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全盛期絶頂期という用語があります。その時期、たしかに順調だったことを示す用語と考えられます。しかし、この用語が用いられるということは、その対象は、やがて下り坂になるのです。スポーツや技能、芸事などでは、年齢相応の働きが期待され、加齢などによって引退を余儀なくされることが宿命なのかもしれません。しかし、そのような時期に財を成したりして、セミリタイアできるのなら別でしょうが、大抵の社会人は、何らかの形で仕事をして、生計を立てていかなくてはなりません。
一般的に、賢くない人間は、社会生活でも低く評価されます。賢いと「される」人間は、何かと優遇されます。それで、物事に対する見通しがついていて、正しい判断ができる人は「優秀」とされます。しかし、賢いと「される」人が、全員「優秀」とは限らないのが現実です。中途半端に賢いというのは、社会通念では、肩書や学歴、資格などから賢いとされても、その実質が社会的評価に満たないレベルと考えることもできるかもしれません。戦後80年近くの歴史に限れば、日本という国は、経済や産
受験生時代は前向きでいい人だったのに、合格すると悪い意味で人間性が変わることが多いのが受験です。いい歳にもなって、昔は不良だった中高年みたいに、大学受験などの成功体験を武勇伝のように語る人がいます。そのときの体験が忘れられないのでしょう。受験生としては、合格者の自慢話は話半分に捉えるか、SNSなどで、面倒な書き込みをみつけたらブロックかミュートするくらいがちょうどよいくらいに考えています。合格体験記も、その多くが、合格者の自慢話か、指導校のステマですから、文面
資格試験でも、最難関でもないのにそれを持っていること、1発合格など自慢をする人もいます。その物さしの中で得意になっているだけのようです。世間には、そのようなペーパーテストで判定しがたい能力の高い人もいます。能力や才能があれば、学歴や資格を持っていても、そうでなくても、運命を切り開くことができるでしょう。連中は、そのような次元を志向するほど、優秀ではないのです。それでいて、試験に合格する要領の良さはあり、外面だけはよかったりするのです。つまり、資格や学歴に依存
頭が悪い人は、外見で判断できることがあります。ですから、関わるべきでないとされるサインが多くあり、客観的にも識別可能ですから避けることができます。しかし、中途半端な人は、それでは判定できないのです。そこが厄介なところであるから、気を付けないといけないと考えるのです。つまり、外面だけは良く、外見は立派なことがよくあります。その容姿や外見もそうですが、立派な学歴保有資格などがあると、よけいに分かり難くなります。新卒カードを使って変にお給料の高いところにいた経歴も
最近になって、一般教養の範囲でも歴史の勉強をやろうと考えています。かつては大学受験で、志望校が志望校でしたから、日本史と世界史、当時のセンター試験対策で倫理も勉強しました。歴史上の事実を見ても、災いをもたらした事件などの多くは、愚昧な人間によって事を起こしたといってもよいでしょう。一方で、中途半端に賢い人物によって災厄が引き起こされた事例もありそうです。政治や行政で、一定の判断はできたものの、そこに先見性が無かったり、先例や因習にこだわりすぎて、その時代に
自分は賢い人かというと、決してそんなことはないでしょう。ですから、そこは謙虚になり、これから齢をとれば、若くて優秀な人から見聞を教わる事もふえるでしょう。そのような気風がないと、時代や社会の変化についていけなくなります。若いころ、入るのが難しい学校を志望してはいましたが、結局叶いませんでした。これも私が「たいして優秀ではない」ことを受け入れざるをえない「動かし難い事実」となります。しかし、地元のある国立大は、多浪してまで合格しています。気に入らないことが色々あ
