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昨年のコロナ明け突然の思いつきから始まった講演会の予定1年後の5月5日こどもの日本当に実現しましたなんと会場参加オンライン参加アーカイブ視聴参加約290名の方々にご参加頂きました私の大好きな藤原里美先生遠い福岡まで来てくださって本当にありがとうございました藤原先生の言葉には魔法のようなエキスマインドが沢山詰まっていますこれが先生が仰っている即行性即効力のある関わり方の秘密㊙️この秘密を知りたい方アーカイブ視聴申し込みもあります⤵️アーカイブ視
私が入所した施設は建物内に学校があった一応その地域の小学校の分校となっていて運動会や遠足などは本校の子供達と一緒に参加する階段を降りるだけですぐに学校がある各学年3人〜5人ぐらい1.2年生だけは合同のクラスだった私の担任の先生はベテラン感のあるおばちゃん先生私は先生の事が大好きで私にとって先生はお母さんみたいな存在だったいつも生徒1人1人とちゃんと向き合ってくれたこの先生は私達が卒業するまでずっと担任を受け持ってくれた勉強はというとできない子が多いか
4年生の冬私はまた祖母から逃げるために家を飛び出して真夜中寒さを凌ぐためにマンションの駐輪場で体を丸めてしゃがみ込んでいたそれでも寒さを凌ぐ事はできず私はあるマンションのエントランスで寒さを凌ぐ事にした当時私の行動範囲の中で唯一のオートロックのマンションあそこへ行けば寒さを凌げると思いついた深夜のマンションなかなか人が通らずドアが開かないそこへ1人の人が帰ってきたその人は私の事を不審そうに見ながらオートロックを開けた私はその人と一緒にマンションのエント
姉が白峰村へ行ってから私は実は少しの希望を持っていたそれは祖母のターゲットが2人では無くなったことだった今までは2人のターゲットがいた祖母は2人同時に同じように接する事ができないだから片側だけを虐待してその間は片側を普通に生活させるターゲットが1人になれば虐待は起こらないかもしれないそんな期待があったけれどその期待は奇しくもすぐさま裏切られた姉がいなくなった直後から矛先は私のみになってしまったそれは私にさらなる絶望感を生んだもう終わる事はないそう感
私はその後警察に保護されそのまま一時保護所に保護されたこの時は今までで最長期間の保護だったある日のケースワーカーとの面談「もうここから出なあかんねんけど。家に帰る?家に帰りたくない場合は施設に入るっていう方法があるねんけどどうする?」と聞かれた私は即答で「家には帰りたくない」と答えた「じゃあ。施設に入れるように手続きするね」私に一筋の光が差したこんなに嬉しい瞬間は今まで味わった事がなかったやっと地獄から抜け出せるそれから数日後一旦家に帰されて後日施
姉は家出をして1ヶ月程帰らなかった時があった祖母と母はもちろん毎日血眼になって探し回った余りにも長期間見つからないので警察にも捜索願いを出したそしてその姉の行方は。。。当時の家から少し離れた所で1人途方に暮れていたそんな時姉に声をかけてきたおじさんがいた姉はそのおじさんに自身の身の上を話したそのおじさんは姉の事が心配になりうちでご飯を食べさせてあげるからと言い姉を自宅へと招き入れた当時の事を姉に聞いた時恐怖心はあったもしかすると何かされる
祖母は私達が家出をする度に家を出て行けない様にするための対策を強めていく以前にも書いたが玄関のドアが開くと音が鳴るようにしたり常に私達の姿が見える位置に自分が座って見張ったりした私も姉も自分が虐待をされている時はどうやって家を出ようかとそればかり考えいたそして私はある方法を思いついた玄関がダメなら。。。家の外に出る手段はベランダしかない当時我が家はマンションの6階に住んでいた運の良い事にベランダの横は共用の階段だったあのベランダの手摺を
