ブログ記事8,330件
蛙の子は蛙、床屋の子は床屋と言われて育って来た。4つ離れた兄は、私が高校3年生のときには、既に家を出て、住み込みで働いていた。その日は、兄が帰って来る日だったようで、「ただいま」と言って家に入ると、母が「なんだ、おまえか」と言った。「なんだお前か、じゃないよ、ただいまって言っただけだよ、おかえりも言えないのかよ」腹が立つ。こんな時母は、黙って何も言わない。ごめんなんて聞いたことがないし、言ったことがない。母は、床屋の見習いになった兄が帰って
初期の苦しみ・・・・これって何の病気??初期の症状は、非常にわかりにくかった。一番おかしいと感じたのは、勤め先の展示会に来てくれた前の会社の上司が、仕事終わりに連れていってくれたバーで起った。ファッション業界なので、お店もコジャレている。カウンターの席は、ひと続きの幅の狭い椅子だった。座って居られなかった。。。。前後に身体が揺れて、どっちかに落ちてしまいそうなんだ。実際には身体の揺れは自分の中だけで起きていて、相手にはわからないようだったが。。。もう、そうなると気もそぞろで、早く帰り
母がガンと診断されてすぐに入院になった。手術の日は、私と兄が立ち会った。父は仕事を休まなかった。何時間に及ぶ手術だったか覚えていない。研修生だという看護士さんが、談話室でお茶を入れてくれて、和ますためなのか、いろいろ話をしてくれたのを覚えている。手術が終わったあと、全身麻酔が切れるまで水が飲めなかった。喉の渇きを訴えていて、辛そうだったのを覚えている。なのでそれからというもの、手術を控える人に会うと、「手術前はお水を飲むといいよ」と伝えるようにしました。
ピッコマで漫画配信中!「ぎふてっど」で検索オンラインサロンへのご参加もお待ちしています♪オンラインサロン/コミュニティ運営ならYOOR「ユア」YOORは、オンラインサロン専用トークルームを完備した、コミュニティやファンクラブ、オンラインレッスンの場として利用できるプラットフォームです。yoor.jp義父の蒸発した話も空耳で聞き流し、過去とはキッパリ決別した私しかし、母の魂は故郷から遠く離れた地で暮らす私についてきました私、霊感は全くありませんが
どんな親でも親は親で、いつも絶望しながら期待してしまう。温かい家族、明るい家。話しかけたら、手を止めて、目を見て、話を聞いて貰いたかった。いつも、話しかけると、「うるさい」「あっちへ行け」「忙しい」と言われて、話なんて聞いて貰えなかった。暴力や支配と反対にある、尊重と尊敬と、思いやりと。そんな家、そんな家族を、平気で暴力を気分次第で振るう父、それに対して無関心な母、意地悪な兄、私の4人で。父や母があんなんじゃなかったら、兄は優しかったのかも知れない
先日、胃がん闘病中だった母が亡くなりました。昨年6月に見つかってから1年弱でした。胃がんだと思っていましたが十二指腸癌でした。希少がんで予後が悪い癌でした。1年のうちに何度か入院しており、今回も熱が出やすく食事量が減っていたため入院していました。本人も今までと同じく退院する気満々で抗がん剤治療もまだまだ頑張る気でした。主治医も亡くなる3日前までそのように考えていたらしいです。ところが急激に悪化しました。遠方に住んでる私は最期にギリギリ間に合い会話もできましたが、さらに遠方に住んでいる
1年前の記事が出てきました。まだ母と向き合っていた時です。母が逝ってから何度も何度も同じような事を書いてきました。親子間の、特に母と娘は職場や学校での人間関係にも似ています。特に、毒親と言われる親子間で生きてきた人は大きく首を縦に振るかもしれません。母と娘、ではなく主従関係師弟関係上司と部下と言った感じです。それは、物心ついた時から沁みついています。部下が何かやることに意見を出す上司。それに沿わない仕事をすると上司の機嫌が悪くなる。
