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母はスマホはそこそこ使ってましたが、写真は全然撮っていませんでした。もともとそんなに写真を撮りたがるタイプじゃなかったのもありますが…なので母のスマホ、iPadともども写真はほとんど残されていませんでした。そんな母が珍しく撮っていたものが、ベランダで育てていた植物、あと自作の夕飯の画像。夕飯画像は1回撮ったきりでしたが、花は何枚か撮影した上、LINEのアイコンにもしていました。母は百合や赤い薔薇、胡蝶蘭といった派手目な花が好きだったのですが、1番撮影していたのがこの花。
今週、遠方のいとこ(C叔母さんの子)が仕事でこっちに来たので家に寄ってくれました。C叔母さんは母の妹で、40代前半で亡くなりました。3人の子供たちが大〜中学生の時でした。その時どうやって乗り越えたのかをちょっと聞きたくもあったのですが、兄妹にはその後もつらいこと(叔父が即再婚したのが発端)があったので、聞けずに終わりました。(時間があまりなかったのもある)そして太宰府天満宮に行ったそうで、お守りをくれました。太宰府といえば学業お守りですが、「心守」というのをいただきました。真っ白で、
旦那ちゃんと結婚して、家を離れた。家族との関係はしばらく良好だった。虐待も昔のことだし、父から受けた性的な虐待も忘れかけていた。水に、流そうとしていたのかも知れない。母が死んで10年以上経った。旦那ちゃんと結婚して、6、7年経って、旦那ちゃんが倒れた。父は二度ほど見舞いに来てくれた。旦那ちゃんと離婚する時に、父と兄が保証人になってくれた。父は実印を押してくれて、兄は欠けた三文判を押して来た。欠けた判子は無効になる。他の三文判を使って、こ
25才を過ぎると、両親は結婚を勧めるようになった。家を出て離れても、支配を止めなかった。私は虐待を受けて育ったので、自分の子が産まれた時、同じように虐待をするのが怖くて、結婚したくなかった。その想いは、付き合う人にも表れていて、とても結婚なんかしてはいけない人とばかり付き合ってばかりいた。まず、働かない。酒乱で暴力的な人もいた。その人とは、殴り合いのケンカをした。顔はいつも傷だらけだった。そんな人でも、両親は結婚するように言って来た。美容師がダメなら、ト
こんにちはりぃです前回はいつ投稿したのかさえ分からなくなっています。いつの間にか有料記事もREQUはサービス終了しましたと、なっておりました。せっかく買って読んでいただいたのに放置状態になり売り上げを現金化する事もなく無くなってるさて、鬱から復活し、ブログを再開するまでに気持ちが整ってきました。元夫からの不倫から母の死これからは前に進むだけです。数年前、元夫の不倫の最中、その苦しみをブログに吐き出していました(鬱がひどくなり、今までのブログを消し
「後追い」というものがある。小さい子供が、お母さんの後を追って、姿が見えなくなると泣く。私は、どんなに邪険にされても、追い払われても、泣きながら後を付いて行ったと思う。母は、母にとって子供は、どんなに裏切っても、追い払っても、親の後を付いて来るもの、そう思っていたのだ。残念ながら、そうはいかなかった。当たり前だ。何度も泣きながら、「おかあさん」と叫んで、必死に後を付いて行き、邪険にされ、「邪魔」「忙しい」「うるさい」「一人で遊んでろ」だの言われて育ち、
小さい頃から父の虐待が激しかった。唯一の心のより所は、犬だった。父は犬を飼うことには、反対しなかった。保健所に行く犬がいると聞くと、「かわいそうだ」と言って、積極的にもらって飼っていた。昭和の良き時代、野良犬が迷い込んで来ると、近所で持ち回りでエサを上げて、飼い主さんが見付かるまでそうした。小学校に上がったばかりの頃、一匹の野良犬が迷い込んで来た。エサを上げて、近所の人で面倒を見た。近所の犬好きなおじさんが飼うことになり、しばらくすると子犬が産まれた。
