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私が入所した施設は建物内に学校があった一応その地域の小学校の分校となっていて運動会や遠足などは本校の子供達と一緒に参加する階段を降りるだけですぐに学校がある各学年3人〜5人ぐらい1.2年生だけは合同のクラスだった私の担任の先生はベテラン感のあるおばちゃん先生私は先生の事が大好きで私にとって先生はお母さんみたいな存在だったいつも生徒1人1人とちゃんと向き合ってくれたこの先生は私達が卒業するまでずっと担任を受け持ってくれた勉強はというとできない子が多いか
この時も祖母に叱られている最中だったまたいつもの様に祖母は私に説教や暴力を振るう最中に私の態度や表情に激高した私は小さい時から気持ちが顔に出やすい言葉は発さなくても顔に出てしまういつも祖母に殴られながらグッと自分の感情を抑えていたでもたまに耐えかねて顔に出てしまっていたそんな態度に祖母は余計に腹が立ったのだろう突然私の髪の毛を鷲掴みにしてそのまま引っ張って洗面所に連れて行ったそして祖母は洗面ボールに栓をしたその瞬間私は頭が真っ白に
祖母は私達をどんな風に育てたかったのか。。。そして私達に何故苛立ちを覚え始めたのか祖母は私達を引き取ってから女の子らしく慎ましくお上品で可愛らしくマナーのある子。。。きっとそんな風に育って欲しかったのだと思う引き取ってからの私達を祖母はまるで着せ替え人形の様に扱ったいつもフリフリの服を着せられ学校に行く時も毎朝私と姉の髪の毛を編み込んだ女の子だから女の子なのにいつも口癖の様に言っていた私はフリフリの服を着せられるのがとても嫌だったもち
施設の生活にも慣れて平穏な日常を送れていたけれど私には平穏な日常なんて送らせてもらえないのか?と思ってしまう出来事が起こる私はある日突然女の子達から無視をされ始めたことの発端は6年生の女子のリーダー格だった子が仲良くしていた男の子と私が仲良くなった事だったリーダー格の女の子はそれが気に入らなかったのだろう1、2年生の低学年の女の子を除いて他の女子達は私のことを避け一切喋らなくなったいじめの始まりだった私はとても嫌な気持ちになったでもそれを出さないように
祖母の私達への虐待は止まる事なく続いたそんな中姉が虐待を受けていた時の事姉はもう5年生も終わりに近づき3学期も中盤に入っていたリビングのテーブルの上に置かれた見慣れない冊子表紙には雪化粧の山の写真に「白峰村」と書かれていた私はその時通常の生活をしていた何やら母と祖母がバタバタとしているそんな雰囲気が何もわからない私にも伝わってきた3月中旬春休みに入ってすぐ突然泊まりで出かけると言われたしか母に連れられて姉と私と祖母と4人で電車に乗ったかなり長
私はその後警察に保護されそのまま一時保護所に保護されたこの時は今までで最長期間の保護だったある日のケースワーカーとの面談「もうここから出なあかんねんけど。家に帰る?家に帰りたくない場合は施設に入るっていう方法があるねんけどどうする?」と聞かれた私は即答で「家には帰りたくない」と答えた「じゃあ。施設に入れるように手続きするね」私に一筋の光が差したこんなに嬉しい瞬間は今まで味わった事がなかったやっと地獄から抜け出せるそれから数日後一旦家に帰されて後日施
私は度重なる家出の末に児童相談所に保護され一時保護所で一時的に保護された一時保護所というのは児童相談所が管轄する言葉通り子供を一時的に保護する所で何らかの理由で家には帰れない帰すことができない児童を預かるそこには0歳児〜高校3年生までが入所でき親に育児を放棄されて児童養護施設が決まるまでの間入っている子もいれば非行行動が酷く家庭裁判所の結果を待つ子もいる理由も年齢もさまざま最長2ヶ月間しか入れずもちろん自由に建物内を動くことも出入りする事も
姉は家出をして1ヶ月程帰らなかった時があった祖母と母はもちろん毎日血眼になって探し回った余りにも長期間見つからないので警察にも捜索願いを出したそしてその姉の行方は。。。当時の家から少し離れた所で1人途方に暮れていたそんな時姉に声をかけてきたおじさんがいた姉はそのおじさんに自身の身の上を話したそのおじさんは姉の事が心配になりうちでご飯を食べさせてあげるからと言い姉を自宅へと招き入れた当時の事を姉に聞いた時恐怖心はあったもしかすると何かされる
姉の下着の一件を皮切りに祖母の姉に対しての嫌がらせがエスカレートしていった始めは畳の上で何時間も正座をさせられ祖母の説教を聞かされる事から始まったそんな事と思うかもしれないだけど毎日毎日学校から帰れば何かと理由をつけて怒り正座しろと指示を出すしかも何時間も。。。言っている事と言えばただただ同じ事を繰り返し言い続けて自分はテレビを見たり用事をしながら。。。たまに何かを問いかけその返事が自分の納得のいく返事でなければまた怒り足が痺れて動け
