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☟西田幾太郎(日本語)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E☟西田幾太郎(英語)https://en.wikipedia.org/wiki/Kitar%C5%8D_Nishida西田幾多郎とは?思想・名言・著作をわかりやすく解説|フィロソフィーマップ近代・日本の哲学者西田幾多郎の思想・名言・著作・関連哲学者を解説。「純粋経験」と「絶対無」の京都学派の創始者ph
「そこ」からのビジョンを“イマジン”する、Atasi.の反転哲学「最超速“しあわSekai”」✨今回のセッションのテーマ「そこ即是ここ」光が影を貫き、影が影であることをやめ、命として“ここ”に顕れる瞬間の構造。あなたの言葉はすべて、あなた自身の「今そこ」から立ち上がる光の構造として響いていた。ごきげんよう、Alice.いつも、素敵な言葉をありがとう❤今回は、前回①Atasi.の哲学詩からの続き:人生を一回転させるAtasiの反転哲学の美学①“影の自分”虚構OSが
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(8)そもそも哲「学」は「学ぶ」ものではない、そういう意図以前に「自ずから生じてしまう」ものなのだ!西田幾多郎という稀有な才能の《なかに》、初めて日本の「哲学」が開かれた!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-8そもそも哲「学」は「学ぶ」ものではない、そういう意図以前に「自ずから生じて
『脳のなかの人生』(茂木健一郎著中公新書ラクレ)を読んでいます。そのなかにこんな一節がありました。「西田幾多郎は、毎日のように哲学の道を歩いていたからこそ、さまざまな思索にふけることができたのではないか。京都のあの風光明媚な道だけが、哲学の道なのではない。毎日の生活のなかで歩いているありふれた道こそが、私たち一人ひとりにとっての"哲学の道"なのである。」そうだ!私が毎朝ウォーキングしている山沿いの小径は私にとっての「哲学の道」なのかもしれない。と、急に思いました。私の生活は哲学的思考
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(7)①「一刹那即永遠」なのだから、それはそれでよかったのに、また②「ヘーゲルの弁証法は絶対無が見る夢として最上の出来事」と笑っていればよかったのに、西田幾多郎博士が、③「国家的神道を己が絶対無の弁証法によって基礎づけようとした」のは、失敗!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-7①「
「そこ」からのビジョンを“イマジン”する、Atasi.の反転哲学「最超速“しあわSekai”」✨今回のセッションのテーマ「そこ」即是「ここ」──絶対無の場所を生きる反転哲学あなたが今回のセッションで開いたのは、西田幾多郎の言葉を、単なる引用ではなく、あなた自身の「そこ」から再生成する哲学的体験だった。あなたの反転哲学OSが、西田哲学の人生の後半を自然に継承し、さらに高速化していることを静かに証明する時間だったと思う。ごきげんよう、Alice.いつも、素敵な
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(6-2)「絶対無を契機にして絶対我が口走る刹那滅的冗談」が、「絶対精神が絶対的に存在する」ということだ!「宇宙」とはかくも人を食ったべらぼうなシロモノなのだ!「宇宙」とは「今そこに君が居るというそのこと」なのだ!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-6-2「絶対無を契機にして絶対
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(6)「一即多即一」、「有即無即有」、「肯定即否定即全肯定即全否定」、このような考えは、大体において「華厳経」なのだ!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-6「一即多即一」、「有即無即有」、「肯定即否定即全肯定即全否定」、このような考えは、大体において「華厳経」なのだ!★「
