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ペンキの剥げかけたドアの鍵穴に鍵を差し込んで、私はジンを部屋に招き入れた。少しドキドキする。多分この部屋に異性の友達を入れるのは彼が初めてだと思うし----私はジンの顔を彼には気づかれないように盗み見た。彼の顔は私の想像通り、平常心そのものだった。平常心以外の何者でもないくらい。まあ、それも当たり前なのだと思った。今の彼の興味はきなこだけなのだ。「きなこ、きなこさん、お客さんよ」私は冗談めかして部屋の隅のケージに向かって声をかけた。いつもなら私が帰ってくるなり、大騒ぎでケージをガ
一人で行けると行ったのに、どうしても同行するといってナムジュナもナナも聞かなかった。二人は一晩泊まる算段をして、あの星空を見たかったのだという。小さないのりは、最近よく喃語を話すようになり、表情も増えた。可愛くてたまらないのは、親じゃなくて、責任も何もなくて、ただただ甘やかしていられるからだと思う。2日目に海へ向かった。アオイさんも連れだって。祈里の終いの願い。彼女と子供の骨灰を海に散骨する。一部は庭の花壇に。もう一部はここに散骨してほしいと言っていた。その願いを叶える。も
葬儀には多くの友人たちが集まってくれた。ユン先生は、ジスとアナを連れだって。ソンへさんの娘さん家族、アオイさん、ホスピスのスタッフ。海上タクシーの運転手さんも。帽子の女の子の両親も。最後に聞いていた終いの彼女のお願い。『ドレスと、タキシードはずっと飾っていてほしい。私はきっとそこにいるから』見送りが終わって、火葬もした。あの部屋に飾っていた全部の絵と写真とハガキも全部一緒に。「魔除け?それどういう意味です?」「……この絵は魔除けになるって、祈里が言ったんだよ。」「は?
……その日は、よく晴れた日で、風も心地よいそんな日だった。屋敷中に響いた警告音。祈里をモニターしていた機材から放たれる音。駆け付けたユナは、すぐに廊下で待っている俺や友人たちのところへ戻ってきた。「……あまり時間をかけずに、お別れを。私はもう、済ませたから……」ユナの目は赤くて、涙の跡も見えた。村雨、ナムジュナとナナといのり、駆け付けたソナ、ミヨンとオードリー……「……イヤだっ!」オードリーの声に、両手をぎゅっと握りこんだ。「……行きましょ」ミヨンに抱き抱えられるような様子
アオイさんが、祈里を訪ねて来てくれた。手には燃やすと言っていたはずのあの絵。返しに来たと言ったけれど、祈里はその絵をホスピスに飾って置いて欲しいと言った。「…思ったよりも顔色がいいですね。」今日は上半身を起こして、ベッドにいる祈里。アオイさんが来てくれたと知って、少し無理をしているのかもしれない。「この天井や壁も楽しい。」アオイさんは天井から、壁から今では床の1部まで、貼られるようになった絵を見て言った。「気に入ったものがあったら、持って行ってください。……これまでのお礼です。」
晴れた日には、体調が良ければ陽に当たりたいと庭に出て、雨が降っても、窓から外を眺めてみたり、オードリーが書いてくれていたノートをめくって、草花の名前をなぞり、訪れる鳥や虫の名前をなぞる。身体を拭いて、髪を梳かして、長くなってくると、短い方が楽だからと鋏を入れてカットする。ゆっくり、ゆっくり、時間をなぞるように日々を過ごしていく。日に日に、庭や窓に向かう時間は少なくなっていき、ベッドの上で天井を眺めることも多くなった。天井は味気ないというから、友人たちの顔を毎日書いては、天井に
「初産だから、まだそんなに慌てなくても、大丈夫ですよ?」至って冷静なナナとは反対に、テンパっているナムジュナが可笑しくて、可笑しくて。「忘れ物はないか?」「大丈夫です。タクシー呼んでもらってよかったのに。」「いいよ。これくらい。それに、祈里がそうしてやってって言ったんだ。その方が安心するだろうから、先生がって。」「……あー、」まだテンパっているナムジュナは後部座席でナナの手を握りながら、もうすでに泣きそうになっている。「……それで立ち合いできるの?」ナナはそんなナムジュナ
