ブログ記事995件
かねてから、私は「中途半端に賢い」人間は気を付けるべきと申し上げています。とくに高学歴であったり、特定の資格で仕事する属性は、その傾向がたしかにあるとみているのです。ある国家資格で仕事をされる方は、同業者は劣等感が強く、つまらない人間が多いと仰るのです。たしかにその資格を取るには、合格率が例年1割にも満たない試験に合格する必要があるのですが、そのために勉強などをしてきた割には、知性や教養、人間性といった人格面における魅力がないということのようです。同じよ
私は飲酒は基本的にやりません。「基本的」といいますのは、下戸ではないですが、それでも酒に弱いからです。コロナ前など、たまには飲みに行くことも確かにありました。FPならよくある思いますが、仕事の関係などで飲むくらいはやっていたのです。現在は、ろくに飲みに行きません。コロナ禍によって、様々な社会不安がもたらされ、かかわる人間の本性も露になることがたしかにありました。私の周囲でも、「酒飲み」の本性が露になったために、この手の人間とは、仕事などで関わるべきでは
「ドロボウ」といいますと、一般的には窃盗犯などを言います。他人の所有もしくは占有する財物を不法に領得する人間です。万引きなども窃盗の一種であり、ドロボウのはずなのです。万引きに関して言えば、そのような呼び方をするものだから、常習者に罪の意識を根差すことができないとの指摘もあります。万引きは、窃盗という犯罪なのです。世の中には、犯罪ではなくても、刑法で規定するような、他人の占有する財産権を侵害するものではない形態の「ドロボウ」も存在します。著作権侵
私は自他ともに認める鉄道オタクですから、一部の過激なオタクの言動について、否定するわけにいきません。公共の場で、過激な言動をするオタクがたしかにいます。それこそ建造物侵入や器物損壊をやります。時折、鉄道事業者の方から、公式のSNSなどで、警告を行うありさまです。特に過激とされるのは「撮り鉄」という属性なのですが、私は、あの習性は狩猟に通じるところがあるのではないかと考えます。写真撮影は、コレクション的なものもたしかにあるとは思いますが、被写体を獲物にた
私は読書家ではないです。たしかに本は読んでいたとは思いますが、世の中には筋金入りの読書家がいます。その読書量や教養にはとてもかないません。じつは、資格試験などの受験勉強をしますとかえって活字の本などを読まなくなることが実際にあるのではないでしょうか。かつて司法試験の勉強をしていたときなどは、活字に対する熱量を基本書などに回され、小説をまったく読みたくなくなりました。学者の先生が書いた基本書の読み込みをやり、同じ条文や判例を何度も読みます。一度や二度
私もオタクの端くれであるとは思います。この世間は、様々な意味で上には上がいるために、とてもじゃないですが、その道の最上位のレベルで、好きな分野を極めたなどとは口が裂けても言えません。どちらかと言えば、他者から、私のことをオタクと評価するのです。ところで、オタクと言っても、悪い意味で評価されることもあります。特定の偏った内容に傾倒しすぎて、客観的にその対象の悪い点を受け入れないという事がたしかにあります。アイドルに関して言えば、対象が生きた人間ですから
私は非喫煙者です。父が喫煙者でしたが、そのために体を壊し、末期がんの状態でも、喫煙をやめることはありませんでした。子供のころ、当時はまだ、タバコを年齢関係なく売ってくれたものですから、当時でいうマイルドセブンを買いにいかされました。そして、毎日のように灰皿が吸い殻や灰で満杯になり、時々うっかりひっくり返し、親によく怒られました。自家用車でも、当たり前のように喫煙するために、いつも車内が臭くてたまりませんでした。幼少期、タバコに関してロクな思い出がな
大学デビュー特有の痛さは、やがて定年という節目を迎えると、再び訪れるようです。自由な時間を得るため、しかるべく資産などを形成することも、ライフプランとしては重要なことと考えますが、趣味や教養などは、持っておくに越したことないでしょう。それがあると、適度に遊ぶこともできるからです。お金や時間があっても、無趣味無教養だと何をすればよいでしょうか。流行に影響され、時間やお金ばかり無くなるのです。青春18きっぷが使える時期になりますと、東海道本線などで、鈍行を長距離で移
