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「鎌倉時代前後に登場する3つの一条家を解説しよう」というシリーズも今回で終わり。最終日は、藤原氏の中でも名門中の名門・摂関家から輩出された「一条家(五摂家)」を紹介して、自己満足感満載で進んできた今企画を締めようと思います。「五摂家って何?」というのは、以前にも触れていますが、軽く解説すると「摂政・関白になれる5つの家」のこと。その5つの家と言うのは、「近衛家」「鷹司家」「一条家」「二条家」「九条家」のことで、ぜんぶ藤原氏。これらは全て大河ドラマ『平清盛』にも登場した
晴明とは、陰陽師界のスーパースター・安倍晴明のことです。実際の陰陽道は学問的なものだったのでしょうが、物語に登場する陰陽師は超能力者です。映画『陰陽師』では安倍晴明と蘆屋道満が超能力バトルを繰り広げます。道満の早九字かっこいいさておき、物語における安倍晴明は式神を駆使する話が印象的です。式神とは陰陽師に仕える精霊です。安倍晴明は式神を駆使して格子の上げ下げをさせていた、という「便利使いするんじゃないよ」と誰もが突っ込むお話もあります。笑今回は、安倍晴明が蔵人少将を守るお話
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後で
Kindle無料キャンペーン‼️5月1日ー5月5日まほろば物語Kindle3月20日に大船のカフェ楽庵で語りの会を開催しました。近くに木曽義高の碑が残されている場所。大姫の🪦と言われるところもあります。招かれたかのような…不思議な会になりました‼️3/10大船楽庵でよっくる一座朗読ライブよっくる一座ライブ大船楽庵作家谷よっくるさんが水曜日,3月202024に開催するイベントfacebook.comAmazonのリンクはこちら。まほろば物語鎌倉編谷
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳にして治天の君となった瞬間に、後鳥羽上皇の周囲には後鳥羽上皇の意のままに動く人材が揃っていた。その多くは自らの不遇からの一発逆転を狙って院政に自らの未来を託した野心家である。その野心家の全てを後鳥羽上皇は周囲として迎え入れたのではない。後鳥羽上皇は自らの周囲に集った人材に競争させたのである。ここまではいい。問題はどのように競争す
光圀公で思い出したのが茨城県内には梅林がたくさんあるのよ水戸偕楽園が有名ですが他にも日立市の諏訪梅林筑波山の梅林につくば市の梅園公園西山公園に東持寺の梅園とが見ごたえあります東持寺の観梅に行った時のものですうめでらで有名なの結城家初代朝光の子重光の屋敷跡とも武家屋敷跡を思わせる堀や土塁が残されているそうです案内板に書かれています紅梅が咲
そして、源頼朝もこのときばかりはあくまでも一人の貴族として、すなわち、前権大納言として東大寺に参詣しており、周囲をかためる武士達が鎌倉幕府の御家人であるという違いはあるものの、この一瞬だけを切り取れば、牛車の周囲を守る武士の数が多いという以外は他の貴族と変わらないように見える。ただし、一点だけ無視できないポイントがある。源頼朝の周囲を固める武士達は、東大寺再建供養の警備を務める武士達の一部であるという点だ。さらに言えば、後鳥羽天皇の周囲を固める武士達も、その他の皇族や貴族の周囲を固める武士
2022年大河『鎌倉殿の13人』は、北条義時が主役の大河ドラマ。「で、その北条義時って誰?」と聞かれた時、歴史好きの皆さんはどう答えるんだろう?本当は鎌倉幕府の執権で、「承久の乱」の勝者って答えたい。でも、そう言った時の反応は何となく想像つきます。「しっけん…??」「じょうきゅうのらん…??」どんなに日本史のエポックであっても、知名度がなくてはどうしょうもありません(この点は「壬申の乱」にも言えますよね…)一番カンタンなのは「北条政子の弟だよ」なのではなか
桜川市巡りもだんだんと日が暮れてきましたあと一か所行きたいわ日が暮れかけています筑波山を見ながらさらに車を走らせますはっきりと見えるね筑波山だよそろそろ限界かまだつかないなもうちょい山肌も夕日に照らされています迷子になってしまった・・・かなり奥に入りました着いたみたい
都忘れ(ミヤコワスレ)ー都立水元公園グリンプラザタナゴ釣の帰りに撮りました!毎年は花が少なくなり、今年は濃い紫が無くなり寂しかった。原産地:日本科/属:キク科/ミヤマヨメナ属開花期:5月〜6月ミヤマヨメナの日本産園芸品種として多く栽培され、ミヤコワスレの名は、鎌倉時代に承久の乱に敗れた順徳天皇が北条家によって佐渡島に流された際に、この花を見て心を慰め、都恋しさを忘れたとの伝承による。byGoogle
国宝・阿弥陀二十五菩薩来迎図は、法然上人の浄土宗総本山・知恩院にあります。鎌倉時代のものですね。阿弥陀二十五菩薩来迎図とは、阿弥陀様を中心にして、多勢の菩薩様たちが雲に乗って降りてくる有様を描いた絵です。臨終の時に阿弥陀様が多勢の菩薩様を引き連れて迎えに来て下さる有様を描いたものです。二十五菩薩の来迎図は、藤原時代末に盛んに描かれたのですが、当時の人にとってこの世は末法時代に入り終末の様相を呈し、この世への厭世観から来世の極楽浄土に対して強い憧れがあったんですね。
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇としてのあるべき姿、すなわち、上皇としての政務を執っている姿は特筆すべきことではなかったからであろう。藤原定家の日記を紐解くと、建久九(一一九八)年二月三日に後鳥羽上皇が殷富門院のもとへ御幸したことの記録が出てくる。藤原定家はその御幸の様子があまりにも壮麗であり、卑近な言葉で言えばどんちゃん騒ぎを繰り返したことを非難している。また、後鳥
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。そして、この二点とも永続する要素ではない。どういうことか?替えが効くのだ。後鳥羽院にとっては自分の
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
千葉県でお仕事の帰り道です四街道市の山梨(月見里)城址に来ていますおっ、良いね中世城跡じゃ天御中主神社(山梨妙見神社)小さなお社がありました大甕は鎌倉時代後期から室町時代の制作のようです大きな甕だわこちらが城跡になっています鎌倉時代中期には臼井氏の一族山梨氏が山梨地域を治めていたと書かれています頂上には山梨妙見神社
上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。二条東
桜川市の秋次は真像寺の大イチョウを見に来ました今が見頃だ黄金色かなり大きい大イチョウの脇には山門ですイチョウの葉があちこちに散らばる緑の中に黄色美しいですね紅葉の赤も良いけれど黄色も捨てがたい鎌倉時代とな少し境内を探索赤・黄・みどり
こんばんは^^今日は奈良で舞のお稽古があり、そのあと奈良国立博物館で空海特別展を見てきました~☀奈良のお稽古は毎回とても深く刺激を受け、目からうろこの気づきにあふれる、たいへんありがたい場所。今日もたいへん刺激を受けて帰ってきました。最近、いろいろと方向性でモヤモヤしていることがあって、舞の形だけやればいいのか?装束に水干を着れば白拍子なのか?所作や服装の必然がないのにやるなんておかしくない?とりあえず、姿勢と歩くことをまずしっかりやろう!あれ、そもそも
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
新潟では昨晩から雪が降り始めて、積もるまではないものの、寒さが冬らしくなっております。毎年「ホワイトクリスマスになるかどうか」が関心事だったりするんですが、今年はどうでしょうかねぇ…。ちょっとは白くなっちゃいそうかな。さて、「勧修寺流藤原氏」、前回は紫式部までと、夫の宣孝・弟の惟規の子孫をご紹介しました。系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(関連)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804259307.html今回は、宣孝の
Facebookの7日間ブックカバーチャレンジというキャンペーンに参加しているので、期間限定でこちらにアップします。中世歴史を紐解くようになったのは、家の近くの名越溜池上、今では国史跡となっている名越切通の西側にある御猿畑という段々畑一帯が階段状マンションになるという話がきっかけでした。もう23年前。犬の散歩で通っていた鄙びた段々畑は、猿畠山という日蓮聖人ゆかりの地です。コピーライターだった私は、バブル崩壊の煽りで家に戻って細々仕事を続けながら、ちょうど家に来た元気あふれるラブラドル
雀が登場する昔話だと、「舌切り雀」が有名です。お爺さんが大事に世話をしていた雀の舌をお婆さんがちょん切ってしまう話です。今回は、それとは少し違うお話で、鎌倉時代の説話集『宇治拾遺物語』に収められているものです。昔々、春の穏やかなある日、六十歳くらいのお婆さんがシラミをとっていた。すると、庭を雀が歩いていたところ、こどもたちが石をぶつけて腰を折られてしまった。羽をバタバタさせて倒れているところに、カラスが近くを走り回っていたので、「おやまあ、かわいそうに。カラスが捕まえてしまうだ
川崎宿の田中本陣と佐藤本陣田中本陣跡です。川崎の宿場には佐藤本陣と惣兵衛本陣と田中本陣の3つの本陣がありました。そのうち最も古い歴史をもつのが、ここ田中本陣だったそうです。東海道かわさき宿交流館。川崎の歴史を学べます。次は曹洞宗のお寺、宗三寺に立ち寄ります。鎌倉時代には勝福寺というお寺があったそうですが、戦国時代から宗三寺に変わったと書かれていました。川崎宿3つの本陣のうちの1つ。佐藤本陣跡です。こんなところに自転車を止めなくてもいいのに!と思ってしまいます。
みなさんは、「2030」という数値が何を表しているかを知っていますか❓「2030」とは「2020年に指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という政府が制定した目標数値です。女性の活躍推進・地位向上につながる重要性な政策ですが、女性の地位は日本の歴史を概観すると決して高いとは言えなかったように感じられます😓今回題材として深めてみたいのは、鎌倉時代における女性の地位についてです。鎌倉時代は、源頼朝が鎌倉に武家政権を開い
『新古今和歌集』に、小侍従こじじゅうという女性歌人の有名な歌があります。待つ宵のふけゆく鐘の声きけば飽かぬ別れの鳥はものかは〔あなたが来てくれるのではないか、と期待しながら待っている宵、次第に夜が更けていくことを告げる鐘の音を悄然とした心持ちで聞くのに比べたら、まだまだ一緒にいたいのに、別れなければならない朝が来たことを告げる鳥の声を聞く切なさなど、物の数でもありません〕[注]正式な結婚式を挙げている夫婦を除いて、男性は日が暮れてから女性のもとに行き、夜明け前には帰るのがマナーでした。ただ
こんにちは、東大合格請負人の時田啓光です。勉強の疑問にどんどん答えていくコーナーです。今回はこちら。「鎌倉時代にいた本補地頭と新補地頭って同じものですか」答違います。本補地頭と新補地頭の違いのポイントは「承久の乱」です。本補地頭は、承久の乱の前つまり鎌倉幕府当初からの地頭で、新補地頭は、承久の乱の後から設置された地頭です。承久の乱で、後鳥羽上皇側が負けたので、鎌倉幕府は上皇側の貴族や武士がもっていた所領を没収し、畿内・西国の数千カ所の土地を得ました。
#向日市を代表する伝統文化のひとつ、#鎌倉時代から続く鶏冠井題目踊りを楽しませていただきました!日像上人が創建したこの石塔寺では、5月3日の花まつりに鶏冠井題目踊りをご奉納。この踊りは#京都府の無形民俗文化財にも指定され、日像上人がご飯の#湯気で空中に南無妙法蓮華経のお題目を描き出し、それを見て喜ぶ村人の様子を表現したものと伝えられています。鶏冠井町は、西日本ではじめて日蓮宗が広く普及した地としても知られています。鶏冠井には古くから村民の#三郎四郎という人が日像に帰依し一
「鎌倉郡本郷村」(1989年〜1939年の約50年間)観光地鎌倉には属さない、観光客も歴史ファンもあまり興味関心を寄せない「鎌倉の古の痕跡」がこのエリアでは、沢山感じる事ができるただ……日本史の「鎌倉時代」としての遺跡よりもそれ以外の時代の生活の痕跡の方が濃いエリアですその中でも1938年、鎌倉郡本郷村が、改編される1年前に建設された「軍事遺跡」の痕跡を探索してきましたJR「本郷台」駅から探索スタート冒頭の「鎌倉郡本郷村」とは現在の横浜市栄区(一部)です「本郷村の由来」の石碑が
こんにちは、久津間です。ふと「鎌倉時代の刀って何本残ってるんだろう?」と思い、自分なりに考えてみました。当然全てを鵜呑みにはできませんが、2万3千以上という膨大な刀工銘が収載されている為、今回は「日本刀銘鑑」参考にしました。(鵜呑みにできない理由のいくつかとして、「永」の銘字について〜その1、「永」の銘字について〜その2、「永」の字のある年紀について〜『観智院本銘尽』にある〜、「オフレコ刀庵/銘鑑=迷鑑?」を読んでいたいただければご理解いただけるかと存じます。)今回の調査対
~これまでのあらすじ~ある日、お婆さんが、子どもたちに石をぶつけられて腰を折ってしまった雀を助けました。毎日かいがいしく世話をしていると、徐々に雀は快復し、ついには飛んで行くのでした。それから二十日ほど経ったころ、その雀がお婆さんのもとに戻ってきてヒサゴの種を一粒落としていきました。お婆さんがその種を庭に植えてみると、大きなヒサゴが無数に実りました。とても食べきれないので、取りわけ大きな実は瓢箪にしたのですが、妙に重かったのを不思議に思いつつ口を切ってみると、ぎっしりとお米が詰まっていたので