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『自分が死んでしまったらこのコは一体どうなるんだろう、、』母は障害のある兄のことをそんな不安を抱えながら死ぬまで子育てし続けたのかもしれません。「だから私は元気で、少しでも長生きしないと、、」そう思いがんばり続けていたのかな言い方を変えれば、だからこそ、母は年の割にしっかりしていたのかもしれません。小さい頃、母からはよく「たった二人のきょうだいやから仲良く助け合ってね」と言われていました。でも私は、自分よりも
大切な人の大切なお母様が亡くなられた。で、私は、泣いた。当たり前に年を行けば、なくなるけれども、體はなくなっても、魂は生き続けるって思っているけど、呼べば、近くに感じることを理解していても、死は悲しいなーって思う。で、泣く。死が近くにあることで、感じるのは、私の命の使い方。昔は、産まれることも死ぬことも、近くにあったはず。それが、現代では、産まれるも死ぬも病院の中が多いけど、たまたま、自宅療養でなくなられた大切な人のお母さんを感じ、そし
ウチの家は床屋で、父が髪を切ったり、パーマをかけたりしている間、母が顔を剃ったり、頭を洗ったり、その他のことをしていました。小学校に上がる前、かなり小さい頃から、私達兄弟は、店の手伝いをさせられていました。床に落ちた髪の毛を掃いたり、お店が終わった後、「前流し」と呼ばれる、お客さんの頭を洗うところを、スポンジで洗うのが私の仕事で、椅子を拭くのが、兄の仕事でした。洗濯したタオルを洗って干すのも、子供たちの仕事で、店が混んで遅くまでやっていると、当然後片付け
母がガンと診断されてすぐに入院になった。手術の日は、私と兄が立ち会った。父は仕事を休まなかった。何時間に及ぶ手術だったか覚えていない。研修生だという看護士さんが、談話室でお茶を入れてくれて、和ますためなのか、いろいろ話をしてくれたのを覚えている。手術が終わったあと、全身麻酔が切れるまで水が飲めなかった。喉の渇きを訴えていて、辛そうだったのを覚えている。なのでそれからというもの、手術を控える人に会うと、「手術前はお水を飲むといいよ」と伝えるようにしました。
父と母が障害のある兄のために残してくれた兄がこれから生きていくためのお金それは、今後の生活費であったりいずれ誰もが必要となる医療や介護の費用ともなりうるお金でした。兄は自分名義の銀行口座をいくつか持っていましたが今までのものと一緒にしてしまうと「知らん間になくなってたー」となっても困るので新たな口座を作ることにしました。(兄は使うより貯めることが趣味のような人なので誰かに騙されたりしない限りはたぶん大丈夫なんですけどねー)
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小さい頃、寝る時間になっても寝ない、布団の中に入っても、眠っていない、という理由だけで怒られていたので、小さい頃から、寝たフリをする、ということが身に付いていました。それにより、嫌なことも嫌と言えなかった。嫌と言えば起きていることになり、怒られる、という思いから、寝たフリをすることが刷り込まれていました。家は床屋で、住居と店が一緒になったとても小さい、オンボロい家に住んでいました。その店で、父の妹も一緒に働いていました。いつからか、休みの
四十九日法要のお坊さんの手配を依頼した翌日、葬儀の時にお経をよんで頂いたお坊さんから電話がかかってきました。(お坊さん)「四十九日法要の確認のお電話をさせて頂きました。当日私が先に予定が入っておりまして同じ寺から別の者がお参りさせて頂きます」(私)「よろしくお願いします。場所はおわかりになりますか?」(お坊さん)「はい、ご自宅ですよね。何かご不明な点やご心配なことはございますか?」(私)「”過去帳”をまだ書
小学校の運動会の前は、いつも気持ちが落ち込んでいた。両親は絶対に見に来てくれなかった。理由は「仕事があるから行けないに決まっている」だった。問題は、お昼ごはんの時、校庭で食べなければならないこと。昭和だからか、私が通っていた地区だけなのかは分からない。校庭に、親たちが、大きな敷物を敷いて、三段重ねの重箱まで持って応援に来るのだ。両親と祖父母まで来ているところもあった。友人に頼んで、家族の和に入れて貰ったことがあった。高学年になると教室で食べた
母の最期は、抗がん剤が効かなくなり、腹水が溜まって来た。手足はガリガリで、お腹は大きく、髪は抜け、餓鬼みたいだった。私は、自然治療の本を片手に、コンニャク湿布、しょうが湿布、豆腐湿布、スギナ湿布、いろんな手当をした。母は、寝ているのに、「眠れない」と言うようになった。寝ているのに、寝た気がしないようだ。昔のことは忘れて、治療に専念した。少しの明かりでも「眩しい」と言うようになった。腹水を取るために、ヒガンバナの根っこが良いというの
