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『JETSTREAM』作家が描く世界への旅。今週は、大阪府・くろきち63さんから寄せられた「マイジェットストリームストーリー」を元に、作家・小川哲が書き下ろした物語をお届けしています。今夜はその最終夜。山あいの小さな村に生まれた彼女が、中学の英語の教科書で見つけた、サンフランシスコ、ゴールデン・ゲート・ブリッジの物語。海の向こうの世界に魅了され、やがて英語の通訳ガイドとなった彼女は、長い時を経て、やっと憧れの地サンフランシスコへ、一人旅をする。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『JETSTREAM』作家が描く世界への旅。今週は、大阪府・くろきち63さんから寄せられた「マイジェットストリームストーリー」を元に、作家・小川哲が書き下ろした物語をお届けしています。今夜はその第4夜。山あいの小さな村に生まれた主人公が、中学の英語の教科書で見つけた、サンフランシスコ、ゴールデン・ゲート・ブリッジの物語。その景色に魅了され、心の中で空想旅行を繰り返していた彼女は、語学を学び、通訳を生業とするようになった。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜通訳ガイドの仕事で、
『JETSTREAM』作家が描く世界への旅。今週は、大阪府・くろきち63さんから寄せられた「マイジェットストリームストーリー」を元に、作家・小川哲が書き下ろした物語をお届けしています。今夜は、その第3夜。山あいの小さな村に生まれた主人公は、子供の頃から、心の中で空想旅行を楽しんでいた。そして、いつか実際に旅する日を夢見て、英語を勉強するようになっていった。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜無事、大学の英文科に進学する事ができた私は、生まれ育った村を出て、キャンパスのある都市
『JETSTREAM』作家が描く世界への旅。今週は、大阪府・くろきち63さんから寄せられた「マイジェットストリームストーリー」を元に、作家・小川哲が書き下ろした物語をお届けしています。今夜はその第2夜。1959年、山あいの小さな村に生まれた主人公にとって、中学の英語の授業は、海の向こうの、遠い知らない世界について教えてくれる、刺激的な時間だった。その中でも特に魅了されたのは、サンフランシスコ、ゴールデン・ゲート・ブリッジの物語だった。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ゴール
『JETSTREAM』作家が描く世界への旅。今週は、今年8月から番組放送55周年記念として募集を行った「マイジェットストリームストーリー」の中から、大阪府にお住まいのくろきち63さんの旅のエピソードを元に、作家・小川哲が書き下ろした物語をお届けしていきます。今夜はその第1夜。1846年、アメリカ西部の測量を行っていたジョン・C・フレモントは、サンフランシスコ湾の入り口となる海峡に、"ゴールデン・ゲート"という名前をつけた。イスタンブールにある、ゴールデン・ホーン海峡から連想したもので
大学でスペイン語を学んでいた私は、2年生の時に、初めて友人とスペイン旅行へ。スペインでは、名物料理などで本物のスペインを実感し、帰りに経由地だったパリに寄りました。シャンゼリゼ通りで入ったカフェでは、同じく観光でパリに来ていた、スペイン人カップルと相席になりました。拙いスペイン語でコミュニケーションを取ってみると、同い年という事が分かり、何だか意気投合したように、覚えています。それから数年経ち、マドリードの大学院へ留学する事になった私。[大学院]大学院に通い始めて数ヶ月が経った頃、パ
エルヴィス・プレスリーの『ブルー・ハワイ』を見た時から、ハワイに憧れを抱き、20歳の時に念願の地に降り立った。空港でのあの甘い香りや、爽やかな風は、映画を思い起こさせた。その後、ハワイへの旅は回を重ね、ラッキーセブンの7回目は、ハネムーンだった。その時に出会ったのが、マウイ島のキヘイという町。[キヘイ]静かでのんびりした雰囲気。夕日が、とても美しい。私と主人は、この町が大好きになり、翌年もこの町に会いに行った。あれから28年が過ぎ、ハワイの思い出は、セピア色になりつつある。ただ