私が見た限りでの「中途半端に賢い」人たちというのは、私なりに、いくつかの属性があるように思います。・上には上がいることを知らない・上(本物)に劣等感をこじらせる・知識が知性の源泉と思い込んでいる・人を見下す・自分より優れた属性と関わらないなどが考えられそうです。どうも地方の公立進学校は、そのエリアではエリートとされるため、そこに通えたか否かにおいて、思春期に限っても人生に影響するところがあるようです。そのせいか、過剰なエリート意識をにじませる言動をよくする
・学校で絶対に教えない・日本人の9割は絶対に知らない・政府やマスコミが本当のことを言わない乱世になると、このようなことを言いふらす輩が出てくるとは思います。絶対に、お友達にならないことです。貧乏と「頭の悪さ」はうつる、というのは、その思考や行動が影響されるという意味では正しいと考えています。頭の悪い人とはかかわるべきではない。確かにそうだと思いますが、さらに言わせていただくと、中途半端に賢い輩とは付き合わないほうがよいと考えます。田舎秀才とか、実力の
文系の場合、国公立大学と私立大学で、学歴の信用が全く異なります。一般的に、入学試験の科目が多く、学校ごとの二次試験でも、記述式などで採点してくれる、国公立の方が学力に対する信用が高いのです。そして、文系と理系では、どうしても理系のほうが信用があります。私は私立文系出身ですが、国立志望だったので、その範囲で数学と理科(生物)の勉強はしました。しかし、物理化学はまったくダメです。文系の学生は、理数系が理解できず、仕方なくその進路を選んだ事例が多くあります。その
FP技能士の試験は、年3回あります。CFPの試験も、年2回あります。これらの試験は、落ちても、仕切り直しをすれば、また試験を受けられます。これは、試験を受ける立場からすると、随分ありがたいことです。試験に落ちたからといっても、予定さえ都合がつけば、ほとぼりが冷めたころには再テストが受けられます。しかし、少なからぬ国家試験など、年に1回しかやらない試験もあります。落ちたら「また来年」なのです。その間に年を1つ取り、合格発表や最終合格に至るまで、今年ではな
学歴というものは、あくまで、人生のその時期に特定の学問を修めたり、入学試験でその学校の試験に合格したことなどを証明するものとして機能しています。国公立大学の場合は、その大半が入学試験に、合格していますから、公平な試験に合格した事実を証明できることがよくあるでしょう。私立大学が、学力の証明として信用ないのは、一般入試以外の選考方法がかなり不明確で、一般入試でも科目に偏りが見られ、解答方法もマーク式といったやり方が罷り通っていることなどがあります。学歴は、あくまで
私立大学文系学部出身の私としても、私立文系出身者の大半は、基礎学力が怪しいとみています。少子化もあって、入学者の確保のため、かなりの私学で指定校推薦などの実質的な裏口入学を行うようになっています。私大出身者が学力の面で信用がないのは、そのような入学方法を採用するからでもあります。そのうえで、一般入試の内容も、偏りがみられ、基礎学力がなくても、合格してしまう性質があるのです。私立文系入試は、基本的に数学や理科を課しません。要するに、英単語と構文、歴史上の人物や年号
日本という国家は、学歴社会と言われます。学歴でも、大学を出ているか、大学を出ていても、どの大学を出ているかが大きいとされます。しかし、高偏差値とされる、いい大学を出たからといっても、必ずしも優秀であったり、優れた人格者であるとも限りません。渦中の中古車販売会社の「2代目」が、叩き上げと言ってもよい創業者と異なるのは、高学歴であることです。高校も西日本屈指とされる名門を出ているようですから、たしかに勉強はできたのでしょう。しかしながら、内部での人物評価は、いま
一部のSNSを見ていますと、物質面での豊かさは本人の社会的地位など、成功者としての象徴として用いられるようです。SNSでいうところの「キラキラ」など、その一種といえます。もちろんこれには、ウソが入り込んでいることも見逃してはならないでしょう。物質的な豊かささえ実現すれば、自由が謳歌できるとされる自称自由人をみていますと、結構な割合で、攻撃的な言動をしています。経済面で成功していることにより、他人を見下すといってもよいでしょう。もともと自由というものは、個人の幸福を
