ブログ記事31件
blogNo.121181102金戦国大名で下剋上のさきがけといわれる、北条早雲が小田原城を攻め、これを奪ったのは明応4年(1495)、齢(よわい)64歳の時でした。大器晩成とはこのこと。この時から、伊豆一国を治めて、三浦義同(よしあつ)・義意(よしおき)親子を攻め滅ぼすまで、実に20年もかかっています(85歳)。この事実からも、早雲は「下剋上のさきがけ」というイメージからは程遠いものがあります。歴史家・作家はよく早雲のことを「奸三七英」といいます。奸雄(ずる賢い英雄)が三分、英雄が七
blogNo.107181019金高島秋帆(たかしましゅうはん1798-1866)は、江戸末期の兵学者・砲術家。長崎生。長崎町年寄・鉄砲方となり、大砲の買い付け・鋳造に努め、幕府に洋式砲術採用を建議。武州徳丸原で砲術演習を行って、江川太郎左衛門ら幕末西洋砲術家に多大な影響を与えた人物です。しかし、その道のりは順風満帆ではありませんでした。ここで、「ゆで蛙の法則」というたとえ話があります。蛙を熱湯の鍋に入れると、驚いてすぐに飛び出し、命からがら逃げ延びます。ところが、ぬるい温度の湯
blogNo.99181011木石田三成ほど、割りの合わない戦国武将はいないでしょう。また、逸話も多いですよね。関ヶ原の戦いでは、負けるのが分かっていながら、豊臣秀吉の弔い合戦と決起し、戦いのやおもてに立って、歴史の汚名を一身に背負っています。負けて捕縛された三成は、徳川家康と対峙したとき、「自分にとって太閤殿下の厚意は、例えようもないほど大きい。家康を滅ぼさなければ、豊臣のために良くないと思い、敢えて軍を起こした。戦いに臨んで裏切り者が出たので、勝つべきいくさに打ち負けたのは口惜
blogNo.92181004木室町幕府十五代将軍、足利義昭は、天正元(1573)年、織田信長によって京都から追放されました。これで室町時代は終焉を迎えます。信長と聞くと「戦国」のイメージが強いのですが、この時まで「足利将軍」は存在しており「室町時代」は続いていたのです。けれども、延元元(1336)年、足利尊氏が京都に室町幕府を打ち立てて以来、幕府が安定していたのは、足利三代将軍義満・義持(よしもち)・義教(よしのり)の三世にわたる50年間だけでした。それ以前は南北朝の動乱期で、八
blogNo.88180930日上野は色々な顔を持っています。博物館・美術館・動物園が集まる文化的なエリアと、商店街・歓楽街が集まる庶民的なエリアからなり、ユニークな街として栄えてきました。ところで、上野公園・東京藝術大学は元々その全てが寛永寺の広大な境内だったとご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。この寛永寺は天海僧正が発願し、第三代将軍徳川家光が建てたものなのです。(↑往時の寛永寺境内。左上が不忍池、中央下が上野駅)寛永寺を何故建立させたかといえば、陰陽道・風水から来
blogNo.87180929土かの坂本龍馬(1835-1867)の妻、お龍(おりょう)のことに、今日は触れてみようと思います。お龍は、勝気で強い女性だったと言われています。1866年1月23日、寺田屋事件が起きますが、その時、龍馬を救ったのは他ならぬ、お龍でした。薩長同盟締結にこぎ着け、長州藩の三吉慎蔵と、寺田屋の2階で祝杯をあげていた時、寺田屋の女中だったお龍は階下で風呂に入っていました。庭先での不穏な空気に感づいた彼女は、着物もまとわず2階に駆け上がり、役人が急襲してきたことを
blogNo.84180926水『東海道五十三次』の風景画で有名な、「安藤広重」の名前は?歌川広重なの?どっちなの?というお話しです。広重は、寛政9(1797)年、定火消同心(じょうびけしどうしん)である安藤源右衛門の長男として生まれました。名は徳太郎。文化8(1811)年、15歳の時、浮世絵師をこころざし歌川豊広の門下に入ります。そして翌年「広重」の画号をさずかります。つまり「歌川広重」の誕生です。そして、天保4(1833)年から順に出版されたのが、大ヒット作『東海道五十三次』です
第79回180921金隻眼の武将、独眼竜政宗こと伊達政宗は、生涯に2度のピンチを「一か八かの大パフォーマンス」でしのいでいます。生か死かーーーーその挟間で、政宗のとった奇策は?2度とも、通常ならば斬首か切腹を申しつけられる確率が大でした。しかも、このピンチの相手は、2度とも、天下人・秀吉でした。一件目は、、、、戦国時代を平定し、天下布武の志で、戦のない平和の世を生み出そうとした織田信長のあとをとり、天下人・秀吉。常々、秀吉は、「伊達の小僧。東北地方での勝手な戦はままならぬ。