私は度重なる家出の末に児童相談所に保護され一時保護所で一時的に保護された一時保護所というのは児童相談所が管轄する言葉通り子供を一時的に保護する所で何らかの理由で家には帰れない帰すことができない児童を預かるそこには0歳児〜高校3年生までが入所でき親に育児を放棄されて児童養護施設が決まるまでの間入っている子もいれば非行行動が酷く家庭裁判所の結果を待つ子もいる理由も年齢もさまざま最長2ヶ月間しか入れずもちろん自由に建物内を動くことも出入りする事も
それにしても娘があんなに酷い事をされている家の中で平然と生活のできる母の心理状態は少し異常だと思う私が包丁を突きつけられても私が湯船に沈められても姉が大怪我を負っても祖母を止める事なくそれどころか姉に口止めまでしてしまうどう考えても正気の沙汰ではないと思う普通ならこれが他人でも助けようとしない?通報でもなんでもその人を何とか助けようとしない?それを我が子が受けているなら尚更だと思う私がもし自分の子供達があんな事をされたら。。。という
祖母の私達への虐待は止まる事なく続いたそんな中姉が虐待を受けていた時の事姉はもう5年生も終わりに近づき3学期も中盤に入っていたリビングのテーブルの上に置かれた見慣れない冊子表紙には雪化粧の山の写真に「白峰村」と書かれていた私はその時通常の生活をしていた何やら母と祖母がバタバタとしているそんな雰囲気が何もわからない私にも伝わってきた3月中旬春休みに入ってすぐ突然泊まりで出かけると言われたしか母に連れられて姉と私と祖母と4人で電車に乗ったかなり長
姉は見つかっては家に連れ戻され家を出ないように監禁されたそれでもあらゆる方法を使ってまた家から逃げ出しそしてまた家出をするとおじさんの所へ行ったけれどおじさんにいつまでも面倒を見てもらう事はできないと姉は感じ取っていたそして姉は次の決断をするおじさんの車のダッシュボードに少しだけお金が入っているのを姉は知っていたおじさんの目を盗みダッシュボードに入っていたお金を握りしてめて姉は駅に向かった。。。姉が向かった先それは父方の祖父母が住む
私は当時3歳4歳ぐらいだったから記憶は途切れ途切れだけど1度大きな施設の様な場所で母と姉と私の3人。しばらく沢山の家族と集団生活をしていた記憶がある。どの家族もお母さんと子ども達だった。2段ベットのある部屋でよその家族と一緒に生活した。子ども達みんなでホールの様な所に集まってまーるく円になって座っておやつを食べたり。。。大きくなってからわかったけどあれはいわゆるシェルターみたいな所だったんだろうな。母は私達を連れてきっと父から逃げないといけない理由があったんだろ
名古屋に辿り着いた姉姉の持っている祖父母の情報は名古屋に住んでいる。。。ただそれだけだった10歳の姉はとりあえず駅のロータリーに停まっていた沢山のバスのうちの1台に当てずっぽで乗り込んだどこへ向かっているかもわからないバスに揺られながら外を眺めているとどんどん人気や建物が無くなっていく姉は不安になって名古屋駅からかなり離れたと思われるバス停でバスを降りた降りた先は人気がほとんどない小さな町だったどこへ向かえばいいかもわからず引き返そう
ある時その日は食事ができなくて2人で途方に暮れていた。。。そしたら姉が継母の母の家に行ってみようと言い出した継母の母は私達に会うといつも優しく接してくれる人だった少し前までは私が1人でも行けるぐらい近くに住んでいたのにしばらく行かないうちに継母の母は私達の住む所から5駅も先に引っ越していたもちろん当時の私は5駅も離れているなんて知らなかったし家の場所も覚えていなかっただけど姉はちゃんと覚えていたどれくらい歩かないといけないのか想像もつかないまま
2人目の継母は日に日に私達姉妹の生活に苦をもたらしていく当時40歳ぐらいだった父が私達に‘’新しいお母さんだよ’’と言って連れてきた2人目の継母は19歳の若い女性だった。父はその女性を家に置いたままずっと何日も帰宅しない。そんな若い新しい母親からは食事も与えてもらえなくて完全に放置状態。自分の子どもが産まれてからは家にいるようになったんだけど。それでも、何もしてもらえなくて。。ある日。姉も学校へ行っていて私はあまりの空腹に「お腹空いた」って継母に言った。