物質面の充実を図れば、自由が実現できる。近年みられるFIREという生き方を見ても自由を志向しながら言動が不自由な人たちに共通する考え方のようです。そのうえで、連中の多くは、明らかに学がないということも言えそうです。ネット上で「学校では教えない」とか、政府が敢えて国民には公表しないとか、陰謀論じみたことを言いふらす連中がいます。しかし、実際は、それが教科書には書いていたり政府も白書や統計などで公表していることも確かにあるのです。FPはもちろん社労士試験の勉強を
今年の司法試験の問題が法務省のホームページで閲覧できます。司法試験の最高峰といった権威は、特に論文の問題でみられる、その質にあると思われます。現在の日本という国家の社会問題などが、科目ごとで反映されるところがあります。そこに、試験委員の思いが読み取れるのかもしれません。法律をある程度学んだことがあり、そのため議論ができていたり、現にいくつか資格などを保有したり、実際に資格で仕事をしていたりしますと、受験しなくても、その問題を目を通し、自分なりに考えてみることはで
自由に憧れる。これは人間として生きるためには、当たり前のことでしょう。歴史を学ぶと、その自由のために、数多くの人たちが、血を流して戦ったり、政治をしてきたこともわかります。その先人たちの行いによって、現在の私たちがいくばくかの自由を得ているようです。資本主義というべき世の中では、お金や資産、資本が物をいいます。そのせいでしょうか、自由を志向する人のが、お金や資産といった物質面の充実を実現しようとあらゆる努力をしているのです。しかしながら、そのよう
FPでよく取り上げるライフプランは、子供の将来について計画することも、当然含まれます。それは、子供のための資産形成のほか、教育が重要な位置を占めます。未婚で子供がいない私ですが、かりに自分に子供がいた場合、その子には何らかの期待をかけるものなのかもしれません。自分の子に限って、何か才能があったり、優れたものを持っていてほしいと願うのが親なのかもしれないのです。そのため、子供に才能を開花させるといった習い事などをやらせることがよくあるのではないかと思います。
借金をして物を手に入れた時点で、それが自分のものであると錯覚することが多いようなのです。たしかに、法律の話をすると、借金はしても所有権は帰属するでしょう。しかし、それが抵当権などの担保に供されていることが通常ですから、毎月、決められたお金を召し上げないことには、それが事実上取り上げられてしまうのです。不動産を投資で購入する場合は、利回りといった計算もしますが、そこでは購入代金と仲介手数料、登録免許税や公租公課などは計算に入れても、後々支払う金利などについて無
7月下旬になりますと、世間の学校の多くで夏休みが始まります。小中高の場合は、7月20日ごろから8月末日というところが多いでしょう。大学になりますと、夏休みは9月下旬ごろまで学校休みのところがあります。国立大学は10月上旬まで休みのところもあるのです。大学生の休みは、定期試験が終わってからということが多いでしょう。そのあとは帰省したり、サークル活動や旅行に出かける場合もあります。このような大学生のノリに良く似ていると思うのが、夏ごろ実施される資格試験です。
自由という幻想に、あこがれる人が一定数いるようです。自由といえば、何のしがらみもなく、嫌なことから解放されて、好きなことで生きていく、といったことを連想しがちです。何もしなくても、自動的にお金が入ってくる。それで、好きなものがいくらでも買える。行きたいところにも行ける。いくらでも遊ぶこともできる。こういったことを考えるのかもしれません。頻繁に経済的自由という言い方をする大人もわりといるように思います。経済的といいますのは、おそらく、金銭面で不自由しな
