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夫と広島旅行をしてきました東京駅から広島駅まで約4時間30分遠いな〜と思っていましたが、ウトウトしたりネットで調べ物をしていたらあっという間でした11時30分頃、広島駅に到着お昼ご飯は駅ビル内にあるお好み焼き屋さん福ちゃん本当はみっちゃんで食べる予定でしたが行列だったので急遽変更しました。牡蠣がとっても美味しい〜お腹いっぱいになったので、路面電車に乗って原爆ドームへ。路面電車楽しい〜原爆ドームは思っていたより小さいと思いました。(飛行機雲が)お天気
ご訪問いただきありがとうございますプチプラコーデ(しまむら・GU・ユニクロ等)&ハイブランドMIXファッションコーデが大好きなアラフォーファッション骨格診断スタイルアドバイザーNAOでございます。いつも遊びに来て下さってる方々、初めてご訪問してくださった方々、本日もありがとうございます今日の京都は曇りこれからお天気が悪くなりそうです。それでは旅行2日目を記させていただきます。先ずは松山から広島に向かうカーフェリーの中にある
モンペ姿の親戚の女性1945年春前にも書いたのだが、初代蝋人形の火傷の様子と着ている服の破損の具合がどうもマッチしていない。女性の両手の指先から皮膚がたれているのは原爆の閃光による重度の火傷のせいだ。しかし袖口にゴムの入っている着物の袖はまったく無事であることに気がついた。(女性が着ているのはブラウスではなく、上の写真のような着物を縫い直した上衣とモンペだと思われる)女性の胸元にしても、上衣の右胸部分が焼け、下着(シュミーズか襦袢)も焼け、火傷した乳房があらわになっているとすると、
二泊三日の広島旅行も最終日。夕方の便まで一日観光だ。朝食を食べてから出発。これまで2日間で35000歩以上歩いたのに、痩せないな~スムージーみそ汁にオニオンスープ牛乳とスムージー、ごはんにがんす、いつもパン食にしようと思っているのに、トースター待ちがめんどくてごはんに行ってしまう。今日も、結局ガンガン盛って、モリモリ食べて出発。これが、原因かラッピング広電元安川に架かる平和大橋から見る左手は平和記念公園平和大橋と西側の西平和大橋の欄干は、米国の彫刻家イサム・ノグ
かねてから計画中だった広島・呉の研修旅行。新型コロナの影響で、4年ぶりにやっと実現できました。6月6日(火)その5原爆ドームを悲痛な思いで見学して、原爆死没者慰霊碑のほうへ向かいました。平和の鐘すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運送のシンボルとしてつくりました(原文より一部)平和への願いをこめて、やさしく撞きました。原爆の子の像年間を通じて、たくさんの千羽鶴が捧げられて
こんばんは🌙ちよみんです😊今日の投稿ネタの「小学校の修学旅行」そのタイトルを見ただけで苦しくて辛かった修学旅行を思い出して気分が落ち込みました。とりあえず、全然楽しくなかった!修学旅行に行く前の班分けの時点ですでに辛かった。当時の私はクラスに友達が一人しかおらず、それも友達というより親分と子分のような関係でした。当然、私が子分です。でも二人だけだと班分けの決められた人数には足りません。同じ班になってくれる他の女子を探す必要がありました。私はおとなしい子や一人ぼ
小さな小さな折り鶴「魂の叫び」から「生きる」のコーナーに進む。被爆者の人生をたどった壁面が両側から迫ってきた。左側の「一人の被爆少女の死」は白血病のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんの短い人生をたどっている。そして、小さな小さな折り鶴。以前、こんな事をブログに書いた。平和記念資料館本館がリニューアル工事に入る前、禎子さんの折鶴を見に行った。ガラスケースの中のいくつもの小さな小さな折り鶴。薬の包み紙で一生懸命おった白い折り鶴。それがライトに照らされてきらきらと輝いていた。
