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気候を探るMirrorpixの画像7点の中には注目すべき1点がある(図1)。その画像の下側中央にはメガネをかけた老女が立っているが、彼女は頭にスカーフをかぶりコートを着ている。それはこの画像の撮影時期がかなり寒い時期、つまり冬だったことを示している。月にすると12月〜2月あたりだろうか。そういう意味ではMirrorpixのクレジットで示された1968年1月24日には説得力がある。(図1)老女の服装しかし逆の見方もできる。1月であれば存在していいはずの積雪がどこにもみられ
前回の調査を国立国会図書館で行うとどうなるか。国会図書館については過去に別ブログ『実例のロック研究』で解説結論からいえばネットでの調査を確実に上回った。この事実は、ネットを万能と信じるほぼすべての一般人には信じられないだろう。しかしまぎれもない事実である。この図書館のアドバンテージという事実は、実のところプロ・アマ含め、真の研究者には常識にすぎない。というのも図書館の99%以上の情報がネットに存在しないからだ。しかし世の中は手軽に専門家を気取りたい人であふ
いい加減なクレジット前回紹介した募金ポスター掲示画像(推定1964〜68年)の中には、ひときわ注目に値する画像群がある。それは画像配信サイト「Mirrorpix」にある7点だ(2025年12月27日現在)(図1,※1)。(図1)「Mirrorpix」の全7点この7点はすべてが同日撮影で、異なるアングルから撮られていることから、撮影時期特定のヒントを期待させる。そもそもこの画像群のMirrorpixのクレジットでは、撮影日を1968年1月24日としており、
第1回:国政と市政(2023年11月06日21:10)1979年ラウンドハウス閉館と政治の関係第2回:争奪戦(2023年11月11日15:17)1982年10月労働組合とロンドン市による争奪戦第3回:黒人芸術(2023年11月18日00:00)1981年ブリクストン暴動と黒人芸術運動第4回:残務処理(2023年12月10日12:17)1983年4月〜12月旧ラウンドハウスの残務処理第5回:カムデン区による購入(2023年12
RIBAの建築図書館計画の頓挫から1ヶ月半となる1996年9月、ついにラウンドハウスが大きく動く。地元カムデン区の富豪、トークィル・ノーマンがラウンドハウスを購入したのである(※1,2)。この購入でまず驚くのは、これが実質的な個人購入ということ。次に驚くのは、購入までの異常な早さで、先の建築図書館計画の頓挫からわずか1ヶ月半だったことである。この展開には一体どんな経緯があったのか。(※1)Guardian1997年9月29日,p37(※2)自伝『KickT
復活の兆し1994年11月14日、とうとう国営宝くじ(NationalLottery)が発売となった(※1)。これを聞いて「なぜ宝くじ?」と思った人は今一度第68回を読み返してほしい。あるいは現在ラウンドハウスのエントランスに掲げられたパネルに注目してほしい(図1)。(図1)エントランスのパネルあらためて簡単に説明すると、この宝くじ創設の目的は、芸術団体の助成金不足や、文化財建築の維持費不足の解消にあった(第19回参照)。ラウンドハウスにはその両側面があっ
ラモーンズはさらに語りきさらに案内板の追記にはダウンステアーズへの別ルートが書かれており「メイン・レストラン&ワイン・バーを通り抜けた場所」とある(図1)。(図1)1976年の正面エントランスの案内板私が把握している当時のレストラン&バーは1973年に屋外に設けられた施設で(※1)、その位置は現在別棟の2階部分に相当するが、その階下は当時はまだ土中にあった。するとこのルートは、まず正面エントランスのレンガ製階段(1974年設置、2004年撤去)を上がり、そこ