今朝の最低気温は6,4度、最高気温予想は15度、天気予報は曇り後晴れです。今日は2023年4月18日にTV録画保存した『ポネット』を視聴しました。予告編動画https://youtu.be/-TG6HNYWPXw解説、https://ja.wikipedia.org/wiki/ポネットよりポネット(Ponette)は1996年のフランス映画である。概要4歳にして母親を失った幼女ポネットが『死』という概念を理解し、母の死を乗り越えてい
今でも時々、怒られる夢を見る。夢の内容は決まって、「こんな時間になっても雨戸を閉めていない」という理由で怒られている。小さい頃、いつも、いつ捨てられるかビクビクしていた。「お前みたいな悪い子は捨ててやる」といつも言われていたからだ。そんなことを言われるような悪いことをした覚えは、全くない。小さい頃、よく捨てられる夢を見ていた。母と繁華街へ行く。母は急に「もうあんたの母親止めた、お母さんは今日からここでマネキンになります。一人で帰りなさい」と言われ、
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市役所の「市民相談」に行った後教えてもらった『税理士会』の事務所がすぐ隣のビルの中にあったので立ち寄ってみることに。(このご時世アポもとらずにスミマセン)昨日からの続きです↓『市役所の市民相談で税理士さんに会ってみる』「相続」のことを誰かに相談したいけど誰に相談したらいいんやー問題。➀知り合いにの知り合いに、そのまた知り合いの税理士さんを紹介してもらう(もはや知り合…ameblo.jpピンポーン♪ドアの横のインターフォンを押すと中から一人の女性が
私が結婚した時に母がくれた手紙には「幸せって自分で作るものだと思います」という言葉が記されていました。「死ぬ瞬間、幸せな人生だったと思って死にたい」とも言っていました。そして私と妹に向けた最後の言葉は「強く生きるんだよ。幸せにね」でした。幸せって何だろう。苦しいって何だろう。「幸せ」って概念に執着するから余計苦しくなるんじゃないかな。物事って片方から見たらとんでもないように見えても、別の方向から見たら全く逆の形に見えたりします。でも「苦しい」
こんばんは。あなたのココロに灯りを。母ロスヒーラーかのんです。愛する人を失うと現実が見えなくなる。こんなことも出来なかった。あんなことも出来なかった。本当はもっとこうしたかったのに。本当はもっとああしたかったのに。あのときこうしていたら。あのときああしていたら。私がいけないんだ。私がダメなんだ。そんな想いがとめどなく溢れてくる。出口の見えない迷路のように次から次へと溢れてくる。でもね。それって本当?愛する人にしてあげたかったのに出来なかっ
私が利用することにした「法定相続情報証明制度」もうちょっと簡単なネーミングにしたら利用する人も増えるのではないかと思うのですが、、(^-^;2017年に新しく始まった制度で父が亡くなった13年前にはまだありませんでした。市役所にもこんなポスターが貼ってます(法務省HPより)これまで相続関連手続きを行うとなると手続きごとに、各銀行などから故人の「出生から死亡までの戸籍謄本」を用意するように言われ、手間や時間もかかりました。
「母の棺(ひつぎ)に入れてあげよう」少し前からそう思っていたものがありました。それは、母がとても大切にしていた人形でひな祭りには箱から出して毎年飾っていた人形です。母が母のお母さんからもらったものらしく手作りの着物を着せていました。実家を片付けた後も、施設の部屋で大切に葬儀社との朝の打ち合わせでそのことを伝えると(葬儀屋さん)「火葬場に中に入れたものをすべて申請しなくてはいけないので、お人形はちょっと難しいです。全体
こんにちは✨ゲーム大好き、化粧品大好き、(オシャレじゃないけど)オシャレも好き、料理もお菓子作りも好き(片付けは苦手)な主婦トッチ〜です。夫と息子と娘の4人家族ずっと治したかった🦷アラフォーですが2023年4月から歯列矯正スタート▶️(私)そしたらまさかの息子も秋から矯正スタート予定🫠💸自分も色々とブログやSNSで矯正の情報を調べていたので、忘備録として矯正の事も書いていきたいと思います。『いまだに信じられないが母が交通事故に遭う。』こんにちは✨ゲーム大好き、化粧
先日、胃がん闘病中だった母が亡くなりました。昨年6月に見つかってから1年弱でした。胃がんだと思っていましたが十二指腸癌でした。希少がんで予後が悪い癌でした。1年のうちに何度か入院しており、今回も熱が出やすく食事量が減っていたため入院していました。本人も今までと同じく退院する気満々で抗がん剤治療もまだまだ頑張る気でした。主治医も亡くなる3日前までそのように考えていたらしいです。ところが急激に悪化しました。遠方に住んでる私は最期にギリギリ間に合い会話もできましたが、さらに遠方に住んでいる
父は、自分の息子と娘を、理容師か美容師に仕立て上げ、家族経営で理美容、どちらもできる店を作るのが夢だった。そのために、100坪の土地を買っていた。私が小3の時は、もうその土地があった。将来、子供が後を継ぐとも限らないのに、父の妄想は暴走していた。子供のためなんかじゃない。子供がそれを、やりたいかやりたくないか、なんて関係ないのだ。父にとって子供は自分達の道具で、好きにしていい所有物だからだ。どんなに小さいことでも反抗すれば、暴力を振るい、虐待をし、
