ブログ記事1,778件
僕は2年前にがんになってから、ずっと死について考えてきました。僕の一つの結論として「死は奪われるものや無くなるものではなく与え、授けるものである」という結論になりました。僕の病や死をきっかけにして色んなところで新しい繋がりが生まれています。この繋がりは僕からのギフトやプレゼントだと思います。先日、見舞いにきた母は「死は新しい人生のスタートです」と言っていました。僕もそう思います。死に関してはそれでいいのですが、死の恐怖に関して明確に書いてある書物がほとんどなく、漠然と
ふと気づくと、僕を占領している“思考”や“感情”たち。ポジティブ思考の隙間にふと入り込んでくる“ネガティブ”。⑧何かに追い立てられている感じで、落ち着けない、いつも焦っている常に後ろから何かに追い立てられている。追い立てられているのに、恐くて後ろが振り向けない。追い立ててくるのは・・・そう・・・「死」です。自分には時間がない。生きる時間がない。時間がないと感じているくせに、焦って何にも手がつけられない。ゆとりがない、余裕がない、リラック
僕は自分がいつか“死ぬ”ということを“知って”いました。しかし、それは“いつか”であって、差し迫ったものとしてとらえていませんでした。今までいつか来るであろう“死”について、自分なりの準備と理解をしてきたつもりでした。準備とは、「後悔しない人生を送る」理解とは、死についての書籍を片っ端から読みあさるたとえば、こんな本たち・・・。しかし、実際に自分が“死”に直面してみると、そういったことはあまり役に立ちませんでした。まあ、何もし
歎異抄とは親鸞の弟子の唯円が書かれたものです。親鸞の死後、念仏の教えが異なって伝わっていることの歎きを書いたものです。親鸞と唯円の対話を通して、唯円が本当に伝えたかった本当の親鸞が見えてきます。特に9条は死に関して書かれています。親鸞は死をどう考えたのでしょうか?少しづつ、ゆっくり解説してゆきます。唯円「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやら
フランスの哲学者ジャンポール・サルトルの小説に「壁TheWall」がある。日本ではあまり有名ではないが、考えさせられるところが多い、相当な名著だと思う。第二次世界大戦がはじまる年に、1936~1939年のスペイン内戦に参加した義勇兵パブロを主人公にしている。パブロはフランコ軍兵につかまり、尋問される。そして、翌朝の「死刑」を宣告される。「死」を目の前の現実として突き付けられた主人公が描写される。主人公は処刑が近づくにつれ、周囲のものへの関心を失っていく。怒りや憎しみ、悲しみ、
時代は中世、13世紀ごろ南フランス地方。僕はキリスト教の修道士。でも、カトリックではなく、カタリ派の修道士だった。http://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-024.htmlちょうどカタリ派がカトリックの十字軍から弾圧を受けていた頃。なぜ、僕がカタリ派の僧だと分かったかというと、独特の服装と所持品があったかららしい。過去生が見えるその彼女が以前、僕の特徴的な姿から、図書館で調べて突き止めてくれたのです。僕は僕を慕って