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1985年8月12日夕方18:00~の出来事です。羽田空港発伊丹空港行き日本航空123便JA8119ボーイング747SR-100型当時は操縦士、副操縦士、航空機関士がいる3人体制。当時の最新鋭旅客機が墜落したのが1985年8月12日です。520名が亡くなられた出来事です。奇跡的に救助された人の写真。最終的に4名が助かりました。この時に最後尾の後部座席は助かるという噂が出来ました。198
JAL123の初期航跡.異常事態発生地点の再検討はじめにJAL123便が辿った航跡は.レーダー航跡を基にしてDFDRによる補正を加えたものが報告書の付図-1に飛行経路略図として掲載された。これはベースとなる地図上の地点情報が少なく図法も明らかにされていない上に緯線経線も引かれておらず.概ね手書きの航跡なので精度を期待出来るものではない。しかしこの案件を検証する上でJAL123が実際に描いた航跡を辿ることは必須事項となる。この事故の精密な調査と根拠ある考察で事故原因を明確にしなけれ
油圧系統の一部に実用的な残圧あり.制御性の再検討を要す●制御機能の状況JAL123便は18:24′35″頃に相模湾伊豆沖の上空で異常事態が発生し.垂直尾翼2/3が損壊しAPUを含む機体尾部は脱落して4系統の油圧ラインが破断した。そして異常事態の約1.5分後には全ての作動油圧を失い操縦不能に陥ったと推定されたが.機体尾部で油圧ラインが寸断された事で作動油の全量が流出したわけではない。破断部の前方で配管の曲がりなどの閉塞があったり.長い配管の途中にはフィルター.セレクタなどの介在
衝撃波が垂直尾翼に加えた破壊的荷重18:24′35″.JAL123便は相模湾上空を通過中に衝撃音と共に垂直尾翼の2/3が損壊しAPUは脱落して4系統の油圧ラインを失った。事故原因の重要証拠となる残骸は回収不十分であるが.相模湾で護衛艦「まつゆき」に引き揚げられた垂直尾翼の前縁上部には航空工学科機体構造学の専門家が唸るほどの特徴が見られた。通常はあまり強度の高くない部位で破断するが.この残骸はアフトトルクボックス[主支柱]を構成する前桁がT断面フロントスパーコードやストリンガーが接合す
疑惑や不合理な部分があるのに、検証や調査が不十分では大衆からはいつまでも変だと思われてしかりでは。
1985年8月12日夕方18:00~の出来事です。羽田空港発伊丹空港行き日本航空123便JA8119ボーイング747SR-100型当時は操縦士、副操縦士、航空機関士のいる3人体制。当時の最新鋭旅客機が墜落したのが1985年8月12日です。520名が亡くなられた出来事です。奇跡的に救助された人の写真。最終的に4名が助かりました。この時に最後尾の後部座席は助かるという噂が出来ました。
今から45年前の今日、日本航空115便しりもち事故が起きました。1978(昭和53)年6月2日、東京(羽田)発大阪(伊丹)行きの同便・ボーイング747(機体記号JA8119)が、伊丹空港に着陸する際、パイロットの操縦ミスによって機体尾部を滑走路面に接触。JA8119機(1984年撮影)41歳の機長と36歳の副操縦士が操縦していた同機は、1度目の接地でバウンドしてしまい、2度目の接地で尾部を激しく滑走路に擦りつけてしまいます。この接触事故により、乗客2人が重傷
横田飛行場を目前にして羽田への帰還を要請したが突然横田基地への変更…CAPこれはだめかもわからんね...COP...CAPちょっとわからんなぁCOPはいCAPまだどうなるかねCOPはい🔘日航123便が横田飛行場の目前まで迫りながら着陸を中止したという仮定で検討する。🔲横田飛行場に最接近したと思われる18:48′03″にどれ位の[高度]まで降下し.どれ位の[距離]まで迫ったかを概算する。また.45′08″~48′03″の区間は.DFDRから比較的穏や
大月旋回につき.飛行経路図は事実無根である(前編)隠された真実飛行経路略図[報告書.付図1]の大月旋回区間はレーダー航跡を基にDFDRで補正した推定飛行経路として描かれた。ところが経路図上の航跡[距離.所要時間.旋回半径]はDFDRの各データと殆ど適合しないので出来るだけ正確に近付ける。🔲先ず飛行経路略図から.⚫︎40′52″の磁方位79°から旋回開始として航跡が重なる43′32″の磁方位358°で旋回終了とすると.約2分40秒間の所要時間となる。「磁北偏差6°30′W」図①
APU防火壁への初期荷重▶︎解法に難あり(後編)【課題】圧力隔壁破断直後の過渡的な現象がAPU防火壁に加える荷重について.この後編では.実際に圧力隔壁が2.5㎡(縮流断面積1.8㎡)の規模で破断し.与圧空気が非与圧側に流出した場合に起こり得る過渡的な現象について検討する。🔲状況設定と数値計算🔳過渡的な現象を以下に設定する隔壁破断部からの噴出流が臨界速度を保ち.境界線を崩さず.減衰せずにAPU防火壁に到達した瞬間に流路をバルブで閉鎖した状態図1⚫︎噴出空気流は