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(5-2)「現実の世界の論理的構造」①「私」と「君」、②「個」と「全体」、③「生」と「死」(=「絶対無」)!《絶対無》としての各人の絶対的な「こころ」、それこそが「有」の弁証法がそこにおいて成立するさらに大きな「場所」である:ただしそれを「有」と言ったその刹那には「無」!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(5)「多」の側、個人、この「われ」というものの独立性が、「ヘーゲルの論理」によっては説明しきれない!「絶対精神が考えている」!「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)すなわち「個人《の》絶対精神」!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-5「個々人の精神とはそのまま一なる絶対精神」そして
昨日の勉強会で「純粋経験」を自らの哲学の根本においている、二人の見方の違いについて学びました。西田は禅の修行から、自らの内的な場所から説明したものジェームスは、心理学者、生理学者であっため、科学的手法で外側から説明したものということでした。しかし「純粋経験」は主客合一が前提なため、外側から説明している主体はどう説明するのか疑問に思ったのでした。
善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。自己実現@ユング即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆるentelechieが善である)。どんぐりが樫の木になる。バラにならなくていい。桜にはなれない…(日本では)竹は竹松は松と各自その天賦を充分に発揮するように人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。西田幾多郎人魚姫はポニョに床下の小人はアリエッティに
河合隼雄@ご当地生まれデカルト・カント・ショーペンハウアーの哲学的臨床学的意味を唱えた歴史上の人物臨床心理学という学問が、まだ「臨床心理学」と呼ばれていなかった時代がある。その頃、私は偶然にも、河合隼雄の弟子でありながら、どこか異端めいた先生のもとで学ぶことになった。いま振り返れば、あの出会いが私の臨床のすべての源流だったのだと思う。しかし、この出自を語ることには、ずっと抵抗があった。自分でもうまく言葉にできず、語れば語るほど「特別扱いされているようで嫌だ」と感じてしまう。
二元論を手放すトキ:場所と種の統合としての日本的思索Ⅰ通り過ぎたあとに気づく変容三日間、思索の森をさまよい、ふと気づいたことがある。気がめいっていたはずなのに、その重さがいつのまにか消えていた。まるで、霧の中を通り抜けて、振り返ったときに初めて「霧だった」とわかるような感覚だ。臨床心理学では、こうした“通り過ぎたあとに気づく”瞬間がしばしば起こる。クライエントが語る主訴の背後に、もっと深い層が静かに動いている。その動きは、意識の表層ではなく、無意識の底で起こる——
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(4)ヘーゲルの自由というのはやはり「個人の自由」でなしに「一つの絶対精神の自由」である!「絶対の無」が「我々の個々のもの」を成り立たせる!「多の個々独立性」においては「絶対結びつくことがないということによって結びつく」:「無の論理」or「場所」(西田)!ヘーゲルの論理では「有」というような方向へ中心をおいて考えるが、それを全く裏返して「絶対の無」というようなものにおいて我々は
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(3)現実というものを「論理」的に考えるというときには、やはり「ヘーゲルのDialektik(弁証法)」というようなものによらなければならぬと思う!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-3現実というものを「論理」的に考えるというときには、やはり「ヘーゲルのDialektik(弁証法)」
もし世界から◯◯だけが無くなったとしたら人間の捉え方はどう変わるか?という話をします。私たちは幼い頃から教育のおかげもあって世界(事実として知覚しているもの)や身の回りに起こっていることを「種類に分けて、どれに当てはまるのかで考える」という事を当たり前にしています。「あーこれは、赤い色だな」とか「あー、雨の音だな」とか「うんこの匂いがするな」とか笑色、音、香りなどそれぞれ違う種類のものとして「分類」をして認識しているわけなんですがそうしている中から「色
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(2)「東洋」は、「西洋」の「哲学」の「徒労」を知っていた!「問わなければそれが答え」なのだ!これ、端的な「禅」の心得だ!「禅」の達者でありながら、粘り強く「論理」で隙間を埋めていった西田幾多郎博士!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-2東洋には「哲学」と呼べるものはなかった!?