二十歳になって就職をすると同時に、家を出た。仕事は一年足らずで辞めてしまった。辞めて良かった。それからは、定職に就かず、アルバイトをして食いつないでいた。お金はいつも無かったけれど、それは最初に就いた仕事をしていても薄給で同じだった。古着屋さんで見つけたチラシを頼りに、ある芸術家の集団に辿り着いた。そこでは、皆で集まり、誰が見ても見なくても関係なく、作品を作っていた。皆で考えて、コンセプトを決めて、皆で作る。話し合いの場は週に一度あり、開始時間と場
【2020年4月25日】この続きです。『母とドライアイス』【2020年4月25日(日)】自宅で母を看取りました。「右前頭葉神経膠芽腫」でした。この日のつづきです。『母、静かな最期のとき』【2020年4月25日…ameblo.jp東京の自宅近くの葬儀社に群馬まで母の搬送をお願いし、葬儀会館に到着したのは夜7時前。広い敷地に式場が2つ、親族室や宿泊用の和室が何部屋もあるような葬儀会館で、和室が二間続きの広い部屋の前に車は誘導され、母を安置してくれました。(ドライバ
悪性脳腫瘍で大切な母を亡くしました。母の看病、介護をした経験から私の感じたことをシェアしたいと思います。この問題は政策に依拠するところも多いですが、大きな議論に広げるつもりはありません。ここではあくまで一個人の経験と感想をこれから苦労する方に向けてシェアしたいと思います。したがって、そんなことみんなが言い出したら?というツッコミや議論はひとまずご遠慮願います。母が闘病していた2014年末から2018年の夏、日本においては在宅医療が推奨されており、行政のオペレーションはもちろんのこと、ネットや
蛙の子は蛙、床屋の子は床屋と言われて育って来た。4つ離れた兄は、私が高校3年生のときには、既に家を出て、住み込みで働いていた。その日は、兄が帰って来る日だったようで、「ただいま」と言って家に入ると、母が「なんだ、おまえか」と言った。「なんだお前か、じゃないよ、ただいまって言っただけだよ、おかえりも言えないのかよ」腹が立つ。こんな時母は、黙って何も言わない。ごめんなんて聞いたことがないし、言ったことがない。母は、床屋の見習いになった兄が帰って
母親がガンになって終末期を迎えた時、家族みんなで乗り切った。一致団結する義理も、面倒を見る義理もとっくに無かったけれど、死後10年以上経ったのち、父親と兄から、「看病中にお母さんの背中を蹴った」ということになっているけれど、それでも、やって良かったかなと思う。母親のやったこと、自分にしてきたこと、して来なかったことは、今思い返しても、腹が立つし、なんであんなのが親なんだろうって何度も思ったし、あんなのが親じゃなかったら、苦労が少なくて済んだと
どんな親でも親は親で、いつも絶望しながら期待してしまう。温かい家族、明るい家。話しかけたら、手を止めて、目を見て、話を聞いて貰いたかった。いつも、話しかけると、「うるさい」「あっちへ行け」「忙しい」と言われて、話なんて聞いて貰えなかった。暴力や支配と反対にある、尊重と尊敬と、思いやりと。そんな家、そんな家族を、平気で暴力を気分次第で振るう父、それに対して無関心な母、意地悪な兄、私の4人で。父や母があんなんじゃなかったら、兄は優しかったのかも知れない
ミッサ-行くさ-楽しい未来へ母の死からやっと一歩が踏み出せた美彩子です笑3月20日12時6分宇宙元旦を迎え、娘達は婚姻届を提出し、新しい生活をスタ-トさせました。式はそのうち。病を患っていた母に見せたくて,お年玉企画のフォトウェディングを申し込んでいましたが、母に見せることは叶いませんでした『予想外の気持ちと宇宙元旦✩。✧*✩.*˚』ミッサ-行くさ-明るい未来へと言いつつこの1ヶ月以上、時が止まってしまっていた美彩子です先月2月14日午前3時53分、享年84歳で母が永眠致しました母は間