数学検定準2級に合格したので、2級も受験することになりました。数学検定2級は、高校2年でやる数学のようですから、昨今の日本の大学受験でも文系の範囲とされています。そこには複素数もあり、私も大学受験をやっていた当時、たしかに少しはやったはずでした。数学検定の利点としては、提携会場受験があります。本会場は年3回ですが、提携会場受験は、2級くらいまでのレベルなら、ほぼ毎月実施しているところがあります。その提携会場受験を利用して、受験日を早く設定したのです。
ある国立大学の学生が、サークル活動で、不謹慎なことをしたようです。器物損壊といった犯罪ともとれる行為ですから、大学も何らかの対処をするようです。この学校は、国立大学でも、全国的に見て入学試験が難しいはずです。いわゆる旧帝ではないのですが、首都圏や関西圏以外の旧帝と同等程度の難易度があるでしょう。そのような学校ですから、そこに入学する学生の大半は、標準的な学力があり、勤勉といってもよいはずです。実際に就職でも企業などの受けもよいはずなのです。ところが、日本の大学
昨年秋より、数学検定の勉強を始めました。特に自分が理解しておかないといけないのが三角関数だったため、受験級は準2級からとしました。数学の試験を受けること自体、大学受験以来ですから、3浪で某国立大学の受験から起算して、実に二十数年ぶりです。その間、まともに数式など書いたこともろくにありません。準2級は高校1年(数学Ⅰ・A)レベルとされますが、それでもすんなり行かないことも予想されました。実際に受けた感想としては、受験後に頭が痛くなりました。使ったことがない
私もスマホゲームはやります。ただし、ほぼ無課金です。「ほぼ」というのは、まれに課金することはあったからです。せっかく無料で遊ばせてもらったのだから、たまには、ご祝儀で課金してもよいだろうという事で、ガチャを1回くらい回す程度でした。この手のサービスは、課金してくれる人の「売上」で賄っていることは確かです。ですから、無課金勢としては、そのために冷遇を受けても、致し方ないと思うことがあります。特別料金も支払わないのに、有料の特急やグリーン車などの特
入学試験は実につまらないことを聞いてくることがあります。受ける学校や資格によっては、優秀な人から合格者を選ぶ必要があるので、落とすために問題が難しくなることもあります。一部の資格試験も例外ではないでしょう。東大や京大の入試問題で数学が難しいといわれるのも、受験者に頭がいい人が多いからとも言えそうです。数学などは、典型的な頭を使う科目で、好きな人はたまらなく好きで、時間を忘れ好きなだけ勉強する子もいるでしょう。しかしながら、三角関数など勉強して何の役に立つ
正義とは実に厄介です。それを振りかざせば許してもらえると錯覚するところがあります。しかし、正義を振りかざし、その正義で人を傷つける連中がいます。インターネットの炎上、誹謗中傷なども、相手を悪く言うのは、その相手が何らかの悪い事をしたからというので、いくらでも非難すればよいものでもないでしょう。厄介なのは、正義で堕落する人もいるのです。一時期私も、ある正義を語ることができそうな職業を目指してはいました。怠惰だったためにやるべき勉強が全うできず撤退したのですが、あ
がり勉という用語があります。勉強をよくする人物を指す単語ですが、良い意味で用いられるわけではありません。試験で点を取るため、それで進級や進学など自分に有利に扱ってもらうため、要領よく世渡りをするために、異常なまでに勉学に励むような意味合いがあります。むしろ、凡才が、自分の能力以上に社会的評価を得たいがため、利己的な努力をするといった意味で用いられるでしょう。資格試験でも、難しい内容の試験になれば、実力以上に背伸びをするような受験生も、たしかにいることでしょ