広島平和記念資料館本館の「生きる」のコーナーで、驚いた。2015年に94歳で亡くなった福島菊次郎さんが1952年から10年近く撮り続けた中村杉松さん一家の写真が展示され紹介されていたのだ。中村杉松さんを追いかけた写真は1961年に『ピカドンある原爆被災者の記録』として出版され、世の中に衝撃を与えた。しかし、福島さんの写真は平和記念資料館では長い間展示されなかった。福島さんは自著にこう書いている。〈聖地ヒロシマ〉を批判し、その尊厳を冒涜するような写真は資料ではないのである。(福
続きです。2008年広島市内です。350形353号です。こちらは残念ながら昨年引退したようです。このツアーでは外せない原爆ドームに。平和記念公園と広島平和記念資料館を見学しました。3900形は「ぐりーんらいなー」です。800形811に乗って移動したようです。続きます。
今日は78回目の広島の原爆の日。広島はお隣なので、人生で3回広島平和記念資料館へ行った思い出があります。最初は小学生の時に家族と。後2回は、結婚して息子達が産まれてからと。一番最初に見た時は…被曝再現のリアルな人形が怖くて…目を背けた記憶。ただ、戦争は怖くて絶対しちゃダメって気持ちが強く残った。息子達と見たとき…親目線で見るからか、若くしてこの世を去らなければならなかった方の思い、お子さんを送らなければならなくなった親の思いを強く感じて、胸がぎゅーっと締め付けられるような…どうか息
江波の漁師中村杉松さんは、1945年8月6日、建物疎開作業中に原爆の閃光をあび、倒壊した建物の下敷きになった。全身火傷に急性放射線障害で髪の毛も抜けて一時は生死の境をさまよったが、何とか危機を脱した。しかし1949年になると、杉松さんは極度の疲労に襲われるようになり、漁に出ることができなくなった。奥さんが一人魚の行商で一家を支えたのだが、今度は奥さんがひどい貧血になり、行商先で倒れて1951年3月、病に臥せる夫と6人の幼い子どもを残して亡くなった。死因は子宮ガンだった。原爆症と断定はできな
広島出張でホテル法華倶楽部に泊まった日、早朝の散歩は原爆ドームへ通称、原爆ドームと呼ばれていますが、正式には「広島平和記念碑」といいます。1945年(昭和20年)8月6日8時15分広島市の上空から投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える記念碑(被爆建造物)です。もともとは広島県のさまざまな物産を展示するための広島県物産陳列館として開館され、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲
広島市立高等女学校原爆慰霊碑建立年月日1948年8月6日所在地中区中島町1番(元安川河岸、平和大橋西詰)制作者河内山こうちやま賢祐けんすけ(彫刻家)形状高さ1.77mの万成石まんなりいしの碑で、正面には3人の少女のレリーフ、碑陰には、当時の宮川校長の弔歌が刻まれている。建立の目的原爆の犠牲となった職員生徒の慰霊碑文、追悼歌E=MC2(正面)友垣にまもられながらやすらかにねむれみたまよこのくさ山に昭和23年8月6日宮川雅臣(背面)この
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分連合国のアメリカ合衆国が広島市に対して原子爆弾を実戦で使用した。人類史上初の核攻撃だった。この原子爆弾投下により、当時の広島市人口の3分の1にあたる約10万人が被爆し、数か月以内に死亡したとされる。また投下後、救助や安否確認などで広島に入った人を含めれば、56万人が被爆したといわれる。そして3日後の8月9日には、長崎市へも投下された。長崎市への投下から6日後の8月15日、戦争は終わった。さらに
その1:元祖へんくつやでお好み焼き★お好み焼きを食べた後はぶらぶらお散歩。道中にあるお店を覗いて雑貨やお土産を購入したりパン屋アンデルセンの立派な本店を見学したり。街歩きを楽しみつつ、原爆ドームに到着。名残のつつじが綺麗でした。あいにくの天候でしたがこの日も観光客がたくさん訪れていました。日本人よりも海外観光客が多い印象です。崩れた瓦礫、むき出しになった鉄骨。曇り空の下、時が止まったかのようにただ静か