2005年。私は、パリに刺繍を習いに参りました。それ以来、コロナ前までは、年に1度ほどパリへ行っておりました。8年ほど前、パリへ行った際に、日帰りで訪れたロンドン。帰りの電車で、隣の席に座っていらしたマダムが、大荷物を網棚に載せるのが大変そうで、思わず手が出てしまった私。[電車]それがきっかけで、パリまでの数時間、お喋りを楽しみました。マダムはアメリカ人で、中学の数学の先生で、ご趣味は手芸。私は以前、幼稚園の先生をしていた事もあり、今は細々と刺繍を教えていて、同じ教えるという仕事
1985年頃の話である。大阪から鑑真号で日本海を渡り、上海で中国に入国。そこからひと月ほど、各地を汽車とバスで乗り継ぎ、砂漠のオアシスの町、新疆ウイグル自治区のトルファンに着いた。[トルファン]朝目が覚めると、喉が痛い。疲れと久々のクーラーで、風邪をひいたらしい。市場に出掛け、うどんのような麺料理を頼んだが、痛くて喉を通らない。その時、高校生くらいの少女が、ヨーグルトのようなものを売っていた。酷く潰れた鍋に入っていたので、普段なら不衛生で食べないであろうその食べ物は、すごく美味し
35年前、私と妻の初めての海外旅行、新婚旅行で訪れたハワイの地。いまだに当時の思い出話が、夫婦の楽しみの一つです。初めてのハワイから、ちょうど30年後、2度目のハワイ旅行。私は30年前に、アラモアナショッピングセンターで少し奮発して買って、ずっと大切に保管していたアロハを着て、カラカウア通りを散策。[カラカウア通り]すると、現地の初老の男性から、声をかけられました。「そのアロハは、どこで手に入れましたか?」と。話を聞くと、既に製造されていないオールドタイプのもので、これほど綺麗で
新婚旅行で、初めての海外旅行。訪れた国は、スペイン。サグラダ・ファミリアやピカソ、サッカーの試合など、心が踊る事ばかり。しかし同時に、スリなどの犯罪に巻き込まれないか、内心はピリピリ。そして、私の語学力はと言えば、英語が少々聞き取れるだけ。会話に自信が、ない。でも、翻訳アプリがあるから大丈夫と、自分に言い聞かせていた。海を見ようと出掛けた、シッチェスの街。[シッチェス]入ったレストランでは上手く伝わらず、結局オーダーできずに出てくる羽目に。落ち込んだ暗い気持ちの私とは対照的に
私の心に残る旅は、2005年8月上旬に訪れた、北海道・中富良野への旅だ。ずっと憧れていた中富良野のラベンダー畑へ、夫と息子と、3人で訪れた。[ラベンダー畑]駆け抜ける風は、ほんのりスパイシーで清涼感があり、私は思わず両手を伸ばし、深呼吸した。ずっとずっと訪れてみたかった地に、家族と共に辿り着けた嬉しさに、私の心は湧き立った。畑に囲まれた中、ウッドデッキで食べた、地元野菜のゴロゴロ入ったカレーの美味しかった事。車中から眺める広大な田園は、区画が整然と整っていて、私の心まで整うようだった
大学生の頃、ドイツに1ヶ月間、交換留学に行った。私にとって人生初の一人海外だった。フランクフルト空港に降り立ち、直結している空港駅から目的地まで、予約している電車を待っていた。[空港駅]しかし、電光掲示板にも、予定の電車は表示されず、予定時刻を過ぎても、来る事はなかった。格安かつ変更不可の切符を握りしめ、青ざめながら案内所に行き尋ねると、これは空港駅ではなく、フランクフルト駅という違う駅出発の切符だと教えられた。どこか不機嫌な係員の女性は、無言で私の切符に何かを書き、「このまま電車
初めてのボーイフレンドと行く海外旅行で訪れたのは、タイのバンコク。格安チケットで出発。安宿に泊まり、ローカル屋台で食事をし、移動はレンタルバイクと、なるべくお金をかけない貧乏旅行でした。[バンコク]それでも、彼との時間は居心地良く、旅の道中、心の中では「そろそろ結婚したい」と思っていたけれど、なかなかそんな話もできず。最終日、奮発して高級ホテルのラウンジへ。普段飲むお酒の倍はするカクテルを片手に、夕焼けに染まっていく街と、チャオプラヤー川を眺めていたら、突然のプロポーズ。あれか
