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コルベルト=カルバートと呼びます。もしくはアーチコルベルト。英語表記はCULVERTSです。iosAiによると、Culvert(カルバート)とは、道路や鉄道の下に設置されるトンネルの一種で、雨水や小川の流れを通すための排水路です。日本語では「暗渠(あんきょ)」とも呼ばれます。Culvertは、土木工事や建設に関連する文脈でよく使用され、都市や農村のインフラにおいて重要な役割を果たしています。Culvertの主な特徴は次のとおりです。雨水や小川の流れを通すために使用される
2/13日の投稿で以下↓↓の記述を投稿しました。先般来の検証で「長瀬の鉄橋」すなわち十文字川橋梁は70ftガーダー3連、50ft高さの支保工と錬鉄橋脚2本を持つ、正真正銘の四段トレッスル鉄橋だったことは、すでに判明しているのですが、単線時代最後の橋脚が北側一本は切石積み、南側一本はコンクリート製の異種橋脚だったのは何故か?謎であると書きました。で、この異種橋脚の正体が判明しました。北側の橋梁は本文の推測通り、トレッスル橋脚及び錬鉄ガーダーを更新強化するため、鉄橋を掛け替えた早い時期(大正期
ん〜?亀三何コレ??と言われるくらい、まあ普通の方なら、きっと興味を示さないモノです。ですが、小生にとってはとても興味深いシロモノでしてね!コレ、実は明治日鉄奥州第四区線最大の難工事、盛岡雫石川橋梁の明治の橋脚台です。四区線工事のうちでこの鉄橋の工事が進捗しないため、盛岡スルー案も出るほどの艱難辛苦の末、なんとしても青森全通を成し遂げたい日鉄と鉄道作業局、「鉄橋鹿島」の名にかけても失敗できない鹿島組が、お互い血の滲むような努力と知恵を駆使して、遂に完成させた鉄橋です。この鉄橋を完成させた
ちょいと備忘録がわりに書き置きます。奥州第五区線の敷設において、日詰〜小繋間の工部省鉄道作業局側の監督官は長谷川謹介技師、小繋〜青森間は小川資源技師が担当でした。実作業ではさらに日詰〜厨川までが吉山魯介、厨川〜好摩先までが大久保業(大久保一翁の嫡子)、好摩〜沼宮内までが岸本順吉、沼宮内〜小繋までが西大助さんらが監督官の下で実務担当を担っていました。民側の請負業者は、日詰〜小繋間では、鹿島岩蔵さん率いる鹿島組、吉田寅松さん率いる吉田組、早川智寛さん率いる早川組、です。この下に請負業者の
ちょいと備忘録がわりに書き置きます。「鉄橋の小川」と言われ、日鉄奥州線初期の主要鉄橋架橋において、頭角をあらわした小川勝五郎さんは那珂川橋梁を最後に、以後ここから北の架橋には手をつけませんでした。日鉄や鹿島組の公式記録にもある奥州線第四区最大最後の難工事、盛岡雫石川橋梁架橋においては、その困難さから鹿島組直営工事として施工され、寺井寅吉さんという方が監督主任として担当しました。寺井寅吉さんは、鉄道草創期の京浜間鉄道工事において、外国人技師ダイアックの元で近代土木建築に関するイロハ全
奥中山畠山煉瓦の六兵衛さん、小樽でM13年に外国人寄宿所を作ってました。さらに「幌内鉄道の敷設に関わる人夫の召募は、請負人の大岡助右衛門・関口藤四郎・畠山六兵衛・古川寅吉・中川源左衛門らによって岩手県を筆頭に青森・宮城・秋田・山形・石川・新潟・京都などから集めていた」とあります。これらの人々は、幌内鉄道敷設の由縁となる、幌内炭鉱の掘削にも関係しました。札幌での煉瓦製造の嚆矢は、開拓使が開設した官営工場の茂辺地煉化石製造所でした。ここで造られていた煉瓦は、当時すでに東京の集治監
亀三、IGR日本鉄道第五区線遺構継承グループ、のFBサイト何時になったら出来るの?遊んでないで、早くアップロードしてリアルアクション始めないと春が来ちゃうよ〜〜、と言われそうで、ちょっと汗汗しております。言い訳ですが、実は色々とネタ仕込みはしておりまして、今月に入りフィールドワークには頻繁に出ており※降雪時は普段見えないモノがよく見えたり、形が現れたりするので実は好都合だったりします、、未発見遺構も今のところ新たに二つ見つけました。フィールドワーク以外にも、文書検索や調査(聞こえの良い言い方
ここの所、資料探しには国会図書館へアクセスして、調べ物をする術を覚えました。検索欄へどのようにキーワードを入れるか、が一つのテクニックのようです。なかなかに上手くヒットせず、「スカ」の結果も少なくありません。キーワードがヒットしても、本館閲覧のみの文書も多く、そういう場合は概要要約文から内容を推測するしかありません。小生のような駆け出しシロウトにとっては、なかなかに手強く手に負えない、メガエンサイクロペディア!です、国会図書館は。さて、ここでいろいろとキーワードの組みあわせを変
浄法寺の修復士さんが、以前より「福岡=二戸は奥州第五区線敷設時には、他の沿線町村のように忌避運動は存在したが、今のルートしか地形上線路が引けなかった影響が大きい。旧市街近くでの駅設置を考えると、まず現在の斗米駅付近設置案も、宿場中心部から完全に隔絶された深い馬淵川の渓谷向こうとなるので、取りやめざるをえなかった。その他の候補地を検討しても、現在の場所が地形上の制約を加味すると最適だったので、結果、駅は町外れになってしまった。だから、福岡が他所と同じレベルで、鉄道忌避運動が盛んだったと言うの