ダウンステアーズの謎そもそもなぜ私はダウンステアーズを検索していたのか。それは長年ダウンステアーズを調査しながらその場所を特定できず、いまだネットで探し続けていたからだ。しかし内部の写真は見つからず、場所を特定する記述すら見つからない。前回先述のように、ダウンステアーズは1975年に完成したラウンドハウスの複合施設の1つである。ここで重要なのは、この時の工事がラウンドハウス本体の改築とは別に、その東側の敷地に新たなビルを建設することも含んでいたことだ。さら
食い下がるRET前回先述のように、ラウンドハウス売却にあたって所有者のカムデン区は、ロイヤル・エクスチェンジ・シアター(RET)とキートウェイ双方との交渉を開始。その内容は非公開だったが、1992年7月にキートウェイとの契約見込みが報じられた。この状況は翌8月のさらなる報道で確実視され、RETの対向入札がキートウェイに45,000ポンド(現在の2000万円弱)及ばなかったことが判明する(※1)。ここからすると、あたかもキートウェイとの契約で決着したかのように思えるが、実の
今回から新シリーズを開始。本ブログでは継続中のシリーズがいくつかあるが、今回も節操なく新たなシリーズに手を出す。どうせこんなブログ誰も読んないので問題ないだろう。本シリーズでは、ラウンドハウスに関する資料を個別に取り上げ、それを推理し、年代や場所の特定や、その資料が物語る興味深い情報・知識を紹介していく。ふと手にした些少な資料でも、驚くほど豊富で価値ある情報が含まれているものだ。それをシャーロック・ホームズ的視点でエンタメ推理する試みである。ちなみにタイトルの「マイクロ
売り払う1992年2月3日、カムデン区がラウンドハウスの売却を発表(※1)、新聞各紙に広告が掲載され(図1)、申込の締切が約2ヶ月後の3月27日に設定された(※2,3)。ちょうどこの時期にはイギリス総選挙(投票日4月9日)が重なり、売却先の決定は選挙後に下されることとなった(※4,注1)。この売却に100以上の団体が興味を示しており(※1)、すぐにでも買い手は決まると思われた。図1:ラウンドハウスの売却広告蓋を開けてみると、締切までに7件の申込があったものの
逆風ふたたびラウンドハウス争奪戦が報道された約2週間後、数年来お決まりの光景がまたしても展開。ポジティブな計画の後に、それを阻むネガティブな動き、である。1990年8月1日、カムデン区の保守党議員ロバート・ヒューズが区に対し、ある要求を突きつけた。それは黒人芸術センター計画の失敗を蒸し返すもので、計画に投入された多額の公的資金の使途に関して再調査を求めるものだった。ヒューズ議員はかつて旧ロンドン市で芸術スポークスマンを務めており、今やラウンドハウスへの公金投入阻止の立場だった
1990年2月14日にラウンドハウス・トラストの解散が決まるや、待ってましたとばかりにラウンドハウスの争奪戦が幕を開けた(※1,2,3,4,5)。第54回で先述のとおり、同様の争奪戦はその7年前、最初のトラストの解散時にもあり、当時は労働組合とロンドン市という公共組織が争ったが、今回注目すべきは不動産開発企業が名乗りを上げたことだ。ただ前回と異なるのは、カムデン区がラウンドハウスを売却するわけではなく、あくまで公共施設としての運営案と運営者を募るものだった。
今回は黒人芸術センター計画の失敗について、関係者を含む3人の弁を参考に振り返る。アーノルド・ウェスカーの弁からアーツ・カウンシルからの助成金棄却の発表があった1990年2月14日、この件に関し劇作家アーノルド・ウェスカーがメディアに語った(※1)。ちなみにウェスカーとラウンドハウスの関係については、本ブログ第15回のとおりだが、あらためて簡単に説明すると、ラウンドハウスを劇場化(1964年)した最初の人物であり、当時のトラストの芸術監督である。アーノルド・ウェ
