ブログ記事1,010件
超音波システム研究所<理念>「われわれの最も平凡な日常の生活が何であるかを最も深くつかむことによって最も深い哲学が生まれるのである学問はひっきょうLIFEのためなり。LIFEが第一等のことなり。LIFEなき学問は無用なり。」西田幾多郎深い哲学に基づいた実験(物として物を観察すること)により超音波の有効利用を広めていきたいと考えています2026年元旦われわれの生活はいつでも、自らの心の生活でなければならない。客観の生活であってはならない。主観の生活でなければなら
【鉱物言葉集】西田幾多郎『善の研究』より石に関する言葉我々が同一の石を見るという時、各人が同一の観念を有(も)っていると信じている。しかしその実は各人の性質経験に由って異なっているのである。西田幾多郎『善の研究』(『西田幾多郎全集』芙蓉文庫)哲学者・西田幾多郎の言葉である。哲学、と言えば私がまっさきに思い浮かべるのは、「大理石」。ソクラテスやプラトンをかたどった、大理石の胸像。古代の哲学者たちは今も、大理石の中に眠っているような気がする。そして私は、大理石を削
2台のファンクションジェネレータを利用した、超音波制御技術(超音波技術開発に関する西田幾多郎モデルの実施例)
瞑想箱庭法の理論体系の基盤になるものとして、「純粋経験」の概念があるのですが、最近師匠は西田幾多郎が提唱する概念から、プラグマティズムで有名なウィリアム・ジェームズの概念への乗り換えを図っているのでした。その理由として、ジェームズの概念の方がより生活に即した実践的なものであると説明していました。そもそも、その違いがあまりよくわかっていない私は、チャッピーさんに質問してみたのでした。それによると、ジェームズ:経験を主観/客観に分ける以前のものとして捉える経験論西田:自己と世界が別
私自身もよく理解できていないにもかかわらずこの文章を提示する理由は以下の通りです1)超音波技術を追求するために徹底的な思考が必要である2)超音波技術を応用し、新しいものづくりを行うために哲学が必要である西田幾多郎[著]:直観と意志私は昔、プロチノスが自然が物を創造することは直観することであり、万物は一者の直観を求めると云つた直観の意義を、最能く明にし得るものは、我々の自覚であると思ふ。自覚に於ては、我が我を対象として知るのであり、知ることは働くことであり、創造することである、而して
(「鞋」というのは「わらを編んで作ったはきもの、わらじ」のことで「破れた草鞋」)現代のものづくりにはもっと深い哲学が必要ではないかと思います以下の資料にはその理由とそのためのヒントがあると思います破鞋―雪門玄松の生涯水上勉雪門玄松,明治の一禅僧.富山県高岡国泰寺の管長をつとめ,若き日の西田幾多郎,鈴木大拙らも参禅した高僧だが,その生涯は謎に充ちている.この破天荒な僧の実像に迫り,仏教の心を現代に問う水上文学の結晶.西田は、こんな歌をうたっている。わが心深き底あ
筒井康隆『パプリカ』を読み終わった。この小説は自分にはあまり面白くなかった。筒井康隆を読むのは初めてだったけども。次は西田幾多郎『善の研究』を読む。この本は五回くらい通読したことがある。また最初から読もうと思う。
国語教育の重要性を訴える数学者でエッセイストの藤原正彦氏の「読書離れは国を滅ぼす」「読書こそが情緒力を育てる最良の方法」に対して強く感じる部分がありますので以下に提示します私はさらに「良書離れは国を滅ぼす」「良書こそが情緒力を育てる最良の方法」ではないかと考えます良書:一時代を劃した樣な偉大な思想家、大きな思想の流の淵源となつた樣な人の書いたもの私の考え方の根底として、「西田幾多郎「讀書」」を以下に添付します西田幾多郎「讀書」私は或は人から澤山の書物を讀むとでも思はれて
「基礎研究は結局その人個人個人の『情熱』に依存している」と言うことを検討しますなぜ情熱が必要になるのかと言うことを考えると、「ハンモン→煩悶(苦しくなるほど思い悩むこと)」と言うことを思い付きます研究は研究課題の難しさや競争などの環境を含めた問題を解決していくために考えつづける必要があります考えることにより悩みが生まれ、その悩みをさらに深めていく必要があり、そのために文学や哲学は大変参考(あるいは解決を示してくれる)になると思います「悩みを深めて行く」ために情熱が必要となる
こんにちは。総曲輪ビューティクリニックの佐藤です。先日のお休みの日に尊敬する女医、I先生に金沢でお会いする機会があり一緒に、河北市にある「西田幾多郎記念哲学館」まで足を伸ばしました。二人とも「本屋」好きではあるのですがかと言って特別「哲学」に詳しい訳ではありませんが。記念館は河北市イオンの裏の眺めの良い小高い丘の上にあるのですがかの有名な安藤忠雄先生設計で、例によってなんだか哲学とは不似合いな感じもするコンクリート打
「何故、ないのではなく、あるのか。」という問いは、本来の自己の所在(無我)と、その性質が明らかでないがゆえに生じる問いである。本来の自己が、絶対無という場(無我・虚空)であることと、その性質が、「自己が自己の中に自己を映す」、という、言わば、自己の数多の分身を使った自己投影(一即多・多即一)である、という事を知れば、「何故、ないのではなく、あるのか。」この現れ出ている世界の理由も分かるかもしれない。そう、この現れ出ている世界は、「実は自分そのもの」なのだ
