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※※※本編の内容・ネタバレを含んでいます。ご注意ください。※※※INSIDEの感想はこちらみなさまこんばんは❁満です!LIMBO…!クリアしましたっ!!泣悪戦苦闘の果てに、クリア…できました…(;ᵕ;)INSIDEよりチャプター数は少なかったけど、INSIDEより難しかったよ。序盤はいいとして、中盤から後半にかけてギミックが高難易度でした。(個人比)とにかくタイミング合わせと反射神経を最大限に発揮してやるやつだった。でもとても楽しかったです!達成感!!さてさて、お話につい
※※※本編の内容・ネタバレを含んでいます。ご注意ください。※※※LIMBOの感想はこちらみなさまこんばんは❁満です!ニンテンドーeショップで前からやりたかった「INSIDE」、ついにプレイ&クリアしました♪たくさんの賞を受賞している名作で、お値段も定価2300円、ニンテンドーeショップのセール時なら230円とお買い得です。雨の降りしきる森から始まる作品。彩度の低い色合いと、無機質でありながらどこか美しい風景が重なって、主人公・ボクの静寂や孤独がありありと伝わってくる。INSIDE
お久しぶりです。れにです。長らくおまたせしました。最近忙しくてブログに手を付けられなくなかなか更新できませんでした。とは言いつつも今日お話したいことはちょっと個人的に思ったことと言いますか、読んでくださる人の中にはちょっとこれは...と思ってしまう方もいるかと思います。現X(旧Twitter)に書こうと思いましたが、どうにもこうにも150字では文字数が足らないと思いブログで発信しようと思います。先に言っておきますが、もし不快に思ってしまった方がいたら申し訳ありません。
ビョーク(Björk/出生名:BjörkGuðmundsdóttir[ˈpjœr̥kˈkvʏðmʏntsˌtoʊhtɪr]/1965年11月21日~)は、アイスランドの歌手、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、編曲家、女優。1965年11月21日、ビョーク・グズムンズドッティルは、アイスランドの首都レイキャヴィーク(Reykjavík)で生まれ育つ。母親のヒルドゥル・ルナ・ハウクスドッティル(1946年10月7日-2018年10月25日)は、アイ
はいっ!葬です(^^;本日ご案内するのは...『PlayDead』の『Propaganda(1984mix)』です(^_-)『PlayDead』って?となるといかんので、簡単にご紹介しますと...1980年に結成されたイギリスの“ゴス系”の4人組のバンドで、ポジティブパンク全盛の1983年頃はUK.インディーチャートの常連とも言えるバンドです(^_-)とりあえずYouTube動画で楽曲をどーぞ♪『PlayDead/Propaganda(1984mix)』JUNG1
名古屋市長、どうにかしろよもう。……さて。昨日、『INSIDE』というゲームをクリアしまして、これがもう、……これがほんとにもう、……面白すぎ。音楽に「メジャー」と「インディーズ」がある様に、ゲームにも「メジャー」と「インディーズ」がございまして、この『INSIDE』というゲームはPLAYDEADというインディーズのゲーム会社が製作したゲームでございます。前作に『LIMBO』というゲームがございまして、世界観とか操作感とか似てるんですけど、でもちょ
あんみつです何日ぶりかのブログ更新ですね実はまた実家に戻っていまして、今回はいくらかメンタル的にも回復してきているような実感がありますブログ更新が遅れていたのはメンタルがどうこうではなく、最近いろいろのめり込んでるものがあって億劫になってたからでしたなのでいくつか紹介したいと思ったため久しぶりのブログ更新です!ひとつめは耳コピですね!めちゃくちゃわかりやすかった本
だが、大人の身体というものが、大量生産と大量消費を前提とした資本主義経済を維持するための均一のモノでしかないのであれば、少年は、廃炉作業員たちと一体化したまま、湖のほとりに棄て置かれるという運命から逃れることはできない。全電源停止を思わせる、ロック解除の最後に当たるとうもろこし畑の下で、少年を制御していた人物こそ、まだ見ることのない、少年の、未来の姿なのではないだろうか。(終)
大人の身体へと成長するに従って、少年特有の身体というのは失われてゆく。それは、残酷な事実かもしれない。しかし、大人の身体へと成長するということは、あらゆる面で、可能性が広がるということでもある。大人の身体へと成長することによって、少年だった頃よりも、強く、美しく、より豊かな表現力を得ることができる。
『LIMBO』の少年も、『INSIDE』の少年もそうであるように、少年は、少年にしかない身体というものを有している。少年合唱団の奏でるボーイソプラノのような、はかなく、美しい身体を。しかし、少年の身体というものは、本人も気が付かない内に、大人の身体へと成長してしまう。だからこそ、少年の身体というものは、はかなくも、美しい………。
スーパーマンのごとき大活躍を見せるにもかかわらず、少年は、誰からも称賛されることなく、唐突に、その一生を終える。それは、なぜなのだろうか?