APU防火壁への初期荷重▶︎解法に難あり(前編)報告書によれば.圧力隔壁破断により与圧室空気が非与圧側へ流出して機体尾部の圧力が急激に上昇した結果.垂直尾翼内は耐圧値を超えて損壊したとされた。解法.数値計算は理想気体の静的な状態変化という前提で行われた。但し.例外的に付録4.4では圧力隔壁が破断開口した直後の✴︎過渡的現象について検討した。[具体的内容]⚫︎「与圧室空気が非与圧側に流出し.その前面に衝撃波が発生する」⚫︎「隔壁破断部から機体尾部胴体にかけて断面積は遥に拡
真夏の上空7300mの気温を−32℃と条件設定▶︎何故そんなに低いのか日航123便は.異常事態発生の18:24′35″にはDFDR上高度7300mを飛行中で.巡航高度の24000フィート[7315m]に到達する直前であった。先ず.至近の東伊豆町.稲取[海抜1.5m]の気温25.8℃.海面気圧[日航123便が計器に入力した海面上圧力29.93インチ/水銀柱]1013.19hPaを参考に.当時の上空の気温.気圧の近似値を求める。以下に示す近似計算式から高度7300mの✴︎気温:
お疲れ様です✨今回読了した作品は🙂JAL裁判青山透子著河出書房新社日航123便墜落事故により突如として夫を亡くされた吉備素子さんなんで?どうして?日帰りで東京出張し、夜には大阪の自宅に帰るはずだった夫が御巣鷹の尾根でバラバラの亡骸になってしまったのか?管制官とのやり取りや自衛隊機とのやり取り部分を全て削除された状態のボイスレコーダーが公開されているが『本物』はJALが保管し非公開。本書は被害者遺族が『本物』の公開請求をした裁判の全記録になります。事故調査委員会が保管し
後編の続き🔲特記事項■圧力隔壁破断後.APU脱落直前の0.050秒時の❶与圧室(客室など)から❷隔壁直下流部への噴出流速と隔壁通過流量を算出「事故調が提示した0.050秒時の噴出空気流量は✴︎364.5kg/sである」❶与圧室の絶対圧▷破断後0.050秒時97.2kPa図⑦❷隔壁直下流部の差圧▷破断後0.050秒時の差圧33.6kPa+大気圧39.3kPa=絶対圧72.9kPa図⑧▶︎以上から❶与圧室の臨界圧力は97.2kPa(与圧室圧力)×0.528(臨界圧力比
2022年5月3日37年目の御巣鷹の尾根へ台風19号災害復旧工事の関係から、御巣鷹の尾根への道の規制解除されるのが、5月の大型連休と8月のみとなっている、ここ3年。昨年は武漢肺炎感染拡大もあり、訪れてませんので、2年ぶりの御巣鷹の尾根へ。そして、5月の大型連休中に来るのは初めて。新緑の上野村は山々、草木、川がそれぞれ自己主張をし、お互いに輝きあっている、そんな姿を見せておりました。今の時代ともなれば、道路標識に【御巣鷹の尾根】と書かれていても、そ
◇目次・はじめに(前半)・自衛隊がなぜ戦闘機を発進させたのか(前半)・垂直尾翼に何かがぶつかったのか(前半)・機体腹部に何かがぶつかったのか(前半)・なぜ横田基地の手前で急に機体が左旋回したのか(前半)・撃墜説について・墜落後について・TRONというOSにまつわる話について・圧力隔壁説について・日航123便で異常が発生する前の時点で垂直尾翼に問題があったとする説・おわりに・撃墜説についてこの事故機が最終的には戦闘機に撃墜されたのではないかと
ちなみ東京急行電鉄時代(現:東急電鉄)に走っていた8000系に実在した車両番号です。この銘板を撮影してSNS上のJALのグループへ上げていたのです。どういう神経でアップしたのかが分かりませんが、私自身は理解に苦しみました。ちなみにJALにとってこの4桁の数字は重要な数字なのです。1985年の盛夏に群馬県多野郡上野村の集落から非常に離れた長野と埼玉の県境にも近いスゲの沢に墜落した、羽田発伊丹行き日本航空123便のボーイング747SRの登録番号なのです。厳密には「JA8119」
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事故機です。型式B747SR-46機体番号JA8119事故機です。日航503便羽田→千歳型式B747SR-46機体番号JA81191985年8月12日、事故当日の朝の便です。画像は借りました。貴重な画像ですね。型式B747SRとは。。。SR型は世界でも日本の航空会社である日本航空と全日本空輸(ANA)の2社のみがボーイング社に発注しているB747の特殊仕様である。SRとは「ShortRange(短距離)」の略で、国土の狭い日本の国内線を運
日本航空123便墜落事故から今日で35年になります。月日が経つのは早いものです。日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発~大阪(伊丹)行の123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根、通称「御巣鷹の尾根」に墜落した航空事故です。このジャンボジェットは、機体記号JA8119/製造番号20783で、1978年6月2日に、伊丹空港に着陸する際に機体尾部が滑走路と接触する