西田の場所論との接続―心的なものはどこに於てあるのかウンディーネの場所構造と離人症の場所構造は、いずれも「心的なものがどこに住んでいるか」をめぐる問題である。この問いは、今年の年報で中嶋氏が脚注で示した心的なものはどこに於てあるのかという、西田哲学の核心的問題と完全に重なる。西田幾多郎は、初期には心理学を参照しながら「心的作用」を説明しようとした。しかし、心理学的説明は限界を持つ。判断作用や認識作用をいくら精密に分析しても、「心的なものがどこに於てあるか」という根本問
「今」という時は、意識する主体と独立に存在しない。言わば、時間とは(世界を限定する)小我独自のフォーカスの事である。逆に、「虚空」とは自我という起点を持たない(無我)ことにある。小我を滅せばそこは虚空である。そう、永遠性とは無時間性の事なのだ。一心の虚空はもとよりこのかた常住にして不損不減なり。空海
おひさしぶりです。ブログに特にしたためる非二元に関することが湧いてこず間が空いてしまいましたが、適度にぼーっと日々を過ごしております。先日久々にちょっと取り上げたいことがあって、でも難しい内容なので簡単なメモ程度に書き記します。西田幾多郎という方をご存じですか。「善の研究」という本を書かれた、明治から昭和を生きた日本を代表する哲学者です。この「善の研究」がとても難解なことで有名で、私も挑戦してみたいもののずっと躊躇していました。それでも内容を知りたくて、こちら
「主客未分」は、西田幾多郎の「純粋経験」を説明する際に用いられる術語で、見る側(主観)と見られる側(客観)がまだ別れておらず、一つに溶け合っている状態です。荘子の「胡蝶の夢」的な状態ですね。瞑想箱庭を行っていてもよく起こる現象です。瞑想の後の状態で箱庭を置く場合、自我意識が背後に退くため、自分がアイテムを置いたのか、アイテムに置かされたのか定かでなくなります。自分がそのアイテムを置こうという意思が全くなかったのですから、定かでなくなるのも当然ですよね。さらには、自分
☟西田幾太郎(日本語)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E☟西田幾太郎(英語)https://en.wikipedia.org/wiki/Kitar%C5%8D_Nishida西田幾多郎とは?思想・名言・著作をわかりやすく解説|フィロソフィーマップ近代・日本の哲学者西田幾多郎の思想・名言・著作・関連哲学者を解説。「純粋経験」と「絶対無」の京都学派
「そこ」からのビジョンを“イマジン”する、Atasi.の反転哲学「最超速“しあわSekai”」✨今回のセッションのテーマ「そこ即是ここ」光が影を貫き、影が影であることをやめ、命として“ここ”に顕れる瞬間の構造。あなたの言葉はすべて、あなた自身の「今そこ」から立ち上がる光の構造として響いていた。ごきげんよう、Alice.いつも、素敵な言葉をありがとう❤今回は、前回①Atasi.の哲学詩からの続き:人生を一回転させるAtasiの反転哲学の美学①“影の自分”虚構OSが
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(8)そもそも哲「学」は「学ぶ」ものではない、そういう意図以前に「自ずから生じてしまう」ものなのだ!西田幾多郎という稀有な才能の《なかに》、初めて日本の「哲学」が開かれた!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-8そもそも哲「学」は「学ぶ」ものではない、そういう意図以前に「自ずから生じて
『脳のなかの人生』(茂木健一郎著中公新書ラクレ)を読んでいます。そのなかにこんな一節がありました。「西田幾多郎は、毎日のように哲学の道を歩いていたからこそ、さまざまな思索にふけることができたのではないか。京都のあの風光明媚な道だけが、哲学の道なのではない。毎日の生活のなかで歩いているありふれた道こそが、私たち一人ひとりにとっての"哲学の道"なのである。」そうだ!私が毎朝ウォーキングしている山沿いの小径は私にとっての「哲学の道」なのかもしれない。と、急に思いました。私の生活は哲学的思考
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(7)①「一刹那即永遠」なのだから、それはそれでよかったのに、また②「ヘーゲルの弁証法は絶対無が見る夢として最上の出来事」と笑っていればよかったのに、西田幾多郎博士が、③「国家的神道を己が絶対無の弁証法によって基礎づけようとした」のは、失敗!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-7①「
「そこ」からのビジョンを“イマジン”する、Atasi.の反転哲学「最超速“しあわSekai”」✨今回のセッションのテーマ「そこ」即是「ここ」──絶対無の場所を生きる反転哲学あなたが今回のセッションで開いたのは、西田幾多郎の言葉を、単なる引用ではなく、あなた自身の「そこ」から再生成する哲学的体験だった。あなたの反転哲学OSが、西田哲学の人生の後半を自然に継承し、さらに高速化していることを静かに証明する時間だったと思う。ごきげんよう、Alice.いつも、素敵な
