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『【古来の神社は侍だった】秦氏・土御門兼嗣氏』山梨県の富士五湖地域には秦氏が多いです。地元神奈川県にも秦野市があります。秦、羽田、波多さんを束ねる秦氏総トップ、【土御門さんシリーズ】が最高。古代史の答え合…ameblo.jp先日の記事に「侍」についての興奮メモをしましたが、中でも一番「ひゃー」となったのが↓「侍」とは:表向きは大きな神社の集団、神主、宮司という神社の官職にしか見えない表向きは神社の集団神主、宮司うわぁ〜納得です〜富士山の小室浅間神社の一族。鎌倉時代には「南朝を
晴明とは、陰陽師界のスーパースター・安倍晴明のことです。実際の陰陽道は学問的なものだったのでしょうが、物語に登場する陰陽師は超能力者です。映画『陰陽師』では安倍晴明と蘆屋道満が超能力バトルを繰り広げます。道満の早九字かっこいいさておき、物語における安倍晴明は式神を駆使する話が印象的です。式神とは陰陽師に仕える精霊です。安倍晴明は式神を駆使して格子の上げ下げをさせていた、という「便利使いするんじゃないよ」と誰もが突っ込むお話もあります。笑今回は、安倍晴明が蔵人少将を守るお話
康述は美濃国広瀬郷40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。広瀬一族の先祖は、広瀬加賀守康述で鎌倉時代初期から代々続く美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の地方豪族の家柄です。清和源氏の末裔と伝えられています。広瀬一族の先祖・広瀬康述は、鎌倉時代初期の1200年に美濃国広瀬郷広瀬村の領地を支配する地位(地頭)が与
「鎌倉時代前後に登場する3つの一条家を解説しよう」というシリーズも今回で終わり。最終日は、藤原氏の中でも名門中の名門・摂関家から輩出された「一条家(五摂家)」を紹介して、自己満足感満載で進んできた今企画を締めようと思います。「五摂家って何?」というのは、以前にも触れていますが、軽く解説すると「摂政・関白になれる5つの家」のこと。その5つの家と言うのは、「近衛家」「鷹司家」「一条家」「二条家」「九条家」のことで、ぜんぶ藤原氏。これらは全て大河ドラマ『平清盛』にも登場した
今日も1日お疲れさまでした✨美しい観音に癒されましよう。~「水月観音」~アメリカのネルソン・アトキンズ美術館が所蔵している中国の水月観音像三十三観音の一。形像は一定しませんが、観音菩薩の住処、もしくは降り立つ場所とされる補陀落山の水辺の岩に座して水中の月を見る姿に作られるもので、古来、心の浄化・水難守護を祈願する観音で、人々の心を表す満月を映した水面を静かに眺めています。日本にもありますよ東慶寺(北鎌倉)水月観音菩薩半跏像『水月観音菩薩半跏像』は、岩に腰掛けたゆったりとした
こんばんは^^今日は奈良で舞のお稽古があり、そのあと奈良国立博物館で空海特別展を見てきました~☀奈良のお稽古は毎回とても深く刺激を受け、目からうろこの気づきにあふれる、たいへんありがたい場所。今日もたいへん刺激を受けて帰ってきました。最近、いろいろと方向性でモヤモヤしていることがあって、舞の形だけやればいいのか?装束に水干を着れば白拍子なのか?所作や服装の必然がないのにやるなんておかしくない?とりあえず、姿勢と歩くことをまずしっかりやろう!あれ、そもそも
Kindle無料キャンペーン‼️5月1日ー5月5日まほろば物語Kindle3月20日に大船のカフェ楽庵で語りの会を開催しました。近くに木曽義高の碑が残されている場所。大姫の🪦と言われるところもあります。招かれたかのような…不思議な会になりました‼️3/10大船楽庵でよっくる一座朗読ライブよっくる一座ライブ大船楽庵作家谷よっくるさんが水曜日,3月202024に開催するイベントfacebook.comAmazonのリンクはこちら。まほろば物語鎌倉編谷
千葉県でお仕事の帰り道です四街道市の山梨(月見里)城址に来ていますおっ、良いね中世城跡じゃ天御中主神社(山梨妙見神社)小さなお社がありました大甕は鎌倉時代後期から室町時代の制作のようです大きな甕だわこちらが城跡になっています鎌倉時代中期には臼井氏の一族山梨氏が山梨地域を治めていたと書かれています頂上には山梨妙見神社
千利休は力強くたおやかな自然の緑を一碗の抹茶の緑に凝縮し、緑色を精神的な宇宙の色とし、それにふさわしい茶の湯の様式を創作しました。日本の伝統色の緑色系統は、自然と融合し四季折々の多様な植物の緑から生まれた色名が多く存在します。苗色は稲の苗のような淡い緑色です。類似色に『萌葱色』があり平安時代からある夏の色です。平安時代、苗色は天皇の側に仕える人の服の色でした。若葉色は夏前の草木の若葉のような、柔らかな黄緑色です。若葉と言えば春のイメージですが季語は夏です。鶯色は鶯の羽のような暗くてくす