吉良邸にに討ち入った赤穂浪士四十七士には、もちろん妻子のある人も多かったのですが、当時切腹を命じられた武士の男児は、15歳になると流罪が申し渡される決まりでした。しかし仏門に入ることで刑を免れた者もいました。たとえば、岡島八十右衛門(やそえもん)の長男・藤松、木村岡右衛門の長男・惣十郎は、ともに父が切腹した時、9歳でしたが、両名とも15歳を待たずに出家して刑をまぬがれています。それどころか、再士官(公務員)の道を開いた者すらいたのです。奥田貞右衛門の子・清十郎(当時2歳)は、秋元但馬守の家
徳川将軍が、亡くなると将軍の側室たちは、髪をおろしてそれを棺に供えました。その後、彼女たちは将軍の位牌を頂戴して「桜田御用屋敷」(別名:比丘尼屋敷)にはいり、そこで余生を過ごしました。屋敷での生活は厳格を極めたといいます。衣食住に不自由は無かったものの、朝は位牌に向かってお経を唱え、その後、就寝まで古参の尼の監視下で一切外出を許可されずに過ごしたそうです。外出が認められるのは、正月の年賀の登城・御台所(みだいどころ:将軍などの高貴な者の妻のこと)のご機嫌伺い・将軍の命日の参拝のみ、という厳し
奈良時代の学者・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(※1)は、養老元(717)年に、吉備真備(きびのまきび)(※2)らと唐にわたり、唐の役人に登用されました。以降、35年間唐にとどまり、ようやく帰国の途につきましたが、その船がベトナム(安南)の沿岸に漂着してしまったため、とうとう生きて祖国の地を踏むことなく没しました。このように、当時、唐への行き来が如何に困難だったかがわかります。宝亀9(778)年には、大伴継人(おおとものつぐひと)(※3)らを乗せた遣唐使船が、唐からの帰路、激しい波浪で艫(とも
みなさんは、横浜市鶴見に東洋一の遊園地があったのをご存じですか?その遊園地は、少女歌劇団も持っており、「西の宝塚、東の花月園」とも称されたそうです。ご存知の方は少ないです。もっとも、潰れた歌劇団と、今を時めく宝塚歌劇団を比べたら、ファンの方なかんずく関西の人が怒りますね。関東の方は、人によっては「花月園競輪」の印象が強い方も多いと思います。実際、平成22(2010)年まで60年間、「そこ」に競輪場はあったのです。赤鉛筆を耳にはさんだオッサンたちが日がな一日、目を血走らせていたのは事実です。
戦国の勇・越後の龍、上杉謙信(※)には、結婚したという記録が全くありません。生涯独身だったと言われています。正室がいなければ、側室を持ち、世継ぎを残そうとするのが昔の習い。彼にはそれもありません。そこで出てくるのが色々な思惑です。いわく、男色(ホモ)だった、糖尿病がひどく生殖能力がなかった、果ては実は女性だった…。3つ目などは「あんぐり」してしまいますが、流言というものが無責任で恐ろしいのは、今も昔も変わらないということでしょう。しかし、謙信の場合、これらを肯定する史料も、否定する史料もない
現在、上野の東京国立博物館で「縄文:JOMON」展が開かれていますが、その一万年続いた縄文時代。やがて弥生時代になった時、縄文人(※)はどこへ行ったのでしょうか?(↑復元された縄文人。TVより)教科書的には、狩猟生活をしていた縄文人は、稲作の文化を携えてやってきた弥生人に征服・駆逐された、というのが、まあ定説になっています。現に、縄文を象徴する土偶や縄目模様の土器は、弥生になるといきなり姿を消し、青銅器などがとって変わります。しかし、実際は弥生人の東進は、西からゆっくりと行われたと言
永禄11(1568)年に京都上洛を果たした織田信長を、ある連歌師が訪れ扇2本を献納して、吟じました。《二本手に入る今日のよろこび》と。「二本」は「日本」を、「今日」は「京」を、それぞれかけたものです。信長が、最強と言われた武田軍を尻目に、一早く上洛を果たせたのは、信玄が謙信との戦に手こずっていたからでした。(時代祭:織田公上洛列、2枚とも)このように、戦国大名にとって、京都を制圧することは天下を治めることを意味しました。実際、上杉・武田・朝倉・今川・三好・尼子といった名だたる戦