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(6-2)「絶対無を契機にして絶対我が口走る刹那滅的冗談」が、「絶対精神が絶対的に存在する」ということだ!「宇宙」とはかくも人を食ったべらぼうなシロモノなのだ!「宇宙」とは「今そこに君が居るというそのこと」なのだ!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-6-2「絶対無を契機にして絶対
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(6)「一即多即一」、「有即無即有」、「肯定即否定即全肯定即全否定」、このような考えは、大体において「華厳経」なのだ!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-6「一即多即一」、「有即無即有」、「肯定即否定即全肯定即全否定」、このような考えは、大体において「華厳経」なのだ!★「
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(5-2)「現実の世界の論理的構造」①「私」と「君」、②「個」と「全体」、③「生」と「死」(=「絶対無」)!《絶対無》としての各人の絶対的な「こころ」、それこそが「有」の弁証法がそこにおいて成立するさらに大きな「場所」である:ただしそれを「有」と言ったその刹那には「無」!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(5)「多」の側、個人、この「われ」というものの独立性が、「ヘーゲルの論理」によっては説明しきれない!「絶対精神が考えている」!「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)すなわち「個人《の》絶対精神」!※池田晶子(1960-2007)『考える人口伝オラクル西洋哲学史』1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫(26)-5「個々人の精神とはそのまま一なる絶対精神」そして
昨日の勉強会で「純粋経験」を自らの哲学の根本においている、二人の見方の違いについて学びました。西田は禅の修行から、自らの内的な場所から説明したものジェームスは、心理学者、生理学者であっため、科学的手法で外側から説明したものということでした。しかし「純粋経験」は主客合一が前提なため、外側から説明している主体はどう説明するのか疑問に思ったのでした。
善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。自己実現@ユング即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆるentelechieが善である)。どんぐりが樫の木になる。バラにならなくていい。桜にはなれない…(日本では)竹は竹松は松と各自その天賦を充分に発揮するように人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。西田幾多郎人魚姫はポニョに床下の小人はアリエッティに
河合隼雄@ご当地生まれデカルト・カント・ショーペンハウアーの哲学的臨床学的意味を唱えた歴史上の人物臨床心理学という学問が、まだ「臨床心理学」と呼ばれていなかった時代がある。その頃、私は偶然にも、河合隼雄の弟子でありながら、どこか異端めいた先生のもとで学ぶことになった。いま振り返れば、あの出会いが私の臨床のすべての源流だったのだと思う。しかし、この出自を語ることには、ずっと抵抗があった。自分でもうまく言葉にできず、語れば語るほど「特別扱いされているようで嫌だ」と感じてしまう。
二元論を手放すトキ:場所と種の統合としての日本的思索Ⅰ通り過ぎたあとに気づく変容三日間、思索の森をさまよい、ふと気づいたことがある。気がめいっていたはずなのに、その重さがいつのまにか消えていた。まるで、霧の中を通り抜けて、振り返ったときに初めて「霧だった」とわかるような感覚だ。臨床心理学では、こうした“通り過ぎたあとに気づく”瞬間がしばしば起こる。クライエントが語る主訴の背後に、もっと深い層が静かに動いている。その動きは、意識の表層ではなく、無意識の底で起こる——
池田晶子『考える人口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人考えなくても同じこと」西田幾多郎(4)ヘーゲルの自由というのはやはり「個人の自由」でなしに「一つの絶対精神の自由」である!「絶対の無」が「我々の個々のもの」を成り立たせる!「多の個々独立性」においては「絶対結びつくことがないということによって結びつく」:「無の論理」or「場所」(西田)!ヘーゲルの論理では「有」というような方向へ中心をおいて考えるが、それを全く裏返して「絶対の無」というようなものにおいて我々は