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おはこんばんちは、ZAPPAでございます(`ω´)さてさて、昨日も言ったように、今夜21時は、17LIVEでゲーム配信の再開、壺おじリベンジが配信開始されます!!今回のために、サムネもまた前回のデータをもとに調整して作り直しましたので、ここで改めて大々的に告知いたしますΣdリベンジ・壺おし実況プレイ配信@17LIVE鬼畜ゲームでお馴染みの壺おじことGettingOverIt、今回こそ17LIVEで配信したます!!今回はO
おはこんばんちは、ZAPPAでございます(`ω´)みなさん、いよいよ近日中に僕の17LIVEでの配信が再開しますよぉ!一先ず最初に予定している日にちとゲームは・・・2/13(土)21:00頃GettingOverIt前回、つまり先週の土曜日に配信して、動画が重すぎて無残な結果に終わった壺おじ配信を、とりあえず明日の配信でリベンジいたしますΣd今度は、ゲームの操作自体もちょっとコツが掴めてきたので、きっと前回よりはぐだぐ
おはこんばんちは、ZAPPAでございます(`ω´)さて、昨日も告知しましたけども改めて告知致しましょう!今夜21:00の僕・・・久々のツイプラゲーム実況配信-テスト編-入国審査と壺おじと・・・?え、昨日とタイトルが変わってないかとな?そこは知らんぷりでお願いします、大人の事情なもので(笑)そんな訳で、この前の土曜日に17LIVEで動画がカクついたり、マイクがプツプツするなどの大失態をした僕は、日曜日にずっとP
新しいゲームを始めてみようかと思います。壺から上半身が出ている人が山を登る?ゲーム?みたいです。操作が難しすぎて心が壊れると聞いております…。このあと開始予定。本日のパペマペ壺男生放送のお部屋はこちらです。https://youtu.be/3F8Uo3DkEQ8【ゲーム】パペマペ壺男GettingOverItwithBennettFoddy【生放送】うしとカエルのコンビ、パペットマペットです。壺から上半身が出ている人を操作してみようかと思います。初めてプレイし
開発者とプレイヤーのひとつになりたいという想いは、男と女のひとつになりたいという想いと一緒ではないだろうか。「自分と他人という垣根を乗り越えて(=GettingOverIt)、ひとつになりたい」という切実さにおいて………。キャンドルのきらめく夜空の先には、恋人たちだけに許された、ひとときの悦楽が、あなたを待っている。(終)
「ここまでたどり着いたあなたに、このゲームを捧げます。全身全霊の感謝を込めて。」という言葉とともに、プレイヤーは夜空へと舞い上がり、幾度となく立ちはだかった岩たちは、夜空にきらめく無数のキャンドルへとその姿を変える。ベネット・フォディとプレイヤーは、ひとつとなったのだ。
プレイヤーが頂上へと近付くにしたがって、空は、昼から夕、夕から夜へと色を変えてゆき、居丈高に振る舞っていたベネット・フォディの声のトーンも、敗北感を帯びてゆく。プレイヤーが頂上にたどり着くことは、ベネット・フォディに、自分はカスみたいな存在だと、認めさせることであり、プレイヤーの想いを認めることである。
ベネット・フォディのこの言葉は、「今の若者は、手短に恋したがる。そしてすぐに興味はそれる。」と言い換えることもできるのではないだろうか。人間は、恋多き生き物でありながら、一方で、自尊心の塊でもある。だから、あなたに私のことを知ってもらいたいという想いとは裏腹に、「お前に俺のことなんか分かるわけない。」「私のことを分かってくれる人なんているわけない。」という想いも生まれる。つまり、ベネット・フォディが云いたいのは、「自分に見合うだけの相手とでなければ、恋じゃない。」である。
一方で、ベネット・フォディは、あなた(プレイヤー)に私のことを知ってもらいたいと思いつつ、逆に、知ってもらいたくないとも思っている。ベネット・フォディは云う。「ゲームがまだ真新しかった頃、そこでは多くが求められた。プレイするものを怯ませ、挑発し、やり直させ、邪魔し・・・。プレイヤーはただ黙々とプレイした。今はそれじゃやっていけない。手短に遊びたがる。そしてすぐに興味はそれる。」と。
そうすることによって、この山を登るというプレイヤーの行為は、同時にあなた(ベネット・フォディ)のことを知るという行為にもなる。あなた(ベネット・フォディ)のことを知りたいと思えば思うほど、プレイヤーは山頂へ近づくことができるし、逆に、あなた(ベネット・フォディ)について知りたいことなど何ひとつないとプレイヤーが思えば、最初に現れる一本の木すら乗り越えるまでもなく、このゲームをアンインストールすることも可能である。
