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ご訪問いただきありがとうございますプチプラコーデ(しまむら・GU・ユニクロ等)&ハイブランドMIXファッションコーデが大好きなアラフォーファッション骨格診断スタイルアドバイザーNAOでございます。いつも遊びに来て下さってる方々、初めてご訪問してくださった方々、本日もありがとうございます今日の京都は曇りこれからお天気が悪くなりそうです。それでは旅行2日目を記させていただきます。先ずは松山から広島に向かうカーフェリーの中にある
夫と広島旅行をしてきました東京駅から広島駅まで約4時間30分遠いな〜と思っていましたが、ウトウトしたりネットで調べ物をしていたらあっという間でした11時30分頃、広島駅に到着お昼ご飯は駅ビル内にあるお好み焼き屋さん福ちゃん本当はみっちゃんで食べる予定でしたが行列だったので急遽変更しました。牡蠣がとっても美味しい〜お腹いっぱいになったので、路面電車に乗って原爆ドームへ。路面電車楽しい〜原爆ドームは思っていたより小さいと思いました。(飛行機雲が)お天気
二泊三日の広島旅行も最終日。夕方の便まで一日観光だ。朝食を食べてから出発。これまで2日間で35000歩以上歩いたのに、痩せないな~スムージーみそ汁にオニオンスープ牛乳とスムージー、ごはんにがんす、いつもパン食にしようと思っているのに、トースター待ちがめんどくてごはんに行ってしまう。今日も、結局ガンガン盛って、モリモリ食べて出発。これが、原因かラッピング広電元安川に架かる平和大橋から見る左手は平和記念公園平和大橋と西側の西平和大橋の欄干は、米国の彫刻家イサム・ノグ
こんばんは🌙ちよみんです😊今日の投稿ネタの「小学校の修学旅行」そのタイトルを見ただけで苦しくて辛かった修学旅行を思い出して気分が落ち込みました。とりあえず、全然楽しくなかった!修学旅行に行く前の班分けの時点ですでに辛かった。当時の私はクラスに友達が一人しかおらず、それも友達というより親分と子分のような関係でした。当然、私が子分です。でも二人だけだと班分けの決められた人数には足りません。同じ班になってくれる他の女子を探す必要がありました。私はおとなしい子や一人ぼ
モンペ姿の親戚の女性1945年春前にも書いたのだが、初代蝋人形の火傷の様子と着ている服の破損の具合がどうもマッチしていない。女性の両手の指先から皮膚がたれているのは原爆の閃光による重度の火傷のせいだ。しかし袖口にゴムの入っている着物の袖はまったく無事であることに気がついた。(女性が着ているのはブラウスではなく、上の写真のような着物を縫い直した上衣とモンペだと思われる)女性の胸元にしても、上衣の右胸部分が焼け、下着(シュミーズか襦袢)も焼け、火傷した乳房があらわになっているとすると、
とりあえず、こんばんわ。局長です。ミリシタの最新イベントを現在走っているところですが、局長的にらったったはグランツーリスモのOPっぽいなーって。それにしても、ミリアニは佐竹美奈子がええ感じだよな。脚線美がすごいそそられるというか・・・。というわけで、前回の続きでも。広島平和記念公園へとやってきた局長、マルセル・ジュノーやノーマン・カズンズの記念碑をパチリとしたりしましたが、この2名って学校の授業で習わないけど超偉人なんですよね・・・。そんでもって、原爆資料館こと平和記念資料
錦帯橋から高速バスで広島バスセンター到着、そこから向かったのが広島平和記念資料館。館内の展示内容の知識もなく入館し、すごく衝撃を受けて退館。もうすぐ17時、閉館まで2時間見学者多く行列もあり得ると聞いたが、そんなに人いないか?と中に入ると、やっぱり並んでいた。チケット代を支払い、右手のエスカレータから常設展示室へ見学順路に沿って歩く・・・被ばく前の広島から始まる。現在の原爆ドーム、当時は、広島県産業奨励館。一つ一つの展示が驚く事実ばかりで、足を止め、よく読んだり見たり、コ
続きです。2008年広島市内です。350形353号です。こちらは残念ながら昨年引退したようです。このツアーでは外せない原爆ドームに。平和記念公園と広島平和記念資料館を見学しました。3900形は「ぐりーんらいなー」です。800形811に乗って移動したようです。続きます。
こんなもんが空から降ってきたらどうしようもない。昔父と広島長崎原爆の話をしてた時に(たぶんTV見て)「ちーさい時、空襲警報が鳴るたんびお堂の裏にある防空壕に走って逃げよったあれは怖かったなーー」て言うてた。【今】そんなことが起こるなんて想像もつかんけど世界では戦争が日常になってるとこもあってだからこそ心から思う今こうしておれるのはほんま、当たり前じゃないから日々を瞬間瞬間を大切に生きよう!て。人生は儚い長いようで短い一瞬で終わるだからこそ心のままに生きる💃座右
その1:元祖へんくつやでお好み焼き★お好み焼きを食べた後はぶらぶらお散歩。道中にあるお店を覗いて雑貨やお土産を購入したりパン屋アンデルセンの立派な本店を見学したり。街歩きを楽しみつつ、原爆ドームに到着。名残のつつじが綺麗でした。あいにくの天候でしたがこの日も観光客がたくさん訪れていました。日本人よりも海外観光客が多い印象です。崩れた瓦礫、むき出しになった鉄骨。曇り空の下、時が止まったかのようにただ静か
Asingleatomicbombindiscriminatelykilledtensofthousandsofpeople,profoundlydisruptingandalteringthelivesofsurvivors.Throughbelongingsleftbythevictims,A-bombedartifacts,testimonialsofA-bombsurvivorsandrelatedmaterials
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分連合国のアメリカ合衆国が広島市に対して原子爆弾を実戦で使用した。人類史上初の核攻撃だった。この原子爆弾投下により、当時の広島市人口の3分の1にあたる約10万人が被爆し、数か月以内に死亡したとされる。また投下後、救助や安否確認などで広島に入った人を含めれば、56万人が被爆したといわれる。そして3日後の8月9日には、長崎市へも投下された。長崎市への投下から6日後の8月15日、戦争は終わった。さらに
江波の漁師中村杉松さんは、1945年8月6日、建物疎開作業中に原爆の閃光をあび、倒壊した建物の下敷きになった。全身火傷に急性放射線障害で髪の毛も抜けて一時は生死の境をさまよったが、何とか危機を脱した。しかし1949年になると、杉松さんは極度の疲労に襲われるようになり、漁に出ることができなくなった。奥さんが一人魚の行商で一家を支えたのだが、今度は奥さんがひどい貧血になり、行商先で倒れて1951年3月、病に臥せる夫と6人の幼い子どもを残して亡くなった。死因は子宮ガンだった。原爆症と断定はできな