パリに嫌気が差し、私は早朝のスイス行きの列車に乗った。卒業旅行として、無計画のままパリに来たのはいいが、どこまでも続く石畳と、あちこちに散見される電動キックボードのせいで、街並みが嫌に人工的に見えたからだ。スイスには、ヨーロッパ一の標高を誇る鉄道駅があり、氷河が一望できると聞いた事がある。そこならきっと、地球そのものの自然を見晴らせるに違いない。行き先は、自然かつ当然に、ユングフラウヨッホ駅に決まったと記憶している。[ユングフラウヨッホ]パリから乗り換えを繰り返すうちに、徐々に減って
今から25年ほど前、日曜日の仕事を21時頃に終え、急いで帰宅。夜行バスの乗り場に急いだ。早朝東京に着き、成田空港発パリ行きのシートに座ると、私は全てから解放された。仕事、家族、電話、食事の準備のあれこれから。老舗の飲食店に嫁いだ私は、何から何まで変わった生活の全てに全力投球で立ち向かい、年に1度か2度、3泊5日のパリ行きで、ほんの束の間の息抜きをしていた。今思うと、それは現実逃避だった。誰も知っている人がいない所に行きたかっただけ。そして、公園でボーッとしたり、カフェでエスプレッソ
360°の地平線と、赤い土。地平線に沈む太陽と、昇る月と、満天の星。砂漠で出会う、アボリジニの人々。どこまでも続く一直線のハイウェイを、ブッシュファイアの熱を嫌というほど浴びながら、バイクを走らせた、29年前のオーストラリア大陸。[オーストラリア大陸]そこで出会った一人の日本人バイカーは、私の夫となった。ツーリング中に出会った、オーストラリア人夫婦トレバーとジャンとの付き合いも、今年で29年目。コロナ禍で再開予定が延期となってしまった二人は、もう90歳。FaceTimeよりも、も
初の海外旅行。それは、孫の中でも唯一祖父と行った、ハワイ旅行でした。祖父はとてもきっちりした、くだけた事が苦手な性格で、クルージングも、一人じっと海を見つめるばかり。私は、祖父との時間が辛く、帰りたいと母に電話する始末。でも、ハワイの自然豊かな場所・人に触れるうちに、だんだんと祖父の気持ちも穏やかになり、最後は笑顔まで見せてくれるように。大自然広がるキラウエア火山で、アロハ姿で二人で同じポーズで写真に写った姿は、今も鮮明に記憶に残っています。[キラウエア火山]また、大自然の魅力いっ
20年前の春、友人の結婚式に参列するため、一人で韓国を訪れた私。水原の式場に現地集合のため、ソウルから水原まで、長距離バスに乗車する事に。[長距離バス]ハングルが読めない私は、どうにか運転手さんに水原に行きたい、着いたら教えてほしい事を伝え、不安いっぱいの面持ちで、バスに揺られていた。隣に座っていたおばさんが、そんな私を見かねたのか、膝を優しく撫でてくれ、水原に着いた時も親切に教えてくれた。バスから降りる時、おばさんは「これでも食べろ」と言うようにみかんをくれ、笑顔で手を振ってくれ
1997年、6月。4泊6日の弾丸旅行で、親友と初めて旅した、ヨーロッパ・ベルギー。この地での現地の人との交流が、未だに忘れられずにいます。宿泊地は、ブリュッセル。そこから、アントワープ王立美術館を一目見たく、海外では乗った事がなかった電車を利用。慣れない切符の購入や、行き先が書かれていない電車に手探りで乗り、1時間以上の移動。ようやく終点のアントワープへ着いた矢先、行き先の方角が分からず、地図を片手に立ち止まっていたところ、ギターケースを片手に持ち、口と顎に髭を生やした50代後半くら
高3の夏。予備校をサボって入った本屋で手に取った、『アラスカ』という写真集。食い入るようにページをめくり、気付くと、頰を涙が伝っていた。いつか、アラスカの自然に触れたい。オーロラを、この目で見たい。[オーロラ]無縁だった北の大地が、一気に憧れの土地になった。それから20年後、私は結婚し、ハネムーンで行くはずだったアラスカ。でも、その時は仕事優先だったために行きそびれ、さらに10年後の2010年の年末。いよいよ初めて、アラスカの地に足を踏み入れた。-40℃の極寒の夜、オーロラの
1986年から87年の年末年始。大学生だった私は、当時社会主義体制の東欧を、一人で旅した。行く先々で都度、宿を取る自由旅行だったが、夜行列車でチェコスロバキアのプラハに着いたのは、迂闊にも大晦日だった。[プラハ]案内所で宿を探したが、全て予約がいっぱい。直接ホテルを回って交渉しても、どこも断られた。とうとう夜になり、祈るような気持ちで、カレル大学の学生寮を訪ねた。この寮は、夏休みには旅行客も利用できるので、もしかしたら宿泊できるかも、と思ったのだ。寮に着くと、寮母さんが対応してく