『母は膵臓癌で永眠しました②』『母は膵臓癌で永眠しました』『母が膵臓癌になりました53』『母が膵臓癌になりました52』『母が膵臓癌になりました51』『母が膵臓癌になりました50』『母が膵臓…ameblo.jp母が永眠して10日が経ち徐々に普段通りの生活がおくれていますまだ完全復活とはいかずふとした瞬間に涙が出たり毎日👩母👩を思い出します今日、仕事に行ったら同僚から御香典をいただいてしまい朝から泣きそうに🥺しかも皆の気持ちだから少しだけど絶対にお返し要らないからねーと言
こんばんは。あなたのココロにぽっと灯りを。。。かのんです。何の役にも立っていない。生きている価値なんて何もない。私なんていてもいなくてもどっちでもいい。それって本当ですか?お家は人が住んでいないと朽ちやすいです。誰かが風を通して陽の光を入れて手をかけるから長持ちします。お花や植物はどうですか?誰かが水やりをしたり夏には木陰へ冬には室内へと温度管理もして誰かが手をかけているから元気に育ってくれます。家具や家電はどうですか?車や自転車はどうですか?本
母の最期は、抗がん剤が効かなくなり、腹水が溜まって来た。手足はガリガリで、お腹は大きく、髪は抜け、餓鬼みたいだった。私は、自然治療の本を片手に、コンニャク湿布、しょうが湿布、豆腐湿布、スギナ湿布、いろんな手当をした。母は、寝ているのに、「眠れない」と言うようになった。寝ているのに、寝た気がしないようだ。昔のことは忘れて、治療に専念した。少しの明かりでも「眩しい」と言うようになった。腹水を取るために、ヒガンバナの根っこが良いというの
父に電話をすると、全く理解して貰えなかった。「お母さんが死んだときの相続税がかかるの?」と言っている。「お父さん、あなたが死んだときの話をしている」と言う。もう一度伝える。「家と土地と父の預貯金を合計して、相続税の対象になるようだったら、その余分な分を、生前贈与しませんか?」相続税を払うことになると、兄が大変になる。兄にとっても良い話だ。もちろん対象の金額よりも下回れば、問題が無い。お金の話をしたことで、父の態度が急変する。なにか、金をむしり取られ
暴力を小さい子供にふるって良い理由なんてひとつも無い。殴られると脳が委縮し、青くなり、学習することよりも、傷を癒す方に体力を消費する。家を出て、母に帰って来いとしつこく言われ、しぶしぶ日帰りで帰った時、父に「お父さんが頭を殴ったから、私の頭は悪くなった」と、たどたどしく、でも精一杯伝えようとした。父は、「何言っているんだ?人のせいにするな。子育てに正解はない。100%正しい親なんてどこにもいない」と言った。父は、今80歳を超えている。現役で仕
小さい頃から父の虐待が激しかった。唯一の心のより所は、犬だった。父は犬を飼うことには、反対しなかった。保健所に行く犬がいると聞くと、「かわいそうだ」と言って、積極的にもらって飼っていた。昭和の良き時代、野良犬が迷い込んで来ると、近所で持ち回りでエサを上げて、飼い主さんが見付かるまでそうした。小学校に上がったばかりの頃、一匹の野良犬が迷い込んで来た。エサを上げて、近所の人で面倒を見た。近所の犬好きなおじさんが飼うことになり、しばらくすると子犬が産まれた。
長くひきこもっておりました。母が昨年亡くなってから。食品や日用品などは、買い出ししますが、服や本は、ネットで。クレジットカードの支払い、便利ですよね。だけど、上手に利用しないと、恐ろしい額に😅やはり基本は、現金で。リアルな人間関係も大切にしたい。今は、そんな心境です🤗
こんばんは。あなたのココロにぽっと灯りを。。。かのんです。最近テレビを観ながらよく笑うようになったなぁと思います。以前はバラエティ番組を観ても面白くないわけじゃないけれどだからと言ってガハハと笑うでもなくクスッと軽く笑う感じでした。それがこのところ気がつけば声を出して笑う自分がいてそんな自分に自分が驚いています。お母さんを失ってしばらくはバラエティ番組を観ることはまずなかったし笑いに感情が向かうこともなく何より笑うことそのものを自分に禁じていました。笑