結局何も買う事が出来ないまま入学の日を迎えた。もちろん入学式にも行けなかった。私には入学式に着て行けるような綺麗な服もないし一緒に行ってくれる親もいなかった。。。姉からこの間聞いて初めて知ったんだけど向かえに住んでいた幼馴染のお母さんが筆箱をくれた。えんぴつと消しゴムは姉の使い古しを貰った。1度だけ学校に行った記憶が残ってるきっとその日は新1年生の登校初日ランドセルもまだいらないし私は何も持たずに学校に行ったんだと思う。私にとっては初めての登校日
私の当時の記憶はとても端的で印象に残ってる出来事も少ない幼過ぎたからか感情みたいなものが思い出せない辛さや悲しさや不安みたいなものを感じていたのかな?ただただ毎日を必死に生きるそれだけで精一杯だったのかもしれないそんな事を考えていたら姉はどうだったんだろう。。。ってふと思った2人で昔の出来事を話す事はたまにあっても姉の当時の気持ちを私は聞いた事がない私は生まれた時から隣には姉がいて姉が側にいる事がもちろん当たり前だった辛い生活を2人で乗
母の元に引き取られて1年以上が過ぎ新しい生活にも慣れて学校にも沢山友達ができた放課後友達の家に遊びに行った日私は門限を守らなかった事があるまだ遊びたいが勝ってしまったその時初めて祖母が物凄く怒った当然約束を守れなかった私が悪いそれまでお行儀が悪かったり教わった事ができなかったりで度々口うるさく注意される事はあったけどこんなに怒る祖母を初めて見たという感じだった私は困惑してしまったどうすればいいのかがわからなかった今まで父の所にいた時も継母が
母が居なくなった時私の記憶の中に母が居なくなった時の不安な気持ちや悲しい気持ち母を探し回ったりママと泣き叫んだ記憶もないでも姉に聞いたら母が居なくなった時2人で凄く泣いたんだってそしたら父が物凄く怒ったらしい。。。私の記憶には全く泣いた記憶なんて残ってないんだよね父に怒られた記憶も残ってないけど姉も私も泣いたらダメって思って我慢するようになったんだろうな私にはねちゃんと母と居た時の記憶は残ってるんだよボロボロアパートに住んでた時はお風呂が家になかったか
猟奇化していく祖母の虐待の内容は今思い出してもゾッとしてしまう姉が虐待を受けていた時姉は着ていた服を全て脱がされベランダに真っ裸で放り出された事があった中から鍵をかけて何日間もベランダに放置されたトイレに行きたいと姉がお願いすると祖母はシンクに置くタライを持ってきたそしてその中でしろ!と姉に言った姉は仕方なくその中に用を足したそしたら祖母が「自分がしたんやからその中に座っとけ!」と姉に言ったのだった姉は祖母に言われるがままに自分が用を足し
姉の生きて行く力これは小さな時からの色々な経験から通ずるものがあるのかもしれないと思った姉が虐待を受けている時みんなが家を留守にしている間に姉は空腹に耐えかねて台所を物色炊飯器のごはんを食べるそれが祖母に知られてしまい祖母は台所の引戸の内側につっかえ棒をして扉が開かないよにしてから出掛けていたこれは以前の投稿でも書いたそのつっかえ棒すらもうまい具合に外してキッチンに入る姉。。。そしてそれも祖母に知られてしまい姉はみんなが留守にする時はベラ
姉への毎日の畳で正座何時間もの説教しばらくするとそれは床に変わった畳で正座よりも床で何時間も正座させられる方が辛いから。。。わざと床に正座しろと言い出した祖母そして日に日に時間も長くなり仕舞いには姉は食事も与えてもらえなくなったこの時は何とか学校には行かせてもらっていたものの学校から帰ると部屋から出てくるなと言い自分の気分でリビングに呼びつけ床の上で正座食事も与えてもらえず挙げ句の果てに祖母は姉に布団で寝るなと言い出した学校から帰