今でも時々、怒られる夢を見る。夢の内容は決まって、「こんな時間になっても雨戸を閉めていない」という理由で怒られている。小さい頃、いつも、いつ捨てられるかビクビクしていた。「お前みたいな悪い子は捨ててやる」といつも言われていたからだ。そんなことを言われるような悪いことをした覚えは、全くない。小さい頃、よく捨てられる夢を見ていた。母と繁華街へ行く。母は急に「もうあんたの母親止めた、お母さんは今日からここでマネキンになります。一人で帰りなさい」と言われ、
父は、30年以上前に他界し、母は、来月一周忌。私は50代半ばです。最近、心掛けているのは、楽しくなくても楽しげに生きるということ。亡くなった両親や、命を繋いでくださった御先祖様への感謝と供養。生かされている私。大切にします。見守っていてくださいね
小さい頃、父は私達に、「どこへ出してもかわいいと思って貰える子になって欲しい」と言って殴った。それが、父の私達を殴ってもいい理由だった。兄も私も学校の中でのヒエラルキーはとても低かった。大事に愛情を持って育てられた子とは、大違いだった。一緒に渡り歩けるわけがない。何かしようとして失敗すれば、「仕事を増やして」と怒られ、何もしないでいると、「言われないと何もできない」と言って怒られた。率先して何でもできる失敗なんか絶対にしない子、を求めら
虐待という過去を乗りこえ、再び近づこうとしていた母と子の距離。ところがそこに、母が「事故死した」という知らせが入る。衝撃のさめやらぬたいじに遺されたのは、多額の借金。しかも、母の死が「自殺」だと保険会社に判定されてしまい、窮地に陥るたいじ。追いつめられたたいじがとった選択とは!?虐待サバイバーが力強く生きぬき、幸せを掴むまでの実話ストーリー。映画化もされ、大反響の『母さんがどんなに僕を嫌いでも』続編!前作「母がどんなに僕を嫌いでも」で、歌川たいじは母と和解することが出来たけど、ある日最愛の
父の虐待から生き伸びて、生きて家を出ることが、小さい頃の目標だった。そこに、「夢」というものを抱く余裕はなかった。小3の時、国語の授業で「将来の夢」という題で作文を書くことになった。端から発表され、皆の夢にびっくりする。・スチュワーデス(とは今言わないですね)・会社の社長・プロ野球選手・デザイナー・モデル・発明家・医者・看護婦(今は看護師と言いますね)・ケーキ屋さん・幼稚園の先生などなど皆の描く夢は自由
ピッコマで漫画配信中!「ぎふてっど」で検索オンラインサロンへのご参加もお待ちしています♪オンラインサロン/コミュニティ運営ならYOOR「ユア」YOORは、オンラインサロン専用トークルームを完備した、コミュニティやファンクラブ、オンラインレッスンの場として利用できるプラットフォームです。yoor.jp私が病院にひと月以上滞在していた頃、医師から「今日、明日が山場だ」と言われました。そこで叔母の家を出て、再び個室のソファーで24時間待機し、状況を見守り
小さい頃、寝る時間になっても寝ない、布団の中に入っても、眠っていない、という理由だけで怒られていたので、小さい頃から、寝たフリをする、ということが身に付いていました。それにより、嫌なことも嫌と言えなかった。嫌と言えば起きていることになり、怒られる、という思いから、寝たフリをすることが刷り込まれていました。家は床屋で、住居と店が一緒になったとても小さい、オンボロい家に住んでいました。その店で、父の妹も一緒に働いていました。いつからか、休みの
お母さんに会いたくて寂しい気持ち、お母さんが辛かったのを思い出して悲しい気持ち、色々後悔してる悔しい気持ち、いろんな辛い気持ちを紛らわせるために考えることがある。お母さんはわたしのことすごく大切に思ってくれてたから、お母さんよりわたしが先に死んでたらものすごく辛い思いをさせてたはず。そうならなくて良かった。みんな順番に亡くなっていくんだ。誰もが親を失う経験をするんだ。その経験をするのが少し人より早かっただけだ。逆に言えば、この先母を失くすという辛さをもう経験しなくてすむん