学生のころと、現在で考え方が変わったこととしては、自分が抱く正義は絶対ではないということです。学生の頃は、まだ社会に出ていませんから、良くも悪くも純粋です。世の中不正が蔓延り許せないことが多いと思うようになります。だから、自分は、そのような悪い大人にならないように、勉強もして、自分を律し、社会貢献できるような大人になろうとして、最高学府を目指したはずでした。そこで、自分が思った通りに志望校に合格した場合、その後の人生は順調になるとも限りません。そこに限ら
一般論として、資格試験や入学試験で有利とされる人物像があります。それは「素直な人」です。目上の存在である、教師や指導者の言う事を「素直に」従うから、それに異を唱えずに、試験問題にも順応して、相対的に良い成績が取れるのです。私も、その見識には、おおむね異論ないです。私の知る、その人間性や知性の割に、試験で好成績だった人物の一部が「素直な人」に該当します。私の知る「素直だった人」は、試験で点を取ることくらいしか興味がなく、たしかに勉強はしますが、上から決めら
学生のころと社会人で、自分が変わったこととして、付き合う相手を選ぶようになったことがあります。学生の頃は、とにかく様々な属性の人に会うことも、特権なのかもしれません。利害関係抜きで、様々な人から話を聞いたり、それこそ一緒に飲み食いもしていました。そこには札付きの活動家だった人や、前科などあった人、会社員などまじめに仕事をしている人、いろいろな人が、面白い話を聞かせてくれたものでした。今となっては、それは気軽にはできません。やはり付き合う相手によっては、信用にも
このところ、世界情勢もずいぶん変化が見られ、数年前までは当たり前にできたことも、現在はできなくなったことがあります。特にインターネットを中心とした言論の界隈では、少し前と比べてもずいぶん治安が悪くなったように思います。悪い意味で大衆化されたといってもよいのではないでしょうか。かねてから申し上げていますが、インターネット草創期や黎明期は、情報通信などの分野で造詣があり、そのうえで専門分野の知見がある人が、それぞれの専門や趣味、教養などの見解を公表するところがあり
社会人になると、学生のころと変わったことがいくつもあります。まず、働くことや、社会参加することに関して意識が変わります。当然のことなのでしょうが、働いて報酬を得る。学生の頃はそれが度外視されていたところもありましたが、社会人は責任が伴います。学生の頃は、受験などで、努力をすることなどが特別扱いされていたところがあります。かつて浪人もした私からすると、今も、自分が受験していた当時も、難関大学の合格体験記など読んでみても、共感性も欠けた傲岸不遜なものが目立ちま
入試制度の弊害は、私が経験したことに限っても、いくつか思い当たることがあります。その最たるものの一つが、試験に合格さえしてしまえば、そのために勉強した内容がどうでもよくなるということです。実際のところ、専門教育を受けたり、資格で仕事をする場合、さすがにわかっていないといけない事柄があります。試験を実施する側としては、その譲れない所については、本試験で出題するはずです。しかし、入学試験や資格試験の中には、定員などが決められているため、「落とすため」意図的に
このところ、凋落したとされる事柄を、複数調べものをしていますと、凋落したという事実の指摘に対する反論として「それは僻みである」という物言いが目立つようでした。決してすべてが僻みではないと思います。いい大人なら、そこまでして実力を誤魔化し外面をよく見せたいとは思わないからです。全盛期を知っている方であれば、その凋落をお嘆きになるのは人情ですが、制度にタダ乗りして、人を見下すのは正直どうかと思います。また、ツッコミどころが多いものを擁護する人たちの中には、
2月と言えば、私立大学の(一般)入試が行われます。下旬には、国公立大学の前期試験も行われます。私も大学入試では浪人していましたから、一般入試組でしたが、一般組の大半は、試験に合格しますと、堰を切ったように遊びほうけるようになることがよくあると思います。私も人のことは言えませんでした。浪人生活の末に、合格したこともあり、合格すると、身内に「日に日に頭が悪くなっている」とまで言われました。受験生活の緊張感はいったい何だったのかというくらいに、だらけた暮らしと
私が若いころと、いうよりは、子供だったころ、確かにテレビ番組は面白かったのですが、現在では到底放送できない内容のものも随分あります。それでも、あのころは、テレビを見て、随分笑い転げ、大阪の子でも、東京のお笑い番組のものまねも、たくさんやっていたはずです。特に関東キー局制作のバラエティーは、カネと権力の権化みたいなところがあり、面白いといっても、公然と「パワハラ」「セクハラ」といったことをやっていたように思います。また、当時は随分景気がよかったので、お金をかけて
「私が若いころは」という説教を垂れる人たちがいます。自分が若いころと比べて、今の若者たちはという趣旨で、何かと自分たちの世代の優位性を語る趣旨で用いられます。その根底には、「今の若者たちは」というマウントやポジショントークとなります。このご高説を、令和の世になって、昨今の若者たちが、まともに受け入れるものなのでしょうか。時代や社会の変化もあって、あの人たちが若いころと、現代では、物事の価値観が大きく異なるからです。連中が若いころ、いい加減なことが
私も現在は中高年というべき年齢ですが、あと20年くらいは生き続けたら、老人の仲間入りをします。インターネットのやり取りでは、すでに「インターネット老人会」という用語が出ています。当時のパソコン通信など、インターネットというものが普及する前から情報通信の技術に通じていた人たちのようです。この年齢層は、現在ではまだ「高齢者」というべき属性とは限りません。しかし、現代の情報通信のインフラに関しては、黎明期から、その歴史を知る生き証人という意味付けもできるとは
「くろうと」と「しろうと」で作文をしなさい。という問題があった場合、「素人は玄人に敵わない」という趣旨の回答をすることが考えられます。しかし、「わたしのくろうと(苦労と)どりょくを、しろうと(知ろうと)もしない」という答えがあってもよさそうです。中学生のころ「中」「発」のほかに漢字2文字を入れて熟語を作る問題が出ました。想定される答えは「百発百中」でしたが、当時から鉄道オタクだった私は「中津駅発」とか、「中野駅発」などと答えて、怒られたことが
私が若者と呼ばれた時期、日本という国は確かに不景気でした。就職難だったために、先輩たちが、そのことで苦労していました。苦労や努力の割に、報われにくかったのが私たちの世代です。私の年代よりも、先輩というべき年齢の人たちのほうが苦労をしていたように思います。横並びで、犯罪など問題さえ起こさなければ、定年まで身分の保障ができたであろう職場に就職することが困難になっていったのです。私たちの親や、10歳くらいは上の年代では問題なく就業に着けたところが、異常なほど狭き門と
統計学などでは、様々な考え方があると思いますが、世の中には、学力などで、偏差値という数字を用いることがあります。偏差値50は、理論上は、平均とされます。そして、そこより上と、そこより下が、一応は同じくらいづついるとされます。インターネットの発達で猫も杓子も気軽に「お気持ち」を表明できるようになりました。その「お気持ち」には、下半分も当然紛れているのです。知的レベルで言えば、一定のライン以下の物言いは、その時の気分でしか考えず、物事を大局的にとらえていないものが
無能という用語には「能力がない」という意味で用いられますが、どちらかと言えば社会的地位が高い属性に使われることがあります。そこでは「その社会的地位や責任を果たすに足りる能力が備わっていない」という意味合いもあります。もし、そうだとしたら、企業や組織などは上に行けば「無能」になるというのも頷けます。責任がついて回ったり、相応の能力や適性が求められるようになりますと、それを全うできなくなる属性が出てくるわけです。私も他人ごとではありません。これまで、自分な