私が入所した施設は子供達のメンタルサポートがとても充実していた1週間〜10日に1度カウンセリングが必要な児童にはカウンセリングの時間が設けられる私にはカウンセリングの時間があった担当の先生がそれぞれに付きカウンセリングを受ける私の担当の先生は若い女の先生だった私は最初のうちはこのカウンセリングの時間が大嫌いだったきっと昔母に連れられて受けたカウンセリングがトラウマになっていたのだと思う心理カウンセリングといえば嫌なイメージしかなかったそれが回数を増すごと
私達姉妹が家出を繰り返すため祖母は私達が自由に動けないよう手足を帯紐で縛り付けるようになった手が自由に使えなければ玄関の鍵も開けれない手だけを縛る時もあれば手足を縛る時もあった2段ベットの柱に括り付けられる時もあったそうなってしまえばもちろん祖母からの暴力を受ける時は腕で自分を庇う事も逃げる事もできずサウンドバック状態もう最悪の状況だったある時祖母は私に激高してまたベットの柱に私を縛り付けた怒りのままに力いっぱい縛り付けた紐は私の手首に食い込
私は一時保護所から帰宅して数日後施設に人所するための準備をしていた荷物をまとめている時祖母から「これはこの家で買ったものや!持って行くな!」と嫌味を言われながら支度をした施設に入ることが決まっていたためさすがに暴力は振るわれなかったけど祖母は最後の最後まで私を罵った私は必要最低限の荷物をまとめ母に連れられ施設に向かった私が入所した施設は都会のオフィス街の中に建つ大きな建物だった祖母から監禁を受けている時沢山読んだ本その中に出てくる子供を預かる
4年生の冬私はまた祖母から逃げるために家を飛び出して真夜中寒さを凌ぐためにマンションの駐輪場で体を丸めてしゃがみ込んでいたそれでも寒さを凌ぐ事はできず私はあるマンションのエントランスで寒さを凌ぐ事にした当時私の行動範囲の中で唯一のオートロックのマンションあそこへ行けば寒さを凌げると思いついた深夜のマンションなかなか人が通らずドアが開かないそこへ1人の人が帰ってきたその人は私の事を不審そうに見ながらオートロックを開けた私はその人と一緒にマンションのエント
姉が白峰村へ行ってから私は実は少しの希望を持っていたそれは祖母のターゲットが2人では無くなったことだった今までは2人のターゲットがいた祖母は2人同時に同じように接する事ができないだから片側だけを虐待してその間は片側を普通に生活させるターゲットが1人になれば虐待は起こらないかもしれないそんな期待があったけれどその期待は奇しくもすぐさま裏切られた姉がいなくなった直後から矛先は私のみになってしまったそれは私にさらなる絶望感を生んだもう終わる事はないそう感
施設での新しい生活3歳からほとんどまともな生活をした記憶がなかった私にとって施設に入ってやっと普通の生活ができるようになった何よりも施設に入るまでの私はずっと心が休まる瞬間がなかったのだと今になって感じている自由はないけど理由なく怒鳴られる事も理由なく殴られる事もない生活やっと安心を得ることができた施設で生活する子供達の入所理由は様々生まれた時から親の顔も知らない子私同様虐待を受けた子ネグレクト生活苦みんなの心の中はわからないけど寂しそうにして
祖母は嫁いだお家も裕福でいつも『うちのパパはね』と私達に祖父の話を自慢げにしていた母が高校生の時に病気で亡くなっているので私達姉妹は祖父に会ったことはない祖父が亡くなった後祖父の実家で同居だった祖母は肩身が狭くなりお姑さんにかなりいびられていたと話していた事があるだけど義父はいつも優しくしていてくれたそうでその義父も亡くなりますます居場所が無くなった祖母はその家から出る事になったその後は夜の仕事をしていたと聞いたけど持病の喘息や顔面神経
母は私達が虐待を受けていた時どんな気持ちだったのだろうどうして助けてくれなかったのだろう今でもとても疑問に思う我が子が実の母親からあんなに酷い目にあわされているというのに何故止めてくれなかったのか何故私達を連れて家を出てくれなかったのか私はこのブログを書くにあたって姉から「お母さんの事でもあるしブログを書く前にお母さんに一言言っておいた方がいいんじゃない?」そう言われてブログを書き始めてすぐに母にブログの事を伝えに行った母はその時初めて私に「1つ
あれは姉が5年生の時の事だった虐待を受ける姉はその日母のピアノの椅子に縛りつけられていたその夜夜中に母が仕事から帰ってきてから母の部屋が騒がしかった隣の部屋で寝ていた私はその騒がしさで目が覚めたまた始まった。。。私はいつもの祖母の暴力が始まったと思っていただけどいつもとは様子が違う気になったけど見に行く事もできない隣の部屋ではピアノの椅子に縛られた状態で祖母に殴られた姉がピアノ椅子ごと殴り飛ばされ母の部屋にあったハンガーラックの角に顔を打ち