そして、あなたのことを知りたいという想いは、その人に対する憧れでもある。自分には足りないものを、あなたは持っている。だから、そのあなたの持っているものを、自分に分けてほしい。それが叶わなければ、自分はどうしようもない人間だ。恋というのは、あなたに比べたら、自分はカスみたいなもんだと認めることである。ベネット・フォディは、そのように、ゲームの最初に現れる一本の木すらも乗り越えることのできないカスみたいな存在に、プレイヤーを設定するのである。
ならば、人間は、滅多に両想いになることはないのかというと、必ずしもそうではない。共に生活するとか、共に仕事するとか、共に学校生活を送るとか。そういった共同作業を行うことによって、お互いに恋心が芽生えるということは普通に起こり得る。だからこそ、ベネット・フォディは、あえて開発者とプレイヤーを、お互いに恋心が芽生えるような環境に置くのである。
しかし、その想いが全て実を結ぶわけではない。愛する人に、私の全てを知ってもらいたいと思っても、愛する人の全てを知りたいと思っても、「あなたから知りたいことなんて、なにひとつない。」「あなたに知ってほしいことなんて、なにひとつない。」というこたえは、平然と返ってくる。「みかんは、甘くてジューシーな果物。それを覆うのは苦い皮。私が望むチャレンジはこんな見た目ではありません。私は、ただ苦みが欲しい。コーヒー、グレープフルーツ、カンゾウ。」こういった経験を経て、人間は、恋の苦み
ベネット・フォディにその意図はなかったのかもしれない。しかし、結果としてそうなっていると筆者は思う。自らの愛する人に、自らの全てを知ってもらいたいと思うことが、恋でなくてなんであろう。人間は、自らの愛する人に、自らの全てを知ってもらいたいと思う。また、人間は、自らの愛する人の全てを知りたいと思う。あなたの全てを知りたい。あなたに私の全てを知ってもらいたい。この二つの想いが合わさって、はじめて両想いというのは成立する。
ベネット・フォディの愛する言葉、愛する音楽、愛するゲームによって、『GettingOverItwithBennettFoddy』というゲームは形作られているのではないだろうか。そして、自らの愛するものによって形作られたゲームを通じて、プレイヤーに、その自らの愛するものたちを教えたい。つまり、ベネット・フォディは、プレイヤーをある存在として設定しているのである。その、ある存在というのは“恋人”である。
正直に云って、この『SexyHiking』というゲームのどこがそんなに魅力的なのか、筆者にはよくわからない。しかし、ゲーム内で使われている曲の音質は、やたらに良い。この『SexyHiking』で使われている曲の中で、ゲームクリア後に流れる曲は、Jazzuoオリジナルの曲で、それ以外の曲は、Jazzuoオリジナルの曲ではないのだが、稚拙なグラフィックとは裏腹に、ゲーム内で使われいてる曲の音質の良さは、やたらと耳に残る。ひょっとすると、Jazzuoという人は、自分の好きな曲を聴
ベネット・フォディ曰く、このゲームは『SexyHiking』というゲームに敬意を表し、制作されたものだという。『SexyHiking』は、Jazzuoという人物によって作られたゲームで、ハンマーを使って障害物を乗り越えていくという部分だけでなく、それ以外の部分でも、このゲーム(GettingOverIt)と似ている部分はたくさんあるのだが、その中でも、一番似通っていると思う部分は、その操作性の悪さである。ベネット・フォディが云うように、『SexyHiking』というゲームは
というわけで、改めて『GettingOverItwithBennettFoddy』である。「やり直しは、やり始めるよりも・・・辛い。」と、ベネット・フォディは云うけれど、筆者の場合は、最初から書き直すではなく、新たに最初から書き始めるなので、そう苦痛でもない。
本来ならここで終わりにするところだが、このゲームの山の途中には、蛇が存在する。その蛇に差し掛かったとき、ベネット・フォディは、こうプレイヤーに告げる。「同じ、趣向。これが私とあなたにはある。これは決して野心ではない。むしろ、その逆。強情なまでの、苦杯を嘗めるという任務。勝利してしまっては、気持ちが悪いでしょう。そこで、蛇を用意しました。」と。ベネット・フォディの粋な計らいによって、プレイヤーは、蛇にハンマーを引っ掛けた瞬間、スタート地点へと戻れるようになっているのである
このゲームをプレイするあなたも、頂上へとたどり着いたあかつきには、無の境地へと至ることができるかもしれない。