父に電話をすると、全く理解して貰えなかった。「お母さんが死んだときの相続税がかかるの?」と言っている。「お父さん、あなたが死んだときの話をしている」と言う。もう一度伝える。「家と土地と父の預貯金を合計して、相続税の対象になるようだったら、その余分な分を、生前贈与しませんか?」相続税を払うことになると、兄が大変になる。兄にとっても良い話だ。もちろん対象の金額よりも下回れば、問題が無い。お金の話をしたことで、父の態度が急変する。なにか、金をむしり取られ
癌になったことをどう、子供に伝えるか癌専門病院で冊子をいただいた。未成年の子どもがいるがん患者・家族支援|国立がん研究センター中央病院www.ncc.go.jp私の場合子供が小さいので物心つくまえからがんと一緒の生活になる。冊子の中には子供は「自分のせいでがんになった」と理解してしまう子供もいるとかかれていた。うちは、子供にもがんであることは伝えている。そのうちベラベラ喋らないかしら。(そのことは当時あまり考えてなかった)そもそも死に対しての子供の理解力はどれほどな
お役所関連の手続きが終わったら次は民間サービスの解約手続きです。こちらは手続きせずに放っておいても誰も文句は言ってきませんが、停止するまで、お金は黙って引き落とされ続けていきます。コワイコワイ、、(^-^;最低過去一年分の引き落とし状況を母名義の通帳で確認しておきます。母は住宅型有料老人ホームに入居していたので、月々の支払いで一番金額が大きいのはホームの利用料でした。その中には、・部屋で使用した光熱費(電気・水道)・食費も含
父が倒れても、兄が倒れても、面倒を見ないことを決めた。見舞いにも葬式にも行く必要がない。全くない。倒れて面倒を見たところで、後から「蹴られた」と言われては、たまったものじゃない。私は、母がいよいよを持って動けなくなった時、感謝されるほど働いた。自分が寝る時間は、3~4時間だった。甲斐甲斐しく世話をした。それなのに、母に苛立って「蹴った」ことになっていた。蹴ってはいない。背中が痛かった母のせん妄だと思う。実際母のせん妄は、酷かった。私の名前を忘
母はガンになる前に、突発性の難聴になった。私も兄も家を出て行き、母と二人になると、父のストレスのはけ口の対象が、結婚当初のように、母に戻ったのだ。一日のうちで何か、母が父の思うように動かなかった、という「失敗」があると、ネチネチと何時間でも同じことを執拗に繰り返して言う。母は耐えられなかったのだろう。聞きたくなくて難聴になった。手術をしても治らない程、穴が開いていて、片耳は完全に聞こえなくなっていた。母は、乳がんだった。左にできた。左脇のリンパまで行っていたの
こんにちは、世界を飛ぶパラレルキャリア乗務員YACHIです!(初めての方⇒プロフィールインタビュー動画))YACHIってどんな人?今年の桜は、遅かったですね。3月後半のフライトでヨーロッパのお客様少々残念そうでした。去年は、思いがけず3月20日ごろのフライトまさか見れると思っていたなかった桜が見れて嬉しかったのを思い出します。私の備忘録となりますが少し綴りたいなっと思ってます。時間が経ってしまっているけど、な
この時間、お腹がすいてきたみささんでございます。おやつ食べたい!食べたくない!食べたい!と、葛藤しております。自分に甘くしろ~って思うんですけどね!でも、夕食をおいしく頂きたいから少しの我慢。でも夕食をどこかに食べに行こうか迷っていて、どこに行こうか決まってないんですけどね。って前置きが長くなったのですが、昨日、なぜか急に気持ちがアップしたんです。それはなぜかというと、自分の心に素直に従ってるから!!だから今日、楽しくて仕方がないの
兄との電話で、何かの話の流れで、「普通の家族だったらこうする」と言うと、「うち普通じゃないから」と兄が言う。「普通だったの」「普通じゃない」「普通だったのよ、私もお兄ちゃんも、あんなに殴られたら普通でも普通じゃなくなる」と言うと、「昔のことは、水に流せよ」と言うので、「性的な虐待もあった」と初めて言ってみた。流そうと思っても、思い出してしまう。小さい子供を見ると、よくこんな小さい子に、と思って辛くなる。まぁ、面倒な話を持ち掛けて悪