少年に課せられた使命は、記録することでも、知ることでもなく、格納容器から燃料デブリを取り出すことだったのだ。燃料デブリと一体化した少年は、格納容器を飛び出し、大人たちによって然るべき場所へと誘導される。その然るべき場所とは、暗く、殺伐とした湖のほとり……。なんの慰みもなく、なんの救いもなく、ただそこに棄て置かれたまま、少年の命は犠牲となったのだった………。というのが、筆者の考える『INSIDE』のストーリー内容である。
そして、遂に少年は、INSIDEの深層部である格納容器へとたどり着く。周りにはたくさんの大人がいるにも関わらず、少年は捕らえられることなく、格納容器の内部へと侵入を果たす。ところが、格納容器へと侵入した少年は、その中に存在する燃料デブリと一体化してしまうのである。そう、すべては計画通りだったのだ。
さらに進むと存在する、宙に浮いている水は、貯蔵プールを表し、その水の中で逆さに吊るされている人びとは、使い捨てにされた廃炉作業員であると同時に、使用済み核燃料そのものを表しているのではないだろうか。
少年は、突然変異したヒトから、息継ぎすることなく自由自在に水中を泳ぎまわれる能力を与えられる。それは同時に、少年が被ばくしたことを意味しているのかもしれない。
その水の中を泳ぎまわる謎の生物は、放射能汚染水によって突然変異したヒトであり、作業服を着た白い肌の人びとは、もう既に被ばくしてしまった廃炉作業員であると思われる。
乗り込んだ潜水艇の先に広がる深淵は、原子炉と、使用済み核燃料プールを冷却することを目的に注水したことで発生した、大量の放射能汚染水なのではないだろうか。
そして、トラックで運ばれてきた人間たちは、全国から集められた廃炉作業員なのではないか。その廃炉作業員の整列を抜けると、水浸しとなった建物がつづく。
それは、放射性物質を含んだ雨に、放射性物質を含んだとうもろこしを食べたことで、大量の豚が、放射能汚染してしまったからなのではないだろうか。
少年を待ち受けるのは、荒れ果てた大地と、『INSIDE』を監視する監視者たち。その監視者たちの目をかいくぐり、降りしきる雨の中を進んでゆくと、とうもろこし畑が広がり、やがて、豚を飼育していた牧場へとたどりつく。その牧場で飼われていた豚が、大量死しているのはなぜなのか。
少年は、命じられた。そこでなにが起きているのか、記録するために……。そこでなにが起ころうとしているのか、知るために………。少年は、『INSIDE』へと足を踏み入れる。
『LIMBO』のラストシーンも、同じなのではないだろうか。崩れ落ちたままの木の家に、垂れ下がったままの朽ちた梯子……。そこは、かつては、少年と妹の遊び場だったのではないだろうか。しかし、もうその妹はいない。いない以上、もうそこに戻ることはできない。黄金に光り輝いていた少年時代には…………。『LIMBO』とは、妹の死に直面し、大人の門口に立たざるを得なくなってしまった少年の物語なのではないだろうか。
『漂流教室』のラストに描かれているものとは、大人の門口に立ってしまった少年たちの悲壮感なのではないだろうか。黄金に光り輝いていた少年時代に別れを告げて、大人への一歩を踏み出さなければならない少年たちのはかなさや、せつなさ……。そういった想いが、『漂流教室』という作品を形作っているような気がする。
『漂流教室』は、自分たちの生きていた元の時代に戻ることが不可能であると悟った子どもたちが、この荒廃した未来の世界で共に生きてゆこうと決意して終わる。
マンガ『漂流教室』に照らし合わせてみれば、『LIMBO』というゲームは、妹を探し回っている内に、子どもだけがわずかに生き残る未来へとタイムスリップしてしまった少年のお話というふうにも解釈できるかもしれない。
また、『漂流教室』では、子どもたち同士による争いや、伝染病や、未来生物の襲撃などによって、多くの子どもの命が犠牲となるが、『LIMBO』も、首を吊るされたまま死んでいる子どもや、寄生虫に寄生され水死した子どもや、巨大グモに襲われて死んだ子どもなどが描かれている。
さらに、『LIMBO』と『漂流教室』が共通しているところは、子どもしか出てこないところである。『漂流教室』では、大和小学校が未来へとタイムスリップしてすぐに、教師たちのほとんどは死んでしまう。『LIMBO』もおなじように、大人はいっさい登場せず、登場するのは、主人公の少年と、その妹と、少年の行く手を阻もうとする数人の子どもばかりである。
『LIMBO』も、少年が、あらゆる障害を乗り越えて、先へと進んでゆくゲームである。しかし、『LIMBO』が少年一人なのに対して、『漂流教室』は、大和小学校の生徒たちという集団であるというのが、デンマークと日本の違いなのかもしれない。
『漂流教室』のストーリーを簡単に説明すると、あることがきっかけで人類の滅亡した未来にタイムスリップした大和小学校の生徒たちが、あらゆる苦難を乗り越えて、共に生き延びてゆこうとする話である。
日本人には、あまり馴染みのない概念である。しかし、楳図かずお作のマンガ『漂流教室』に照らし合わせてみれば、『LIMBO』というゲームの世界観も分かるかもしれない。