今回からラウンドハウスとバーミンガムの両機関庫を比較していく。外観の比較両者を側面の立面図(図1-1)で比較すると、ほぼ同形状ながらも相似関係にないことがわかる。簡単にいえばラウンドハウスの方が「平べったい」のだ。それは両者の規模が異なるのに対し、外壁高(地上部)だけがほぼ同一だからである(図の黄色箇所)。(図1-1)外観比較(図面)問題の外壁高は両者ともに20フィート(約6m)程度。また他にも近似のサイズがあり、それがバットレス間の幅である(先図
旧ラウンドハウス・スタジオとして知られた建物が、このほど4月8日に解体を完了した。解体の様子は3月21日付でリーガル・コンストラクションのサイトで公開されており、タイムラプス映像で見ることができる。この解体予定については、本ブログで過去二度紹介しており(2022年8月11日、2023年9月1日)、それはスタジオがブリティッシュ・ロックの建築遺産というべきものであることから、解体前にロックファンが見納めできるよう考えてのことである。この情報はX(旧Twitter)でも発信し
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あっけない幕切れ前回述べたように、1990年の初頭はラウンドハウス・トラストにとって正念場だった。それは彼らが苦労の末に打ち出した、かつてない大規模計画を支える助成金の審査が待ち構えていたからだ。しかしトラストの動きや計画内容は、いつものごとく不安定さに満ちていた。たとえば当初の予定では、必要書類の提出は前年である1989年暮れ(※1)だったが、実際に提出されたのは年をまたいだ1990年1月10日であり(※2)、さらにその提出書類には、センターのオープンが、昨年1
今回は屋根改築の図面061に描かれた断面図を見直す。正面図の矛盾前回述べたとおり、バーミンガム機関庫(以下バーミンガム)を垂直方向に二等分した断面は、理論上2種類(角基準と壁基準)なければならないのだが、実在の断面図(図061)は1種類しかなく、そのどちらの基準か不明である。またその描画には大きな矛盾もある。最大の問題は、建物全体の寸法がこの図にしか記されていないことであり、それが両基準のどちらの値か不明なことだ。これでは建物のあらゆる箇所の寸
バーミンガム機関庫(以下バーミンガム)の図面はとにかく難読である。一方でラウンドハウスの図面は実に明快。両図面は作者が同じで描画も酷似するが、にもかかわらず、なぜバーミンガムだけここまで読みにくいのか。結論からいえば、その理由はバーミンガムが特殊な形状、つまりラウンドハウスのような円形ではなく、正多角形建築だからである。今回はこの事情を解説する。図面の問題そもそもバーミンガムの図面の問題は寸法表記が乏しいことにあり、設計当初の図面では建物全体の基本寸法
再設計の理由バーミンガム機関庫の屋根を円錐状に改築する案が承認されたのは、図面上の日付からみて、オリジナルの設計からわずか5年5ヶ月後。これが示すのは、そもそもオリジナルの設計に重大なミスがあったことと、それが完成直後に判明したということである(図1)。さらに他の図面には不採用となった簡易的な改装案もあるので、取り急ぎいくつかのアイデアが試案されたようだ。(図1)オリジナル図面と改装図面の屋根形状の比較採用・不採用を問わず複数の図面を見くらべるとわかるが、オリジ
1988年のラウンドハウス・トラストは静かだった。2月になってもなんら事件は起こらず、かといって恒例の春のフェスティバルも開催しなかった。三度目の不幸も幸運もなく、ひたすら静かだった。しかし会計年度の開始を告げる4月には行動せざるをえない。それは度重なる失敗の説明責任があり、また計画を断念するか続投するかを示す必要があったからだ。芸術行政の歪み本題である4月の前に注目しておきたいことがある。3月になって多民族芸術行政にある問題が起こった
今回は1986年、カムデン区がラウンドハウスを購入した3年後の動きを追う。この年もまた2月に「ブラック・シアター・シーズン」(第58回参照)で幕を開け、黒人芸術センター設立活動が健在であることが示された。しかし前回で先述のとおり、これとほぼ同時に前年のスパイ騒動の幕引き裁判の判決もあって、反人種差別運動の勢いに影が差した。そもそもこの1986年には別の重大問題がひかえていた。それは先述(第54回)のとおり、3月末のロンドン市解体である。そうなれば黒人芸術センター
