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こんにちは。ハイ・パイン・サンキュー!です。いつもとなりのかがわさんをお読みくださり、ありがとうございます。さて、瀬戸芸から少し離れて、今回は源平の古戦場を巡ったお話です。3月に閉館した高松平家物語歴史館に行った際に、いつかは行ってみたいな、なんて思っていましたが、やっぱり「いつか」とか「ゆくゆくは」なんて思っているうちは行けないものです。もちろん車などで行ってもよいのだけれど、歩いて行くと実際に夏は暑いし、冬は寒いので、春や秋に行くことになりますが、なかなか地味な場所なので、さて
奧山実秋作『旭将軍・源義仲公』4月12日に前作『伝教大師・最澄上人肖像』を思いの外早く完成させて、更に引き続き同月14日より「朝日将軍」こと源義仲公の肖像画の制作に取り掛かっている。我が家の宗教「天台宗」の開祖様の肖像を描いたのだから、歴史的な順序からしても我が奥山家の大昔の祖先と言い伝えられて来た源義仲公の雄姿を描くのが当然の経緯となった次第である。前回も書いた様に日本画の肖像では大抵の場合、人物を人形的な表現で描写する事、そして背景を描かず無地の
楽しみながら中受対策!親の腕のみせどころこんにちは。お受験ワーママのいおりです。GWは、次女とふたりで、二泊三日で四国上陸してきました。子の興味を引くため旅のテーマは「さぬきうどん旅」ということになっていますが、実はコロナのあおりで長女より格段に旅行経験が少ない次女の勉強のため、私が企画しました。(就活で旅行会社も志望してたくらいの旅行好きなので、その辺は得意分野)それなりの費用と時間(貴重な年休!)をかけていく家族旅行、うちでは、「歴史や地理の実体験させる貴重な
こんばんは治承・寿永の乱第11弾です。これまでの話はこちらから。今回はついに以仁王方と平家方が激突します。比叡山延暦寺が味方から離脱したことは、以仁王(もちひと-おう)陣営にとって痛恨の極みで、このままでは平家(六波羅)と比叡山の挟撃にあう可能性すらある危険な状況となってしまいました。そこで、以仁王らは最後の頼みの綱、興福寺・東大寺の僧兵を主力とする南都(奈良)の大衆と合流して巻き返しを図ろうと、5月25日夜陰に紛れて園城寺(おんじょう-じ)を出発、一路南都を目指したのです。しかし
治承・寿永の乱第32弾ですこれまでのお話はこちらからどうぞ大庭に味方する畠山重忠(はたけやま-しげただ)は、頼朝に味方した三浦勢を追って由比ガ浜(ゆい-が-はま)あたりで追いつきましたが、畠山と三浦は親戚同士ということもあって、三浦の将・和田義盛(わだ-よしもり)と話し合い、戦はしないということで合意したはずでした。ところが、ここで思わぬ事態が起ってしまいます。別働として鎌倉の杉本(椙本)あたりにいた和田義盛の弟・義茂(よしもち)のもとへ義盛の下人(げにん、雑
治承・寿永の乱、第9弾ですこれまでの話はこちらから。園城寺(おんじょう-じ)にて、以仁王(もちひと-おう)はじめ園城寺の衆徒と合流した源頼政(みなもと-の-よりまさ)・仲綱(なかつな)らの武士たちは、戦の機先を制するため、平家の拠点の一つである六波羅へ夜襲を仕掛けることを提案しました。夜襲の計画としては、まず頼政指揮のもと、戦力にならない老僧たちに松明を持たせて如意山を越え、白河付近に放火することで陽動作戦を展開、その間に仲綱・兼綱(かねつな)、渡辺党(わたなべ-とう)の武士たちをはじ
ちょっと前の日から続いてるJR青春18きっぷ日帰り旅の続きです。今回は↑のいとうあさこらが紹介した場所を自分の足でも追いかけて体感したって感じでしょうか???観音寺の琴弾公園〜公園に隣接してる琴弾八幡宮〜ここはテレビ番組でけっこう皆さんしんどそうに階段を上がってたけど何個か前の「天空の鳥居」よりははるかに楽に展望台まで行けますよ😅😊🎵それでもなかなかの階段が続きます。ちょっと変わった鳥居もあります。↑。荘厳な判断〜かなーり広い本殿なのですが写真にお
治承・寿永の乱、第10弾ですこれまでの話はこちらから。平家は延暦寺、園城寺、興福寺・東大寺をはじめとする南都の有力寺社といった勢力が以仁王(もちひと-おう)のもと反平家で結託する事態を憂慮して、これらの切り崩しを図りました。これらが一緒になって平家を攻撃してくれば、当時政権を握っていた平家にとっても大きな痛手で、面倒な事になりかねませんでした。そこで狙いとされたのが比叡山延暦寺です。延暦寺はもともと園城寺とは長年「山門寺門の抗争」と言われる対立関係にあり、時の天台座
安徳天皇御陵墓西市御陵墓(参考地・宮内庁)(にしいちごりょうぼ)第81代安徳天皇(あんとく)所在地:山口県下関市豊田町詳しくは安徳天皇で検索~本当はここ、安徳天皇の御陵墓に行く予定は全く無かったのです。(存在すら知らなかった)前に紹介した元乃隅神社に向かっている途中に助手席から、何気に左側をボーと見ていたら”安徳・・陵・・”みたいのが見えたような・・??でも”下関の赤間神社のところのはず・?あの、耳なし芳一の~”と思いながらも瞬時に脳
こんばんはA.Sです日本の国旗の歴史について書いていきたいと思います太陽を象(かたど)った旗が用いられるようになったのは大化の改新(645年)以降といわれており、文献に初めて登場したのは797年の「続日本紀(しょくにほんぎ)」なのだそうです「続日本紀」では、文武天皇(もんむてんのう・在位697年~707年)が701年の朝賀の儀で儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとありますが、白地に赤丸ではなかったようです歴史的にみると、世界中で太陽を赤く描くことは少なく、一般的には黄色や金色で太