あと2ヶ月半で8月12日となりますあの日、夕ご飯を食べながら「クイズ100人に聞きました」を見ていた時に速報が流れました「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」と…見た瞬間、意味がわかりませんてでしたレーダーから消えたって?次に脳裏を横切ったのは11ヶ月前に羽田~伊丹で乗った機体じゃないだろうなぁってこと予感的中、行方不明になったのはJA8119でした搭乗して以降、事故発生までの何れかの日に撮影したJA8119これがJA8119に乗った時のチケッ
いつの間にか「当局の回し者」呼ばわりされたニャン吉です。まあ、この記事にはさすがに呆れましたね。特に「747って123便の別称か正式なデータか何かのことですか」と言う発言は噴飯ものでしょう。「123便事故の当該機であるJA8119はボーイング747SR型である」と言うことすら知らずにこの事故について議論している方がいるというのはさすがに驚きです。ふざけているんでしょうかね?この方は事故調査報告書に目を通したことすらないようです。つまりこの方にとってこの事故は「娯楽」以外の何物でもない訳で
1985(昭和60)年8月12日の18時56分過ぎ、羽田発伊丹行き日本航空123便(ボーイング747SR、機体番号JA8119)が群馬県多野郡上野村の山中に墜落してから。夕食の合間を縫って、墜落した「御巣鷹の尾根」に向かって黙祷しました。乗員乗客520名死亡(4名生存)という、日本はおろか、世界でも旅客機単独としては最悪の航空事故です。現場の特定が翌朝までずれこみ、墜落してからも生存者は多数いたともされ、結果的に4人しか救出できなかったことにも世間の批判が高かったですし、当時隆盛を誇っ
日本航空123便墜落事故から今日で34年になります。月日が経つのは早いものです。日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発~大阪(伊丹)行の123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根、通称「御巣鷹の尾根」に墜落した航空事故です。このジャンボジェットは、機体記号JA8119/製造番号20783で、1978年6月2日に、伊丹空港に着陸する際に機体尾部が滑走路と接触する
JA8119—JapanAirlines—747-SR46seenherelandingatOsaka-Itami,17thAugust1984sadlyshewouldbelostwhileoperatingasJAL123onAugust12th1985withalossof15crewmembersand505passengerstothisdayitremainsthedeadliestsingle-ai
そのヒントを探しに東京国際空港(いわゆる羽田空港)の新整備場地区にあるJALメインテナンスセンターへ行ってきました。発足後幾つもの重大事故を起こしている日本航空の中で最大の、そして全世界的にも(単独機では)最大の航空事故である日本航空123便墜落事故を初めとしたこれまでの日本航空で発生している事故資料がまとめて展示されている「安全啓発センター」へ行ってきました。1985(昭和60)年8月12日の夕方、当時住んでいた家の近所にある丘へ散歩に行き、南の空を眺めていると、大きな飛行機が
日本航空123便墜落事故から今日で33年になります。月日が経つのは早いものです。日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発~大阪(伊丹)行の123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根、通称「御巣鷹の尾根」に墜落した航空事故です。このジャンボジェットは、機体記号JA8119/製造番号20783で、1978年6月2日に、伊丹空港に着陸する際に機体尾部が滑走路と接触する
今年も8月12日が来ると様々なニュース番組で慰霊登山の様子などが取り上げられる事と思いますが、事故から33年を経た今も真相究明を求める声が絶えないのは非常に残念なことだと思います。特に多くの部品が落下したであろう相模湾の海中、海底の捜索に投入された人、物、お金の何れもが十分とは言えなかったのは返す返すも残念なことでした。上の①②の写真は事故調査報告書にあります、ボイスレコーダーの聞き取り結果から書き起こされた墜落直前の会話です。「これはだめかもわからんね」という機長の言
18:12羽田15Lから離陸。18:24圧力隔壁破損18:56御巣鷹山に墜落32年前の8/12は、今日と違い暑かったですね。32年目にして、はじめてこの日時に羽田におります。32年前、わたしは高3でした。そしてすでにヒコーキマニアでして、この時間帯、自宅上空を飛ぶ東京西エリアのATC(東京コントロール西エリア120.5)をモニターしてました。123便は南エリアの管轄区域でしたので、直接管制を聞いていたのではないですが、全日空便からATCへ、日航機が羽田に引き返している、という情報