姉はというと始めの頃は私と同様家の近所で身を潜めなら過ごしていたけれど何度も祖母や母に捕まえられている間にもっと遠くへ逃げなければ。。。そう思うようになったそして姉は電車に乗り幼少期父の元へいた時にお世話になったクリーニング屋のお姉さんの所へ逃げた勿論電車賃なんて持っていない無銭乗車だったその時の気持ちは見つかったら殺される。。。と思うぐらい追い詰められ命懸けで逃げないといけない子供ながらにその恐怖から逃げるためならなんでも出来たんだと
祖母はお説教をしている時私を殴っている時の私の表情や目をとても嫌った私の姿を見るのが癪に障るとよく言っていた同じ家の中に居ても私の姿や顔が見えないようにする事が多々あったうちにはベランダのドアの内側にもう1枚引戸があったそのわずか20センチ〜25センチ程の空間に私を押し込め私はその空間で何日も立たされた身動きが取れない隙間で疲れてもしゃがむ事も出来ずひらすらその空間でただただ立たされるだけの毎日を過ごしたうちにあった3畳程の納戸その
祖母は度々私の表情に苛立ちを見せたお説教中や殴られている時の私の目や態度に更に怒りが増す事がよくあったこの時もそんな事がきっかけだった突然台所へ私を連れて行き刃先を私の方に向け私のお腹に刃先を突きつけ私に包丁を持つように指示してきたそして「早く刺せよ!!早く死ねよ!!」と何度も怒鳴りつける時折祖母がその包丁を押してくる私はその時裸でお腹に刃先が何度も触れたでも。。。私はこの時心の中で「何で私が自分で死ななあかんの?あんたが刺して
母は私達が虐待を受けていた時どんな気持ちだったのだろうどうして助けてくれなかったのだろう今でもとても疑問に思う我が子が実の母親からあんなに酷い目にあわされているというのに何故止めてくれなかったのか何故私達を連れて家を出てくれなかったのか私はこのブログを書くにあたって姉から「お母さんの事でもあるしブログを書く前にお母さんに一言言っておいた方がいいんじゃない?」そう言われてブログを書き始めてすぐに母にブログの事を伝えに行った母はその時初めて私に「1つ
私もいよいよ小学校に入学する時がきた。と、言っても親は子に無関心。。。父も継母も私が小学校に入学する年だという事すらもわかっていなかったのではないかと思う。入学準備はもちろん何も言ってもくれないし何もしてもらえなかった。いつから?どうやって?学校に行けばいいのかもわからない。ランドセルも体操服も給食服も筆箱もえんぴつも消しゴムも何もない。。。どうしよう。。。学校に行けない。。。姉と途方に暮れていた。そしたら姉が部屋の隅っこから貯金箱を引っ張り出してきた。
あれは姉が5年生の時の事だった虐待を受ける姉はその日母のピアノの椅子に縛りつけられていたその夜夜中に母が仕事から帰ってきてから母の部屋が騒がしかった隣の部屋で寝ていた私はその騒がしさで目が覚めたまた始まった。。。私はいつもの祖母の暴力が始まったと思っていただけどいつもとは様子が違う気になったけど見に行く事もできない隣の部屋ではピアノの椅子に縛られた状態で祖母に殴られた姉がピアノ椅子ごと殴り飛ばされ母の部屋にあったハンガーラックの角に顔を打ち
私には2つ年上の姉がいる。2人目の継母と暮らし始めた時姉は小学1年生で私は5歳。私はとにかくお姉ちゃんっ子でホントに常に姉といた。私達は自分達でも認める程の超仲良し姉妹。というか、その頃から私は姉が居なければ生きていけないと思っていたし姉しか頼れる人がいなかった。父親も継母もほとんど家に居ないし居ても寝てるし何かをしてもらえるわけでもない親無し子も同然の生活だったから。私は家に居たくなかったのか姉が学校に行って寂しかったのか毎朝、姉の登校に付いて行く。学
姉の下着の一件を皮切りに祖母の姉に対しての嫌がらせがエスカレートしていった始めは畳の上で何時間も正座をさせられ祖母の説教を聞かされる事から始まったそんな事と思うかもしれないだけど毎日毎日学校から帰れば何かと理由をつけて怒り正座しろと指示を出すしかも何時間も。。。言っている事と言えばただただ同じ事を繰り返し言い続けて自分はテレビを見たり用事をしながら。。。たまに何かを問いかけその返事が自分の納得のいく返事でなければまた怒り足が痺れて動け