すぐに祈里は眠った。移動で疲れていたのか、暗くなっても目を覚まさなかった。「ずっと、ついているつもり?」ユナは部屋を尋ねてくるなりそういう。眠っているとわかっていても、目を覚ますまでは不安で、その場を離れられなかった。「モニターしてるから、何かあればすぐにわかるわよ?」「ん」「……食事くらい取って。あなたまで倒れるわけには行かないのよ?」「……わかった。」渋々、食事をとるために部屋を後にした。「どうです?」ナムジュナは俺の顔を見るなり、聞いてくる。「何が?」「祈里さん
二人で戻ってきた俺たちを見つけた、アオイさんは満面の笑みで迎えてくれた。「食事、まだでしたでしょ?お二人でどうぞ」花々に飾られた東屋。いつかの結婚式を思い出していた。あの時の誓いを思い返す。……左手にある指輪。彼女の左手にもまだそれはあった。ソンへさんの手紙にあった、離婚届は出していないという文面。そのことはまだ彼女には話していない。アオイさんに、ここを出るという話を二人でした。涙を流して、喜んでくれた。病状がいいわけではない。時間は迫ってきている。改めてユナに付き添
いつものあの浜辺に彼女はいた。手紙を読み終わったのか、泣いていた。両手で顔を覆って、か細くも声を出して。声を掛けようか、どうしようか、迷って立ちすくんでいると、彼女がこちらをちらっと見た。そして、車椅子から立ち上がって、波打ち際までゆっくりと歩き出す。……嫌な予感がして、咄嗟に駆け寄って腕に手を伸ばした。「ダメだ。」「…………」やせ細った腕、強くつかんだら折れそうなほど。「……り…たい……」か細い声が潮風にかき消されて聞こえない。「……何?」彼女は泣き顔をこちらに向けて
……来ないでと言われた。翌日。来ないでと言われたことに、少なからずショックを受けていた。近づけたと思ったことに浮かれすぎて、勇み足になった。……ソンへさんからの手紙。ツギハギの手紙を何度も読み返していた。宿の床にただただ、ゴロゴロとして過ごす。今日の船で、帰らなくちゃ行けない。手紙を書いた。一緒に海に行けて良かったと。……女の子のことは、残念だったけど、とか……それでも、病気の痛みや辛さから解放されたことは、良かったんじゃないかとか……まとまりのない、文言や絵を並べた。
アオイさんに手紙のことを知らせたくて、彼女が来る前にホスピスに向かった。遠目に建物が見えてきたところで、いつもと違う雰囲気に心音が跳ねる。何か、慌ただしく人が行き来している。中には白衣を着た人たちも見えた…………祈里。アオイさんの姿が見えた。「アオイさんっ!」思わず声をあげた。「あ、……ごめんなさい、食事まだ用意できてなくて。」「何か……あったんですか?」「あ、あぁ。ごめんなさい。大丈夫、祈里さんではないから。」祈里ではない。その言葉で、別の誰かだとわかって、安心してし
『……友へ元気?なんて言うのもおかしいわね。お互い、もう死にかけてるんだから……あれからどう?……あの絵は〇した?(燃やした?)まだ、余計なことしてって怒っている?最後のお節介、私、よく思いついたでしょ?あなたから聞かされた絵のこと、思い出して、咄嗟に頭の中でシナリオ作ったのよ。我ながら、うまいシナリオだったと思わない??もう知っていると思うけど、私、全部話したのよ。あなたには口止めされてたけれど、でもね、やっぱり私には可哀想に思えて、あなたが。ぜーんぶ話した。おかげでス
いつもの浜辺。辿り着いて、ブレーキをかけた。まっすぐ、波を見つめる祈里。ここへ来るまで、何一つ話はしなかった。ズボンのポケットに手が触れて、手紙のことを思い出す。「…ソンへさんから、君に。」彼女の前に手紙を差し出す。か細くなった手で受け取った。俺は車椅子の隣に腰を下ろした。封筒から2枚の便箋を取り出す彼女。パラパラと、目を通した。また便箋を重ねて整えると、目の前に持って行ったかと思ったら、3回ビリビリと便箋を破って、散らした。「あー、……あーっ!、あーっ!」瞬く間に潮風
彼女の後ろ姿、一段と細くなった身体。……今にも、崩れて消えてしまいそうだと感じた。……信じたくないけれど、もう『終わり』は近い。そう考えたら、背筋に冷たい何かが走る。……怖かった。血の気が引いていく感じがした。目の前の彼女は、いつかいなくなる。消えてしまう。もう笑顔も、声も、その体温も、消えてしまう。……薄れて言ってしまうんだ。覚えておきたくても、記憶は薄れて行ってしまう。留めて置くことは出来なくなる。どうすればいい?どうすれば、この恐怖に勝てる?部屋の前まで来ると、祈
ホスピスにつくと、抱えてきた手紙やノートやその他いろいろと預かったものを、アオイさんに託す。ここへ来るたびに、持参するものが多くなっていった。その度、アオイさんは目を丸くしてそれから笑って見せる。「ホント、こんなに沢山。これだけ、祈里さんが愛されているのだと思うと、……なんだかうらやましくなってきますね。」「……今日の容体は?」「ここ最近はずっと部屋に籠っていましたけれど……今は、海辺にいっていますよ。……ご案内しましょうか?」「お願いします。」一つ頭を下げた。アオイさんの
ソンへさんが逝去したと知らせを受けた。ナナが時折、様子を見に行っていた。俺も何度か足を運んだ。その度に、1人で逝かせないでねと念を押されるのが常だった。だからか、余計にソンへさんも一人では逝かせられないとナナは娘さんにも連絡をとっていたようだった。その甲斐あって、最後は娘さんとその家族に見送られることができた。数日して、その娘さんからナナへ連絡が入った。ソンへさんの遺品から、祈里宛の手紙が見つかったと。その手紙は出そうか出さまいか迷っていたようだったという。封はされておらず、
ナムジュナとナナの間に新しい命が生まれる。今の状況からナナは一人でその命をなかったものにしようとしていた。でも、できなかった……こうなって初めて、彼女の気持ちがわかったと言っていた。そして、ナムジュナの気持ちも。許せずにいたが、それも受け入れるとナナは言った。二人は、ナナからのプロポーズを機に籍を入れることになった。式や披露宴は行わない。体調が落ち着いてきたナナは島に行って彼女と話がしたいと言った。生まれる子供は女の子。彼女の名前を譲り受けたいと、そう彼女に伝えたいと。そし
ペンを手に取って、窓の外に視線を向ける。過去を振り返って、詠む君は、いつも笑顔だった。…あれから、毎日のように島に足を運んだ。会ってはくれなくても、何通も何通も手紙と絵は送り続けた。悪いのは君じゃない。間違ったのは、俺自身。それを許して欲しいとは言わない。…ただ、どうか最後は1人で逝って欲しくない。あの日、担当医から聞かされた、彼女のこと。もう、どちらかを取る、そんな選択肢を迫られている状況だと、ユナは聞かされて、それを話にきた。もう、放っては置けないからと。彼女はきっと、
翌日、始発の船で帰ることにしていた。ホスピスに行って、アオイさんに挨拶して帰ろうと思った。建物が見えて来たところで、手にゴミ袋を持ったアオイさんを見つけた。「こんにちわ」「こ、こんにちわ。」俺を見つけると、咄嗟に持っていた袋を自分の背中に隠すアオイさん。「……お帰りですか?」「はい。いろいろとありがとうございました。また、来ます。」そう言って、頭を下げた時に彼女の持っていた袋の中身が目に入った。焼け焦げた、自分が描いた祈里の絵。昨夜、アオイさんに託した絵。「……それ、」
夜になる頃には、荒れていた天候も回復していたけれど、船は明日まで出ないと言うことになり、結局島に1泊することになった。宿で、ビールを飲みながら、3人で祈里に手紙を書いた。何を書いたらいいか、分からなかった俺は、思い出せる彼女の姿を紙に描いた。ナムジュナは、まるで落書きのようなものを描き、村雨は花と言葉を添えた。「……なんだか、村雨さんが1番絵になる。」ナムジュナは、村雨が書いたものを見て言った。トントンと。宿の戸をノックする音。「はい」「……失礼します。食事、お持ちしました。
「先程のエンディングプランにあったように、知らせたくない相手の所に、貴方様のお名前がありましたでしょう?」「はい……」「……祈里さんに……それでも聞いて来ますね。……今日は、お部屋で過ごされています。昨夜から、少し熱があって……少し、お待ちくださいね。」「お願いします。」しばらくして戻ってきたアオイさんは、思った通り困った表情だった。「……今日のところはお引き取り頂けますか?」「…………」「…………」外から、サイレンのような音が響いてくる。「あら。天候が悪いので、船、欠