今日は、「フランシスコ・ザビエル」(※1)のことを考えたいと思います。しかも、日本を離れたあとのことを……。フランシスコ・ザビエルは、言うまでもなく、日本に初めてキリスト教を伝えた人ですよね。スペイン人のザビエルが、遥か遠く日本まで布教に来たのは、ポルトガル王ジョアン三世の指示でインド布教に赴き、西端ゴアを拠点に布教を広げている際、アンジローと名乗る日本人と知り合ったのがきっかけでした。ザビエルは、天文18(1549)年、アンジロー(ヤジロウとも)の道案内で薩摩に上陸し、島津貴久に謁見し
今日は、金閣寺と銀閣寺に「サクッ」と、触れてみたいと思います。両方とも室町時代のお話し。まず、金閣寺。三代将軍足利義満(※1)は、現在の京都市北区の地に北山殿(きたやまどの)という別荘を建てました。死後、その遺言により、北山殿の敷地内に夢窓疎石(むそうそせき)(※2)を開山として「鹿苑寺」(ろくおんじ)が建ちます。その舎利殿は三層からなり、内外に金箔を貼りつけられたところから、俗に「金閣寺」と呼ばれるようになりました。鹿苑寺は、応仁の乱で消失します。昭和にも消失します(※3)が、再建されて
今日は「シンセングミ」を考えます。幕末の人斬り部隊「シンセングミ」。今日は「文字」を検討してみます。普通「新撰組」を使うことが多いですが、「新選組」も「アリ」なんだ、というお話し。昭和3年、作家子母澤寛の『新選組始末記』と、歴史家平尾道雄の『新撰組史』が相次いで刊行されました。当然話題になりました。「どっちが正しいのだ?!」ようよう、二人の対談が行われて、子母澤は、壬生屯所に残る隊士の落書(らくしょ)に「選」と書かれていた、と。対して、平尾は、『会津藩庁記録』に記された文字が「撰」
今日は「お寺のハテナ」を考えます。寺院の門を「山門」、寺院の創始者を「開山」、平地に建っているのに「〇〇山△△寺」と言うのか?不思議じゃありません?例えば、京都の南禅寺。左京区の町中に建っているのに「瑞龍山南禅寺」が正式名称です。南禅寺は後醍醐天皇によって、1334年に「京都五山」の第一位とされ、足利将軍義満からは「天下第一」の称号が与えられて、「京都五山」の上位に置かれました。ここでいう「五山」も山にはありませんよね。(↑京都五山の大文字焼き)寺院の名前に「山」がつく風習は、その所在
く今日は「東の方のこと」を考えます。時代によって違うんですね。いままで、知ったかぶりだった・・・まず、「東国」ですが、古くは日本書紀に見られます。その範囲は、おおむね遠江国(とおとうみのくに)(浜松)・信濃国を結ぶ線より東を指していました。この700年代初頭頃は、蝦夷(えみし)の動きを牽制するため、防人(さきもり、辺境の地の警護人)が動員された地域でした。この頃の大和王権の権力範囲が窺えます。時が進むと東国の意味合いが違ってきます。鎌倉時代になると、六波羅探題(※)が管轄する「西国」
今日は「戦」の「呼び方」を考えます。いやぁ、実に色々な呼び方があるもので・・・「変」が付くところで有名なのは、桜田門外の変・禁門の変。など……(↑桜田門外の変)「乱」が付くところで有名なのは、壬申の乱・保元平治の乱・応仁の乱。など……(↑応仁の乱)「役」が付くところで有名なのは、前九年の役後三年の役・文永弘安の役(元寇)・文禄・慶長の役。など……「戦い」が付くのは沢山ありますが、壇ノ浦の戦い・桶狭間の戦い・関ヶ原の戦い・鳥羽伏見の戦い。などなど……(↑関ヶ原の戦い)いやーー、思
今日のお題は、恐れ多くも畏くも、天皇様のお話しです。エンペラー。日本だけで使われてきた「天皇」の称号は、秦の始皇帝(しんのしこうてい)以来、国家君主の称号として用いられるようになった「皇帝」と、その別称であるところの「天子」(てんし、天命を受けて人民を治める)を合わせて造られた語だとされています。『日本書紀』には、神武から持統に至るまでの、42の天皇の名が記されています。しかし、これらを一様に天皇と呼ぶのは正しくありません。正しくは、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という法律で天皇の
今日のお題は、東京は日本橋(にほんばし)です。日本橋(にっぽんばし)は、大阪の道頓堀川にもありますが、今回は東京のお話し。日本橋(東京都中央区)は、主要街道の起点ともなっており、元々は、徳川家康が架橋させたものです。現在の石橋ができたのは、明治44(1911)年ですから、100年以上経っていますね。そして、国の重要文化財ともなっています。そこで、今日の本題です。橋の銘板「日本橋」は誰の筆になるものでしょう?答えは、何と!最後の将軍、徳川慶喜なんですね!明治維新後、50年近くも経つの