桜川市の秋次は真像寺の大イチョウを見に来ました今が見頃だ黄金色かなり大きい大イチョウの脇には山門ですイチョウの葉があちこちに散らばる緑の中に黄色美しいですね紅葉の赤も良いけれど黄色も捨てがたい鎌倉時代とな少し境内を探索赤・黄・みどり
新潟では昨晩から雪が降り始めて、積もるまではないものの、寒さが冬らしくなっております。毎年「ホワイトクリスマスになるかどうか」が関心事だったりするんですが、今年はどうでしょうかねぇ…。ちょっとは白くなっちゃいそうかな。さて、「勧修寺流藤原氏」、前回は紫式部までと、夫の宣孝・弟の惟規の子孫をご紹介しました。系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(関連)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804259307.html今回は、宣孝の
鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』です。前回は「ぶす」、前々回は「歯医者にて」という面白い話でした。今回もそれらに勝るとも劣らない面白古文で、落語の枕に使われることもあるとか?嵯峨に“能説房”という、仏の道を説く法師がいた。とても能弁な僧だった。隣家には酒屋を営む金持ちの尼君がいた。能説房は究極の酒好きで、お布施でもってひたすらに酒を買って飲むのだった。ある時はツケで酒を買い、お布施が入ると代金を払う、という程だった。さて、この尼君、仏事をすることがあったので、導師を能説房に依頼し
「平安(院政期)~鎌倉時代に現れるいくつかの一条家を整理して紹介しよう!」という、どこに需要があるんだか分からない(笑)今企画。前回の続きとして、今日は一条家(中御門流)を取りあげます。「中御門流(なかみかどりゅう)」とは、道長の子・頼宗(よりむね)の系譜の呼称。「御堂関白」と呼ばれ権勢を誇った藤原道長は、たくさんの子宝に恵まれましたが、正室の子と側室の子とを明確に区別して遇していました。天皇に嫁がせた娘は全て正室から生まれた子ですし、摂関家の地位も正室の子・頼通に継
先に結論。「首都」は鎌倉です。「都(ミヤコ)」は京都です。首都と都(ミヤコ)は別の概念です。ミヤコというのは宮処、つまり天皇の住む宮殿のある街が都(ミヤコ)です、これは間違いない。天皇に政治的権力があろうがなかろうが、そんなの関係ありません。天皇が住んでるところが、ミヤコ。首都というのは、明治以降に輸入された社会科学用語を和訳したもののひとつ。ソサイアティを「社会」、エコノミーを「経済」、ポリティクスを「政治」と、福沢諭吉みたいな人たちが苦労して日本語を考えた、そのうちのひとつが「キャピタル
毎月恒例の吉祥寺古典を読む会、6月は、18日(日)に後深草院二条『とはずがたり』を取り上げました。この『とはずがたり』、前半と後半に分かれるんですが、その前半ではめくるめく恋のドラマが繰り広げられています。研究書でも「愛欲編」と名付けている本があるほどですその恋のドラマは、瀬戸内晴美時代の寂聴先生も小説になさっています。中世炎上(新潮文庫)Amazonちょっとあらすじをご紹介しましょう。第1巻:二条は2歳の時に母を亡くし、4歳からは「後深草
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
みなさんは、「2030」という数値が何を表しているかを知っていますか❓「2030」とは「2020年に指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という政府が制定した目標数値です。女性の活躍推進・地位向上につながる重要性な政策ですが、女性の地位は日本の歴史を概観すると決して高いとは言えなかったように感じられます😓今回題材として深めてみたいのは、鎌倉時代における女性の地位についてです。鎌倉時代は、源頼朝が鎌倉に武家政権を開い
こんにちは。この話しは私は知りませんでした。朝鮮出兵しか知りませんでした。【驚愕!!】超戦闘民族だった日本人のヤバい歴史…世界が日本の『サムライ』を欲しがっていた戦国時代【ゆっくり解説】今回は、戦国時代のサムライの歴史を解説します!#ゆっくり解説#ゆっくり歴史解説#日本史#戦国時代◆シリーズはコチラです◆『室町時代』シリーズhttps://www.youtube.com/playlist?list=PLS4s3bnQzsn3NaZVhwjXPAsqERqR52Y2c『
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