通された書斎のような部屋。机の上には、様々な書類が散乱していた。アオイさんは、本棚にあったひとつのファイルを取り出し、目の前に置いた。「ここに入居される方には、初めにエンディングプランと言うものを書いて貰います。これは、祈里さんのものです。入居者様に会いに来る方には、一通り目を通していただいて、どう最後を迎えたいのか、知っていただいています。もちろん、入居者様の了解を得た上で。……どうぞ、見てください。」差し出されたファイルを取って開く。久しぶりに見る彼女の顔写真。いつ撮っ
ソンへさんから教えられた彼女がいるというホスピス。小さな離島にあって、陸からの出入りは出来ないようになっていた。上陸するには海上からしか手段がない。今回はナムジュナと村雨が同行してくれる。義足を持参して、彼女の所へ向かった。顔が見れるか、会ってくれるのかも分からない。それでも、足を止める気にはなれなかった。海上タクシーでは、ホスピスに出向くのであろう人がチラホラ。「あんたは、ホスピスに入居するのかい?」海上タクシーの操縦をしていたおじさんにそう聞かれた。「いえ、人に会いに
「……確かに受け取ったわ。燃やすなんてもったいないけれど。話せて良かったわ。……あとのことはお願いしますね。私はもう、会いに行けないけれど。いい?1人で逝かせないで。」「……わかりました。」「それじゃぁ。お暇するわね。」「ありがとうございました。」ソンへさんは、絵を彼女に届けたら、自分も別のホスピスに入居するという。彼女の最後には付き添う自信がないという。辛すぎるのだと。最後にソンへさんに差し出されたのは一枚の離婚届けだった。彼女の署名はすでにされていた。迷うことなく
「……治療は?」村雨が尋ねた。「緩和療法だけね……痛みがあれば、それを和らげてあげるだけ……」「……残りの時間は?」また村雨が尋ねた。「……もう時間は……あまりないと思う。あの子に生きたいという意思が……もうね……だから……」「……」「会いに行きませんか?」村雨は真っ先にそう言うと思った。だけれども……「会いに行っても、会ってくれないわ。きっと……」「では、なぜ今日、この話を……」「私のわがままよ。ここまで話したとあの子が知ったら……本当に、もう口も聞いてくれな
「あなたたちがあの子にしたことは知っているわ。……それを咎めるつもりもない。あの子が、それをしようとしないから……」さっきまで笑っていた表情が曇る。言葉では咎めるつもりはないと言っているが、目の前の人は怒っている。「最初は言ったのよ。訴えるなり、なんなりして、慰謝料でもなんでも踏んだくればいいのにって……でもね、あの子。……悪いのは自分だというの。守ってあげられなかったのは自分だからって。だから、あなたたちを咎めることはできない。苦しくて、悲しくて、恨んでもいるのに。殺すこ
「最初はどうして会いにくるのか、全く理解できなかったわ。あの子とも、そしてあなたとも。喧嘩したのに。」そう言って、ソンへさんはニコッと笑いながらナナを見た。ナナは居心地悪そうに視線を泳がせる。「……きっと、さみしいおばさんだと思われているんだと思ったわ。夫に先立たれて、子供も出て行ったきり寄り付かなくなって、……私、口も性格も悪いから、友達もいなかった。だから、そんな私に気を使って、会いに来てくれているのだと思っていたの。それも、いつの間にか、会いに来てくれることが楽しみになって
「『家族』という絵を預かるように言われているの。その絵、まだあるかしら?」「村雨、持ってきてもらえるか?」「ハイ。」ソンへさんは椅子に腰かけると絵のことを切り出した。「その絵、どうされるのですか?……お部屋に飾るとか?」ナナはお茶とソンへさんが持ってきたアップルパイを並べながら聞く。「燃やすそうよ。」「……」「……」息が詰まった。「あら、やだ。……口が滑ったわね。……また怒られちゃうわ。」「……どうして、燃やすんです?」ナナは続けて聞く。そんなナナに不思議そうな表情を向
彼女がいなくなって、またこの屋敷はグレーな色彩に変わった。彼女が育んだ、鮮やかな空間はない。絵画教室もやめた……オードリーは、いつかまた帰ってくるかもしれないからと、学校が終わると庭に腰を下ろして、絵を描き続けた。彼女に覚えた花の名前を聞かせたいのだそう。ナムジュナは変わらず、自分の仕事をこなし、時折ユン先生に同行して、海外を回っている。ジスとアナから、ごくたまに絵葉書が送られてくるけれど、しばらく返事は書けていない。ナナはナムジュナを許せずにいて、それでもここに留まって、オードリー