今日は、元号を考えたいと思います。日本で最初の元号は、「大化」(645年)です。もともと元号制度は中国のそれを模したもので、「大化」以前は「〇〇天皇の〇年」という形で表されていました。そこに大化の改新が起こります。時は皇極天皇(こうぎょくてんのう)の4(645)年、舒明天皇(じょめいてんのう)の皇子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)らと謀って、大和王朝で最大の権力を誇っていた蘇我氏の継承者・蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害するという、いわばクーデターです
神田明神は、神田の古本屋街と同様、神田の駅のそばにあると勘違いされる向きもありますが、JR・東京メトロの御茶ノ水駅が最寄りです。住所でいうと、東京都千代田区外神田、となります。今回は、神田明神のことを深くお伝えするつもりはありませんが、概要くらいは、ねぇ?神社には、「社格」というのがあります。神田明神の旧社格は(東京府の)府社で、現在は、神社本庁(※1)の別表神社(※2)です。また、「元准勅祭社」(もとじゅんちょくさいしゃ)(※3)、「東京十社」(※4)の一でもあります。創建は天平2(730)
【悪代官】時代劇には、なくてはならない存在です「〇〇、お主もなかなか、悪よのう」農民から法外な年貢を取り立てて、贅沢三昧の暮らしをする。商人とつるんで私腹を肥やす。娘をてごめにして、無理やり妾にする。これらが、主にテレビの時代劇が作り出してきた、江戸時代の悪代官像ですね。でも、これ、「正反対」だって、ご存知でしたか?「代官」職は、中世からありますが、ややこしいので、ここでは江戸に限ったお話し。「代官」とは、幕府・諸藩の直轄地を支配する地方の職名でした。2種類あり、幕府と大名があ
今日は、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を取り上げたいと思います。少しメジャーな人物なので、この場で述べるのには無理があるかもしれませんし、ご存知の方も多いと思いますが、挑戦したいと思います。また、文章が長くなると予想しています。つまらないかもしれませんが、どうかお付き合い下さい。簡単に触れますと、彼は江戸期、伊勢国の商人・船頭で、遭難し、這う這うの体でロシアに辿り着き、「初めてロシアを見てきた日本人」として知られています。鎖国の時代ですから、ようやく帰国できた際も、罪人扱いされてしま
鎌倉時代、元(モンゴル帝国)が日本に攻めてきました。それも2度も。今日は、その「元寇」(げんこう)のお話し。蒙古襲来!記録に残っている中では、日本が「初めて」外国に攻められた出来事です。しかも、相手が悪い。アジア全土をほぼ制圧していた、クビライ・カアンが、東の果ての日本にまで触手を伸ばしてきたのです。しかも、時の幕府は北条氏が仕切る、九州から遠く離れた鎌倉。さぞや上を下への、大騒動だったことでしょうね。詳しく見てみましょう。1度目は、日本の記録で「文永の役」(1274)と呼ばれてい
もう随分まえから、聖徳太子まぼろし説が唱えられています。二種類ありますよね。・肖像画は本人では無い?・そもそも存在しない?私の年代だと、聖徳太子といえば、なんと言っても「お札」です。この顔が、聖徳太子だと思って、長年生きてきました。調べますと、昭和57(1982)年に、東京大学史料編纂所の所長だった、今枝愛真先生が「聖徳太子とは無関係の肖像画ではないか」と仰って話題になったあたりが、嚆矢(こうし:はじまり)ではないかと思われます。今では学校の教科書にも「と思われる」と記載されてい
京都の“本願寺”、有名ですよね。京都市下京区にあります。本願寺が2つあるのも、有名なお話し。そう、西と東……。その2つともが下京区にあるのです。堀川七条に建つのが「お西」と呼ばれる、西本願寺です。で、烏丸七条に建つのが「お東」と呼ばれる、東本願寺です。本願寺、最初は一つだったんですよね。それが、江戸時代のはじめに東西に分裂して二つになったんです。なんでだろ?ちょと固いハナシをします。。。本願寺は元々、親鸞(浄土真宗の開祖で有名ですよね)の娘の覚信尼(かくしんに)が、京都東山