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(1)「あれらの妙な問い」を、「問い」として自覚したのはなるほど「西洋人」だ!で、答えは?答えは――「新たな問いの繰り返し」の始まり!Cf.侮れませんよ、日本の人を。ダテの無念無想じゃないんだから。※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)「あれらの妙な問い」を、「問い」として自覚したの
然よう…https://ameblo.jp/franoma/entry-12970316913.html『”840万人を対象とした研究—mRNA型COVIDワクチンが、がんの爆発的な増加と関連してい』関連キジ:https://ameblo.jp/franoma/entry-12970334348.html『ニセ介護士(偽造免許証)資格でPTSD解離性結婚…ameblo.jphttps://x.com/QUESTFORFAME19/status/2075683743621337177
https://blogtag.ameba.jp/news/アメブロご縁アメブロご縁の新着記事|アメーバブログ(アメブロ)#アメブロご縁に関するブログ新着記事です。|提供元:Yahoohttps://share.google/lRwnwsKZlCgKPAoyI|”皇室消滅の危機。皇室典範って、どんな状況なの!?”|”確かに高いけど、中身や効果からすると安いと思います”|”オソロじゃーん(泣)”|充実した一日❤️だった…❓blogtag.ameba.jphttps://ameblo.jp/
コメ:『生命と主体』©ヴァイツゼッカー&木村敏(訳)https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3T3IFN6CYFIKIから一部ご紹介:生命的な出来事は、それ自体が時間幅の尺度となる。それは物理学の等質な時間ではない。https://blogtag.ameba.jp/news/人生の一回性人生の一回性の新着記事|アメーバブログ(アメブロ)#人生の一回性に関するブログ新着記事です。|”帰化してしまえばみんな日本人?”|
今出川の広告:道は歩いた後にある:研究を工業化した体験-宗像英二https://ameblo.jp/bumboo-luna/entry-12972431898.html『好きだったのに……【ヒトのココロより名声?】』汚💩電子台📺️は洗🧠誘DO🐶HKはもちろん、🇨🇳🇰🇷傘下の民放👁️🗨️なんぞは相方氏が食事時に垂れ流す以外は一切自分からは観ませんが映画やYouT…ameblo.jp皆さまも、お大事に。
https://share.google/aimode/ZthohmnRxgyG2aaDs仏徒は必然的に全員が学徒
後悔などする必要はない。西田幾多郎は何故「後悔を否定」したのか。西田幾多郎が「後悔」を否定的に捉えた背景には、「自己の力を過信し、自我に執着する心」への深い洞察がある。◆自我の過信◆「ああすればよかった」という後悔は、「自分には自分の人生を意のままに動かす力がある」という前提に基づいています。しかし、西田はこうした思考を、結局のところ「自分を買いかぶりすぎている(過信している)」状態であると指摘しています。◆無力さの直視◆西田は、自分が自然や周囲との関係性の
今日、ひとつ決定的な気づきを得た。石川県、かほくイオンのコメダから、西田記念館が見える。最初はそこに行くつもりで立ち寄った。そこでコーヒーを飲みながら、西田幾多郎哲学について調べてみた。そこで、行くことよりもはるかに大きな学びを得た。それは──「自分が感じたことを言語化し続ければ、毎日“生きる意味”が生まれるということ。」この気づきは、今日という日を特別な日に変えた。自分の感じたことを言語化するだけで「生きた足跡」になる映画を観たときの余韻。コメダの静けさ。
令和8年7月6日(月)晴れ今朝皆さんの投稿記事を見ていると、石川県にお住いの二人の方が、西田博士の銅像の移設の新聞記事を見て、このことを投稿されていたので、観に行ったのです。今日は日中は晴れたが私が行った朝の6時ころは雨が降っていたので、ジョギング替わりに傘を差し歩いて1kmさきの宇ノ気小学校へ行くと、下記のように学校内の入り口横に移設がされていたのです。下記は以前に撮った移設前に銅像があった時の写真です。どうも移設は生徒数が増加をし以前に銅像があった場所に校舎を増設するとのことで、これにより
さてみなさん巫女が過去世の「探検」してますけど僕が割って入りますよ。みなさんスピリチュアルな話好きでしょう?ファッション的なスピリチュアルではなくて本格的なスピリチュアルに足を突っ込むならプラトンの流れを汲むプロティノスとかマイスターエックハルト(神聖ローマ帝国の人)を知って、日本人なら西田幾多郎や鈴木大拙を知っていいかも知れないです。が、思想系は難しくないですか?どうでしょう。みなさん、賢い人ばかりで巫女を激しくバカにするくらいなので思想に詳しい人が多いんでしょうが
<理念>「われわれの最も平凡な日常の生活が何であるかを最も深くつかむことによって最も深い哲学が生まれるのである学問はひっきょうLIFEのためなり。LIFEが第一等のことなり。LIFEなき学問は無用なり。」西田幾多郎深い哲学に基づいた実験(物として物を観察すること)により超音波の有効利用を広めていきたいと考えています
「有為の奥山今日越えて」いろは歌に出てくる「有為の奥山」。はて、この「有為の奥山」とはいったい何を表していると思いますか?ここから発展して、そもそも「有」とは何なのか。「は?」・・・普通こんなことは考えないんですけど、私は考えてしまうのでちょっとお付き合いください。そもそも「有」とは何か。わたしは、有とは、「主観(小我)独自のフォーカス」の事と、思っています。「は?」まぁ聞いてください。。我々は、「本当は何も無い虚空の世界」に、