「根拠のない自信」というものがあります。受験の成功体験も「根拠のない自信」によってうまくいったという話は確かにあります。よくわからないけど、「自分は受かる」という思い込みがあって、試験に合格したというのです。受験の成功体験は、かなり大きいところがあります。それをやっただけで、狭い世間で称賛され、中には合格体験記を書いて原稿料を貰ったり、お世話になった学校などに凱旋することもあります。一方で、それに失敗したことによって、ぞの挫折が後の人生にかなり影響するこ
不動産は、その業界で仕事をしなくても、わりと失敗事例を見ることができます。まず、裁判所の競売のサイトを見ればよいでしょう。そこには、現在競売に出されている物件の情報を見ることができます。債権者や債務者、その被担保債権の金額などは、裁判所に行って資料を閲覧するか、専門の業者から情報を取り寄せるかになるとは思います。しかし、一部が黒塗りになっている、ネットで閲覧できる資料からでも、競売に至る背景などが推認できるものがいくつもあります。大阪に限っても、近年の競
有能であったと思い込んでいた人が、ある時点で世渡りや人生に行き詰まり、あらゆる物を失う事例が確かにあります。しかし、それは「転落」というよりは、本来ならそこまで有能ではなかったために、順調すぎただけであって、本来の能力や人望に見合った所に収まっただけではないかと思います。氷河期世代でもある私には、自分たちが何かと「失われた」世代と解説されることがありますが、これには違和感があります。正確には、自分たちよりも少し上の世代なら、あまり苦労や努力をしなくても得られたで
物を持つことによって、それについて回る負担を考えなければならないことがあります。不動産は、その維持修繕や、工作物責任など法的な責任を取らされるリスクもついて回ることになります。リスクや負担を覚悟のうえで、所有するべきでしょう。たしかに、優良な収益物件を持てば、そのため借金をしても、収益が支出を上回るために、手元にお金が残るような仕組みは作れる場合があります。そのためには、返済期間や金利といった融資の条件も重要となります。この場合は、大抵、返済期間が30年とか、
私のような氷河期世代は、学校を卒業しても、希望通りの就職が叶いにくかった世代です。終身雇用を理由に、不景気でも従業員を不当に解雇できず、そのかわり当時の新卒者の採用を控えることで雇用を維持する企業が多かったのでした。一方で、リストラや、企業合併や組織変更などあったはずです。既存の社員も、何かと待遇が悪くなり、自主的に退職を選んだ人もいたはずです。中高年にもなれば現在でいう「新卒カード」の効力も失効しているでしょう。しかしながら、就職事情がよかった時に、たまたま
私も若いころは、何らかの資産を保有したくなったり、しかるべき社会的地位を志向していた時期が確かにあったように思います。しかし現実は厳しいのです。欲しいものはろくに手に入りません。決して実家も裕福ではないですから、相続などあてにすることはできません。縁故もありませんので、就職で優遇されたこともないのです。ですから、実力志向で、受験をしたり、資格を取ろうとしてきました。資格そのものは、無形ですから、その維持管理などは、不動産と比べて重い負担になりません
自尊心が強すぎることによって、身を持ち崩す事例を「山月記」にたとえることがあります。この文学作品は、高校の現代文の授業で「羅生門」「舞姫」などと並んでよく取り上げられるものでありますから、まさに授業で学び、その内容も、国民レベルで知られたものといえます。しかし、高転びした事例としては、その主人公に例えるにはレベルが低いと思われるものがよくあるのではないでしょうか。能力が低いのに、自分が優秀と思い込んでいただけなのです。「先生」が依頼者などから預かった現金を横領して懲戒
一般的に、資産を所有することは、そこから発生する経済的利益を享受して、物質的な豊かさを得るものと認識されているようです。資産を保有することで、経済的な豊かさをもたらし、自由が得られるという幻想が強いのです。かりに宝くじなどで数億円が当選した場合、それは非課税ですから、当たった金銭は全額を自分のため使うことが事実上できるでしょう。私のような独身中年男性であれば、そのお金により労働する必要すらなくなる魅力があるわけです。その数億円を計画的に運用し、従来の金銭感覚を