母が亡くなった後にやる大切なことの一つに■STEP5残された家族の生活を整えることがありました。そう、一人残された「兄の生活を整えること」です。きょうだいとはいえ、私には兄が「母の死」をどう受け止めているかということまではわかりませんでした。もちろん寂しいし、悲しいだろうけど兄は母の看取り期にも葬儀の間も思ったことをほとんど口にださなかったし泣くこともありませんでした。私の兄は、30歳を過ぎてから障害者認定を受けて高
市役所ではできなかった手続きで急いでやらなければいけないものに年金の停止手続きがありました。この手続きが遅れると、亡くなった人の年金が支払われてしまって今度は返還の手続きをしなければなりません。市役所での様々な手続きはこちら↓『市役所の中をグルグルまわって手続きする』母の「出生から死亡までの戸籍謄本」について電話で問い合わせをし、法務省のHPを見ながら②「『法定相続一覧図』の作成はもうちょい落ち着いてからにしよう、、…ameblo.jp市役所は自転
母の葬儀・火葬が終わった後もう一つ兄をグループホームまで送り届ける仕事が残っていました。自宅で息子を一旦下ろし、秒で着替えた後、母の遺骨や他の荷物は車に積んだまま旦那と一緒に兄貴を部屋まで送り届けます。私の軽自動車も葬儀会場の駐車場に停めっぱなしだったので帰りは旦那と二台に別れ自宅へ戻ることになりました。私が水色の軽自動車の助手席に母の遺骨・遺影・白木の位牌を乗せると旦那がシートベルトをかけてくれました。母をこの車に乗せて外出するとき
兄は意地悪だった。愛情を受けずに育つと、そうなるのかも知れない。小さい頃からケンカばかりしていた。小3で引っ越すまで、家と小学校が近くにあった。登校班で一列になって学校へ歩いて行く。その日は月曜日で、給食着が入った給食袋を持って登校した。小学校まであと少しというところで、先頭を歩いていた兄が、急に「あっ」と声を上げて、今来た道を走って戻って行ってしまった。その時は、何があったのかは分からなかった。その日、兄と私が持った給食袋が、逆だった。兄のを私が
25才を過ぎると、両親は結婚を勧めるようになった。家を出て離れても、支配を止めなかった。私は虐待を受けて育ったので、自分の子が産まれた時、同じように虐待をするのが怖くて、結婚したくなかった。その想いは、付き合う人にも表れていて、とても結婚なんかしてはいけない人とばかり付き合ってばかりいた。まず、働かない。酒乱で暴力的な人もいた。その人とは、殴り合いのケンカをした。顔はいつも傷だらけだった。そんな人でも、両親は結婚するように言って来た。美容師がダメなら、ト
私の母は昨年突然この世を去りました。原因は風邪をこじらせてです。病名はありますがここでは伏せさせていただきます。ただの風邪だと思っていたらあっという間に…一年たった今でも信じられません。心に蓋をして考えないようにしていますがふとしたときに涙がでます。今も精神的に参っているんだと思います。いなくなりたい、もう生きるのがつらい。なんのために私はいるのか。等々無意識に考えていたり。でも私は娘であり、母でもあります。こんな思い(をしてくれるかはわかりませんが)を子供にさせたくはないと子供のた
以外と多いみたいです。こんな悩み。私は両親から虐待を受けて育ち、それが虐待と気付かないほど、暴力が日常に溶け込みすぎていました。それ、虐待だよ、って誰かに教えてもらう機会がないと分からない。暴力が日常にあると気付かない。だいたい、小さい頃、「虐待」という言葉を知らなかった。性教育の知識がないと、性暴力に遭っても、それが何なのか分からないように、暴力も分からないのです。親戚の間では、「躾が厳しい家」として知れていました。あれは、暴力であって、躾なんかじゃな
小さい時、よくおしっこを漏らした。お漏らしは、父の暴力の対象外だった。単に眠かったのかも知れない。夜中にお漏らしをすると、隣の部屋で寝ている母を呼んだ。小さい声で「お母さん」と呼ぶと、起きて来てくれて、パジャマを着替えさせたり、布団を取り替えたりしてくれた。毎晩のようにあまりにもお漏らしをして、本人も気にしているので、「ノンタンおねしょでション」という絵本を買ってくれた。その本は、他のおもちゃのように拾ってきたような汚れたものではなく、誰かのお下がりでも
ピッコマで漫画配信中!「ぎふてっど」で検索オンラインサロンへのご参加もお待ちしています♪オンラインサロン/コミュニティ運営ならYOOR「ユア」YOORは、オンラインサロン専用トークルームを完備した、コミュニティやファンクラブ、オンラインレッスンの場として利用できるプラットフォームです。yoor.jp母の葬儀は宗教葬でした。新興宗教の仲間が葬儀を取り仕切るので、宗教名簿から外れたと断言している私は何もすることがありません葬儀の準備の時、義兄が私の会っ