両親の言っていること、やっていること、考えていることはいつも全く理解できなくて、混乱していた。物の道理というものが全く分からない大人達だった。大人で働いていて、子供よりも経済力がある、というだけで、子供よりも偉くなってしまう。子供を訳の分からない理屈で、時に暴力で支配してしまう。中学1年生のときに、夏休みに登校日があった。工作をするのに、ハサミが必要になった。紙を切る、普通のハサミ。今なら100均があるけれど、その当時100均は無かった。家にある物は
小さい時、よくおしっこを漏らした。お漏らしは、父の暴力の対象外だった。単に眠かったのかも知れない。夜中にお漏らしをすると、隣の部屋で寝ている母を呼んだ。小さい声で「お母さん」と呼ぶと、起きて来てくれて、パジャマを着替えさせたり、布団を取り替えたりしてくれた。毎晩のようにあまりにもお漏らしをして、本人も気にしているので、「ノンタンおねしょでション」という絵本を買ってくれた。その本は、他のおもちゃのように拾ってきたような汚れたものではなく、誰かのお下がりでも
就職して家を出ると、母の執拗な執着が顔を出した。休みの日には家に帰って来るよう言われてしつこかった。帰りたいと思う家なら、言われなくても帰る。「また帰って来たの?」と言われるくらい帰る。帰ってくるようにしつこく言う前に、帰りたいと思われる家、温かくて尊重と尊厳と、思いやりがある家を築いていたら、どうなの?と思う。手遅れなんだよ。一生懸命話しかけたよ、温かい家にしようと頑張ったよ、今までほっといた癖に。話も聞こうとしなかった癖に。父
「今度入院になったら、家には戻れない」と医師から言われた母は、最後の最後まで家で過ごすことを望んだ。亡くなる2週間前まで、夜ご飯を作っていて、それができるかできないか?を体調のバロメーターにしていたようだ。2週間前、最後に作ってくれた料理は、鶏肉のチャーシューで、保存食だった。鍋一杯に作って、冷凍してくれていた。自分の死期が近いことを分かっていたのだと思う。尿瓶を買いに行き、帰って来たら吐血していた。それを見てびっくりした母が、病院行きを決めた。救急車を
二十歳になって就職をすると同時に、家を出た。仕事は一年足らずで辞めてしまった。辞めて良かった。それからは、定職に就かず、アルバイトをして食いつないでいた。お金はいつも無かったけれど、それは最初に就いた仕事をしていても薄給で同じだった。古着屋さんで見つけたチラシを頼りに、ある芸術家の集団に辿り着いた。そこでは、皆で集まり、誰が見ても見なくても関係なく、作品を作っていた。皆で考えて、コンセプトを決めて、皆で作る。話し合いの場は週に一度あり、開始時間と場
25才を過ぎると、両親は結婚を勧めるようになった。家を出て離れても、支配を止めなかった。私は虐待を受けて育ったので、自分の子が産まれた時、同じように虐待をするのが怖くて、結婚したくなかった。その想いは、付き合う人にも表れていて、とても結婚なんかしてはいけない人とばかり付き合ってばかりいた。まず、働かない。酒乱で暴力的な人もいた。その人とは、殴り合いのケンカをした。顔はいつも傷だらけだった。そんな人でも、両親は結婚するように言って来た。美容師がダメなら、ト
以外と多いみたいです。こんな悩み。私は両親から虐待を受けて育ち、それが虐待と気付かないほど、暴力が日常に溶け込みすぎていました。それ、虐待だよ、って誰かに教えてもらう機会がないと分からない。暴力が日常にあると気付かない。だいたい、小さい頃、「虐待」という言葉を知らなかった。性教育の知識がないと、性暴力に遭っても、それが何なのか分からないように、暴力も分からないのです。親戚の間では、「躾が厳しい家」として知れていました。あれは、暴力であって、躾なんかじゃな
進学校ではなかったので、高校3年生の夏を過ぎると、みんな就職活動がはじまった。私は、美容の専門学校の見学へ行き、入学の準備を進めていた。クラスのほぼ全員の子が、就職先や専門学校が決まり、私は美容の専門学校の試験日が迫っていたある日、夕食の時に父が、「何でも好きなことをやれ」と言い出した。え?今?このタイミングで?戸惑いながらも、「うん、わかった、〇〇という専門学校に行きたい」と美容とは全く違う専門学校の名前を出すと、「金は誰が払うんだ」
