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く今日は「東の方のこと」を考えます。時代によって違うんですね。いままで、知ったかぶりだった・・・まず、「東国」ですが、古くは日本書紀に見られます。その範囲は、おおむね遠江国(とおとうみのくに)(浜松)・信濃国を結ぶ線より東を指していました。この700年代初頭頃は、蝦夷(えみし)の動きを牽制するため、防人(さきもり、辺境の地の警護人)が動員された地域でした。この頃の大和王権の権力範囲が窺えます。時が進むと東国の意味合いが違ってきます。鎌倉時代になると、六波羅探題(※)が管轄する「西国」
今日は、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を取り上げたいと思います。少しメジャーな人物なので、この場で述べるのには無理があるかもしれませんし、ご存知の方も多いと思いますが、挑戦したいと思います。また、文章が長くなると予想しています。つまらないかもしれませんが、どうかお付き合い下さい。簡単に触れますと、彼は江戸期、伊勢国の商人・船頭で、遭難し、這う這うの体でロシアに辿り着き、「初めてロシアを見てきた日本人」として知られています。鎖国の時代ですから、ようやく帰国できた際も、罪人扱いされてしま
奈良時代の学者・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(※1)は、養老元(717)年に、吉備真備(きびのまきび)(※2)らと唐にわたり、唐の役人に登用されました。以降、35年間唐にとどまり、ようやく帰国の途につきましたが、その船がベトナム(安南)の沿岸に漂着してしまったため、とうとう生きて祖国の地を踏むことなく没しました。このように、当時、唐への行き来が如何に困難だったかがわかります。宝亀9(778)年には、大伴継人(おおとものつぐひと)(※3)らを乗せた遣唐使船が、唐からの帰路、激しい波浪で艫(とも