安徳天皇を描きました。神話ワンドロで描いたイラストです。お題が「こども」だったので安徳天皇にしました。安徳天皇といえば、源平合戦の最後の戦い「壇ノ浦の戦い」で平家が破れ、祖母に抱かれて三種の神器と共に僅か8歳で海に入水した伝承が有名です。安徳天皇って歴史上の人物だし歴史創作では??そんなツッコミが入りそうですが。安徳天皇は、山口県下関市にある神社「赤間(あかま)神宮」の御祭神です。というわけでこのイラストは平安時代の安徳天皇ではなく、御祭神の安徳天皇を創作し
またまた能登の観察会でのお話……あるお宅のお庭に植えられていたクマガイソウ(上)とアツモリソウ(下)ですクマガイソウもアツモリソウも石川県では絶滅が危惧されているランの仲間ですアツモリソウは去年、ある場所で自生しているものを見ましたクマガイソウもとある場所には自生しているようです(絶滅危惧種なので場所は書けれません……ごめんなさい)アツモリソウという名前を聞いたとき「もしかして平敦盛からかな?」とは思ったのですがそのあところっと忘れていて今回クマガイソウというのもあることを
【追記】はじめに書かせて頂きます、コメント欄で心霊系の視える方が身内にいらっしゃる笑里さんという方から「感じる力のある方は弁財天様の所以外には近づかない方がいい」ということを教えて頂きましたということで、「幽霊」や「怨霊」とかそっち系の良くないモノを感じてしまうという方は、弁財天様の所以外は行かないほうがよさそうです貴重な情報をありがとうございますこんばんはぴよぴよ侍です今回は、国の名勝にも指定されている、和歌山県の三段壁洞窟に鎮座されます日本最大の弁財天様『牟婁大弁財天』様についてご紹
石川県心霊スポット旧無患子トンネル↑からの続きです。いやぁ~なかなかの怖さのトンネルでした。そして次なる心スポは・・・↓↓↓心霊スポット巡り第49話!富山県小矢部市にある倶利伽羅古戦場跡地(倶利伽羅峠)へGO!ちょうど石川県と富山県の県境のようですね。↓↓↓富山県に入りました!って、冬季通行止。。ということで、途中にあった倶利伽羅公園駐車場まで引き返しました。ここへ車を停め、あとは歩いて探索します。ちなみにここは石川県の模様です。ん?倶利伽羅
尾上の手前、湖北町今西から撮影した山本山城である。標高325m。独立した山のように見えますが、賤ヶ岳から南方に延びる尾根の南端に位置しています。源義光の5代あとの山本義経の本拠地です。義光は源氏中興の祖八幡太郎源義家の弟です。山本義経は、本名源義経。源平の争乱期に関白九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の事績を記した『吾妻鏡』に登場する武将です。もちろん源頼朝の弟、源九郎義経とは別人です。同じ時期に同姓同名の源義経が二人いたので、「二人の義経」といわれ、その片方として知られています。
こんにちは。ハイ・パイン・サンキュー!です。いつもとなりのかがわさんをお読みくださり、ありがとうございます。暖かくなったと思うと、また寒くなり、また暖かくの繰り返し。高松の桜が開花したそうなので、いよいよ春がきたというかがわです。いつかはそこを訪れたことをまとめて書いてたいと思っている場所があるのですが、今回はその一つです。しかしながら、驚いたことに今回の高松平家物語歴史館は、この記事を書いている時点で閉館してしまっています。弊館こと、来る平成31年3月24日を以って諸般の
2018年3月18日屋島観光を続けます。かわら投げをした「獅子の霊巌」から時計回りに歩きます。屋島城跡と書かれた立て札がありました。屋嶋城は、香川県高松市の屋島に築かれた日本の古代山城です。南北嶺の山上全域が城跡とされていいて、山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれていました。最近再現されたらしいので、ここもウォッチしてきましたよ。(その様子は後日ご紹介します)新屋島水族館もありました。新屋島水族
こんにちは。ハイ・パイン・サンキュー!です。いつもとなりのかがわさんをお読みくださり、ありがとうございます。晴れたかと思えば雲が行き交い、雨のお天気に変わります。梅雨だから仕方がないのだけれど、天気予報があてにならない季節です。さて、バラのお話が続いてしまったので、次は違う内容にしたいのですが、今回は道路です。いやあ、道路なんかに興味がある人が果たしているのだろうか、と書きながら思うのですが、この道はつい最近まで歩くことは出来なかった道なので、もし屋島や人が歩いたり、自転車で
こんばんは!治承・寿永の乱、6弾目ですこれまでの話はこちらから。以仁王(もちひと-おう)の所在が園城寺(三井寺)であると公に判明したのは、検非違使らが以仁王の三条高倉の御所を捜索した翌日、治承4年(1180年)5月16日のことでした。これは園城寺の長吏(ちょうり、※1)であった円恵法親王(えんえ/えんけい-ほっしんのう)が知らせてきたことによるもので、円恵法親王という方は、後白河法皇(ご-しらかわ-ほうおう)の第四皇子、つまり以仁王の異母弟にあたる人物です。平家方は早速以仁王の身柄引