さて、お婆さんがかいがいしく手当てをして世話をした雀は元気を取り戻して飛び立っていきました。その後の展開やいかに。そうして二十日ほどたって、このお婆さんが座っているあたりで、雀がしきりに鳴く声がしたので、「雀がしきりに鳴くようだ。あの雀が来たのだろうか」と思って出てみると、まさしくその雀だった。「なんと、忘れずにやってくるとはかわいいのう」と言っていると、お婆さんの顔を見て、くちばしから何かをちょっと置くように落として飛んで行った。お婆さんは「何だろう、雀が落としていったも
上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。二条東
『新古今和歌集』に、小侍従こじじゅうという女性歌人の有名な歌があります。待つ宵のふけゆく鐘の声きけば飽かぬ別れの鳥はものかは〔あなたが来てくれるのではないか、と期待しながら待っている宵、次第に夜が更けていくことを告げる鐘の音を悄然とした心持ちで聞くのに比べたら、まだまだ一緒にいたいのに、別れなければならない朝が来たことを告げる鳥の声を聞く切なさなど、物の数でもありません〕[注]正式な結婚式を挙げている夫婦を除いて、男性は日が暮れてから女性のもとに行き、夜明け前には帰るのがマナーでした。ただ
雀が登場する昔話だと、「舌切り雀」が有名です。お爺さんが大事に世話をしていた雀の舌をお婆さんがちょん切ってしまう話です。今回は、それとは少し違うお話で、鎌倉時代の説話集『宇治拾遺物語』に収められているものです。昔々、春の穏やかなある日、六十歳くらいのお婆さんがシラミをとっていた。すると、庭を雀が歩いていたところ、こどもたちが石をぶつけて腰を折られてしまった。羽をバタバタさせて倒れているところに、カラスが近くを走り回っていたので、「おやまあ、かわいそうに。カラスが捕まえてしまうだ
~これまでのあらすじ~ある日、お婆さんが、子どもたちに石をぶつけられて腰を折ってしまった雀を助けました。毎日かいがいしく世話をしていると、徐々に雀は快復し、ついには飛んで行くのでした。それから二十日ほど経ったころ、その雀がお婆さんのもとに戻ってきてヒサゴの種を一粒落としていきました。お婆さんがその種を庭に植えてみると、大きなヒサゴが無数に実りました。とても食べきれないので、取りわけ大きな実は瓢箪にしたのですが、妙に重かったのを不思議に思いつつ口を切ってみると、ぎっしりとお米が詰まっていたので
川崎宿の田中本陣と佐藤本陣田中本陣跡です。川崎の宿場には佐藤本陣と惣兵衛本陣と田中本陣の3つの本陣がありました。そのうち最も古い歴史をもつのが、ここ田中本陣だったそうです。東海道かわさき宿交流館。川崎の歴史を学べます。次は曹洞宗のお寺、宗三寺に立ち寄ります。鎌倉時代には勝福寺というお寺があったそうですが、戦国時代から宗三寺に変わったと書かれていました。川崎宿3つの本陣のうちの1つ。佐藤本陣跡です。こんなところに自転車を止めなくてもいいのに!と思ってしまいます。
こんにちは、教育しん研です。HP開設しましたTOP|教育しん研草加駅から徒歩5分の学習塾kyouiku-shinken.com日本史ややこしいシリーズです。やはり毎年この質問多いので書きます。借上、土倉(どそう)、酒屋の違いです。全て、高利貸、現代でいうと質屋やサラ金、消費者金融と呼ばれる業者です。アコムとかモビットとかレイクとかのあれです。本当は質屋さんが一番近い業態ですね。。。鎌倉時代に借上と呼ばれる業者が、室町になって土倉と称されました。
鎌倉幕府成立までの語呂合わせ(時系列)①「細工もヤダし、誠意を見せろ」さ→侍所設置い→一の谷の戦いく→公文所設置も→問注所設置ヤ→屋島の戦いダ→壇ノ浦の戦いし→守護・地頭をおく誠意→頼朝征夷大将軍に②こちらは、少しながくなりますが、他の様々な事柄も入れたゴロ合わせです「寒富士の中、行くのもヤダし、守れ王政」寒→侍所富士→富士川の戦いの中→義仲、京へ行→一の谷の戦いく→公文所設置のも→問注所設置ヤ→屋島の戦いダ→壇ノ浦の戦いし守れ→守護・地頭おく
2018年2月9日早朝に名古屋から「のぞみ」に乗って新横浜で下車しました。横浜線に乗り換えて、横浜駅の改札内コインロッカーに荷物を預け、JR鎌倉駅までやってきました。新幹線の切符の行先が「横浜市内」と書かれているので、この切符で東京寄りの駅は「川崎駅」まで使えます。鎌倉寄りの駅は、根岸線の「本郷台駅」まで使えちゃいます。なので、鎌倉駅の改札で、行先が「横浜市内」と書かれた新幹線の切符と一緒に追加の170円を払えばいいんですよ。鎌倉駅の西口(裏口)になります。鶴岡
それにしてもなぜ鳥羽か?過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもと