浦添城に一時遷されたり、慶長14年(1609年)、島津侵攻の際戦火にあったこと、万暦4
深山第二砲台は第一砲台の南、標高105m地点に築城されました。第一砲台と同じく28㎝榴弾砲6門と15㎝臼砲4門を持ち、加太瀬戸に侵入せんとする敵艦を撃退する任務を持っていました。第二砲台の履歴です。◆起工:明治25年(1892年)1月18日◆竣工:明治26年(1893年)10月31日◆備砲:28㎝榴弾砲6門、15㎝臼砲4門(明治31年3月備砲完了)◆設置標高:105m/106m◆経過:大正11年度(1922年度)、演習砲台に改築◆廃止:昭和6年(1931年)9月・全部除籍