今回は1985年、カムデン区がラウンドハウスを購入した2年後の動きを追う。この年は1月に第2回「ブラック・シアター・シーズン」(第58回参照)開催で幕を開ける。この企画は3月末まで続くものであり、前年のロンドン市が高らかに掲げた反人種差別年の勢いが依然衰えていないことをアピールした。しかしその真っ只中の2月末に思わぬところで事件が起こる。それが今回のテーマ「スパイ疑惑」。この事件は、昨年1984年12月に黒人芸術センターの広報担当に就任したリチャード・ギブソンがアメリカ
暖かい3連休ですが、軟禁状態です(笑)。こればかりは、致し方ありません。連休明けから、社会復帰ですが…恐ろしい…久々の出勤ほど怖いものはありません。ということで、今日も模型弄りで現実逃避です。JR東日本大宮総合車両センターOM207編成651系1000番台実車は23.9.28付けで廃車となっています(泣)。1号車:クハ650-1010上野寄りの先頭車です。屋根上にはラジオアンテナが装備されています。2号車:モハ650-1107+3号車:モハ651-1107こちら
今日から3連休、みなさまいかがお過ごしでしょうか?不覚にもインフルエンザに罹ってしまいました(苦笑)。家族のを貰ったようです。貰えるなら病気以外がいいなぁ。まぁ仕方がないですね。ということで、お家で大人しく過ごすには…鉄道模型となります。JR東日本651系1000番台タイプ品ではありますが、よくできています。あまり詳しくはないのでタイプ品で十分です。さて、整備といってもKATO製ですからほとんどありません。ヘッドマークを交換します。今回は『草津』へ。光漏れ対策に、周囲を黒
今回は、先述の「空白の11ヶ月」での、カムデン区によるラウンドハウス購入について。(図1)そもそもの所有者そもそも旧ラウンドハウスの所有者は、運営団体である旧ラウンドハウス・トラスト(以後、旧トラスト)ではなく、ルイス・ミンツなる人物だった。ミンツはファッション業界で成功した富豪だが、同時に芸術愛好家でもあり、その世界では有力なパトロンとして知られていた。(図2)ルイス・ミンツ(『EveningStandard』1968年10月25日,p4より)
旧ラウンドハウスの閉鎖後、黒人芸術センター計画の進捗が新聞で確認できるまでには11ヶ月の空白がある(図1)。とはいえ実際にはこの期間は完全な空白ではなく、旧ラウンドハウス運営団体にとっては残務処理の期間であり、またカムデン区にとってはラウンドハウスの売買契約と、黒人芸術センターの計画策定期間でもある。今回はこの中から、旧ラウンドハウスの残務について。(図1)11ヶ月の空白赤字か黒字か旧ラウンドハウスの閉鎖理由が資金難ということは先に示したとお
黒人芸術センターとはカムデン区が計画した「黒人芸術センター」とは、担い手が黒人のあらゆる芸術を「黒人芸術」と規定し、彼らの活動拠点をロンドン市内に公費で設立するというものである。現在の感覚からすると、なぜ黒人に特化した組織をあえて作り、なぜそこに公費まで投入するのか疑問だろう。これを理解するには、当時の社会情勢、とりわけロンドンの状況を知る必要がある。契機となったのは、この2年前の1981年に起きたブリクストン暴動である。これをわかりやすく近年でたとえると、201
劇場としてのラウンドハウスが正式に運営を開始したのは1967年、終りを告げたのが1983年である。現在のラウンドハウスは、2006年に旧団体とは異なる新組織により運営開始された(※1)。今回から数回に分けて紹介するのは、両ラウンドハウスの空白期間となる1983〜2006年についてである(図1)。(図1)空白期間一般にネットや書籍に掲載されるラウンドハウスの歴史では、この空白の23年の記述はわずかで、しかも単に放置されて廃墟だったかのように語られる。しかし実際はこの期間