コワイ話が苦手な方はUターンお願いします。ほんじゃーいきますよーーーチョロQ生協パルシステム配送トラックこんせんくんpalsystemAmazon1年半前に、超ミラクルが起こって、九死に一生を得て、がんから生還したウチの母のことです。大腸がんの肝転移で手術できない状態からの院内感染で、あの世からのお迎えも2度来たのを見たあの母です。1回目はタイのお坊さんの一団、2回目は白衣を着た看護師さん二人が来たという話でした。母は退院して自宅
悪性脳腫瘍で大切な母を亡くしました。母の看病、介護をした経験から私の感じたことをシェアしたいと思います。この問題は政策に依拠するところも多いですが、大きな議論に広げるつもりはありません。ここではあくまで一個人の経験と感想をこれから苦労する方に向けてシェアしたいと思います。したがって、そんなことみんなが言い出したら?というツッコミや議論はひとまずご遠慮願います。母が闘病していた2014年末から2018年の夏、日本においては在宅医療が推奨されており、行政のオペレーションはもちろんのこと、ネットや
兄との電話で、何かの話の流れで、「普通の家族だったらこうする」と言うと、「うち普通じゃないから」と兄が言う。「普通だったの」「普通じゃない」「普通だったのよ、私もお兄ちゃんも、あんなに殴られたら普通でも普通じゃなくなる」と言うと、「昔のことは、水に流せよ」と言うので、「性的な虐待もあった」と初めて言ってみた。流そうと思っても、思い出してしまう。小さい子供を見ると、よくこんな小さい子に、と思って辛くなる。まぁ、面倒な話を持ち掛けて悪
ピッコマで漫画配信中!「ぎふてっど」で検索オンラインサロンへのご参加もお待ちしています♪オンラインサロン/コミュニティ運営ならYOOR「ユア」YOORは、オンラインサロン専用トークルームを完備した、コミュニティやファンクラブ、オンラインレッスンの場として利用できるプラットフォームです。yoor.jp一度は医療の力によって蘇生された母。その蘇生すらしなければ良かったと後悔するほど、痛みで呻き続ける母を見ては胸が締め付けられました。この頃、一度夫が様子を見
こんばんは。あなたのココロにぽっと灯りを。。。かのんです。先日サインを受け取るコツはリラックスでも書きましたがみなさんはうっかり記念日を忘れてしまったことはありませんか?それが月命日とか旅立った人との間にある何かしらかの記念日とかだと忘れてしまったことに対して必要以上に申し訳なく思ったり『忘れていたこと=ダメなこと』として自分を責めてしまう方も中にはいらっしゃるのではないでしょうか。確かに私もお母さんの月命日を初めて忘れたときはすごく落ち込みました。
お役所関連の手続きが終わったら次は民間サービスの解約手続きです。こちらは手続きせずに放っておいても誰も文句は言ってきませんが、停止するまで、お金は黙って引き落とされ続けていきます。コワイコワイ、、(^-^;最低過去一年分の引き落とし状況を母名義の通帳で確認しておきます。母は住宅型有料老人ホームに入居していたので、月々の支払いで一番金額が大きいのはホームの利用料でした。その中には、・部屋で使用した光熱費(電気・水道)・食費も含
昨日、母が夢に出て来た。思い出、というか思い出したくもないけれど、記憶の中の母は酷い母親で、苦労しなくて良いことで、苦労したし、会ったとしても、文句しか出ない、といつも思っているのに、夢の中では、いつも普通にしている。母は、夢の中でごはんを作ったり、テレビを観たり、庭にいたりしていて、私は台所のテーブルに座っていたり、冷蔵庫を開けていたりする。そこに、夢の中では、母に対して憎しみの感情は無い。こうして文章に書けるということは、だいぶ昇華しているから