そう。真理というのは、なにか特別なものにではなく、些細な日常の中に宿っているものなのだ。最初は、苦痛かもしれない。ゲーム中に、何度も流れてくる曲「GoinDownTheRoadFeelingBad」のように、気分は最悪(=FeelingBad)である。それでも、道を進んでいく(=GoinDownTheRoad)につれ、だんだんと苦痛ではなくなっていき、やがて、悟るのである。些細な日常の一つ一つが、欠かすことのできない一期一会の邂逅であり、それこそが、無の
プレイヤーは、落下する以前の所まで戻るのに、一度クリアしたはずの崖を、何時間も費やして、再び登っていかなければならない。それはとても地道な作業で、骨の折れる行為である。しかし、人生とは、哲学とはそういうものなのではないだろうか。
3つ目は、オートセーブという機能である。本来、オートセーブというのは、プレイヤーがセーブするのを忘れてボスに挑み、敗れてしまったとしても、オートーセーブ機能によって、ボスと対戦する直前からリスタートすることができるといったような、救済措置として使用されることが多い。しかし、このゲームにおいては、それが逆の機能を果たすのである。このゲームでは、峻烈な崖にはね返され、大きく落下した瞬間に、否応なくオートセーブされてしまうのである。なので、プレイヤーが、大きく落下した後で、落下
多くのアクションゲームの場合、主人公は、横へと動くのが基本である。ゆえに、手前の地点からリスタートさせるためには、主人公が敵に当たったり、穴に落ちたりして死んだその瞬間には、同じ容姿をした主人公が、死んだ手前の地点に立っているという形を採らなければならない。しかし、このゲームの主人公の動きは、横ではなく、縦なのである。このゲームは、目の前にそびえる山の頂上に向かって、主人公が下から上へと登ってゆくゲームなので、そこには必然と重力が働く。つまり、主人公が峻烈な崖にはね返され
2つ目は、死、または機という概念が存在しないところである。多くのアクションゲームの場合、プレイヤーの操作する主人公が、敵に当たったり、穴に落ちたりなどして死んだりすると、死んだ手前の地点からリスタートさせられる。ゆえにプレイヤーは、敵に当たったり、穴に落ちたりなどせずにクリアできるまで、同じ所を繰り返し挑み続けなければならない。このゲームも、クリアできるまで繰り返し挑み続けなければならないのは同じなのだが、しかし、このゲームの場合、プレイヤーの操作する主人公が死ぬことはないので
1つ目は、攻略情報というものがほとんど意味をなさないところである。たとえば、どうしても倒せないボスがいた場合に、他のゲームなら、検索するなどして、攻略情報を得ることができる。その攻略情報をもとに挑めば、場合によっては、いとも簡単にボスを倒せるようになる。しかし、このゲームの場合、攻略情報を得たとしても、それを実践できるようになるまでには、とてつもなく時間が掛かる。結局、このゲームをクリアするためには、プレイヤーが、地道に何度も何度も挑みつづける以外にないのである。
インターネットと同様に、テレビゲームもまた、ゴミ同然であると、ベネット・フォディは述べている。ひとたび(それもほんの僅かな時間で)消化されてしまえば、二度と顧みられることはないと。「相手目線のコンテンツを作ることは非常に魅力的に見える。優しくて、気楽に遊べて・・・それでも制覇には繋がらない。どうせ埋立地に放り込まれて、当たり障りのないものに混ぜ込まれるなら、破壊的な何かを作ってもいいのではないか。」そういった想いで作られた(と思われる)このゲームは、他のゲームとどう異な
ディオゲネス症候群というのは、精神疾患の一つであり、ゴミ屋敷の住人が、家にゴミを溜め込むのも、ディオゲネス症候群の症状の一つに当たるらしい。ゴミ屋敷というのは、近隣住民からしたら、とんだハタ迷惑だが、しかし、インターネットこそ、そのゴミ屋敷を遥かに上回る情報のゴミの山ではないだろうか。インターネットとは、(今や)膨大な情報のゴミ屋敷である。ということを主張するために、ベネット・フォディは、ディオゲネスという哲学者をこのゲームの主人公にしたのではという気がする。
このゲームの主人公は、ディオゲネスという名前で、かつて古代ギリシアに実在した哲学者なのだという。大樽を住み家とし、外見に無頓着であった哲学者ディオゲネスの生き方は、とても独特なものだったらしく、その独特さゆえに、“ディオゲネス症候群”という言葉も、のちに生まれることとなる。
心を打つような言葉であるはずなのに、それらの言葉を聞かされるたびプレイヤーは、イライラを募らせ、神経を逆撫でされているような気分になる。ベネット・フォディが伝えたいのは、どんな名言であろうとも、状況によって、その印象は変わる。それもまた哲学であるということではないだろうか。